コラム

経営も信仰も英語学習も、進化し淘汰される!

 松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、昭和のカリスマ経営者である。平成になれば、稲盛和夫など、モノづくりの大企業の名経営者を挙げることができる。昭和のおじさん世代なら、ビジネス書、経営ハウツー本など一冊は齧ったことのある日本の経済をけん引した巨人でもある。

 こうした実業家の理念や経営哲学、さらには、人間への洞察力などを、大方身に着けたとしても、令和の時代、ビジネスの世界で何かを成し遂げることはもちろんだが、大企業の中で出世は当然ながらおぼつかない。彼らの書籍を読み込んだとして、その組織の力となり、その企業に貢献することが果たしてできるであろうかといったテーマを掲げてみたいのである。

 

 以前、その出典は忘れてしまったが、その内容の核は覚えているので、言わせていただくが、信仰も、宗教も、古びる、時代遅れとなるという内容のそれである。こういうことである。日本最古の木造建築の法隆寺や薬師寺、京都の観光客数一位の清水寺や様々な室町時代以前建築の古刹などに関していえば、初詣の数、お札・お守りの売上数、こうした現世利益的大の寺院ではもはやないという現実のことである。関西だと伏見稲荷であり、関東だと成田山や川崎大師、明治神宮や鶴岡八幡宮である。大宰府や北野、湯島などの天神様信仰は例外とさえいえる。

 場所の関係もあろうが、成田山や川崎大師のルーツでもある弘法大師の聖地とは対照的に高野山の真言宗総本山への初詣など、また道元の永平寺などに家内安全、無病息災を日本中から祈願に訪れるなど聞き覚えがない。成田山は京成電鉄が、川崎大師は京急が、それぞれ、お菓子メーカーがバレンタインの習慣を作ったように、昭和の初期に慣例化したものだという。長野の善光寺は、依然として信仰が厚いようである。「一生に一度は善光寺参り」といったキャッチフレーズとて江戸時代にできたものである。お伊勢参りや富士登山が江戸庶民に始まったのと機を同じくする。

 

 話は飛ぶが、英語参考書とて同じである。昭和50年代以降、駿台の伊藤和夫の『英文解釈教室』を筆頭に、彼の参考書の類がバイブルであり、駿台の『基本英文700選』{※飯田康夫氏の『基本英文300選』は生徒に薦めてもいるし、以前横浜雙葉でも暗唱用に採用さえてもいた}や森一郎の『試験にでる英単語』などが驚異的な売上をあげ、有名大学合格の必須アイテムであった。ある意味、受験英語勉強のバイブルでさえあった時代である。今やこうした執筆者の名前はもちろん、参考書名、単語集名すら知らない高校生が少なく見積もっても、7割はいるものと推察できる。私の昭和の末の時代、『和文英訳の修行』や『英文をいかに読むか』『英文法解説』といった、1950年代の古典的名著の参考書を知っている友人の高校生が皆無だったのと全く同じである。

 

 法隆寺のお札より成田山のお札の方がご利益として効果があるといったブランンド信仰が、それは、伊藤和夫の参考書より、関正生の参考書の方が、時代にマッチした英語参考書であることとパラレル関係の証明でもある。英語の実力がつくということと同義ではないのだが、試験で高得点が取れる参考書の類は、技術上進化・進歩するのは、必定であろう。その典型が、清水建二氏の語源図鑑シリーズのミリオンセラー現象であり、『ヘミングウエイで学ぶ英文法』や『英文法鬼100則』などのヒット現象があげられよう。

 語源系参考書の良書は昔から地味ながらたくさんあったし、『鬼100則』で記載されている内容は、大手の予備校の、数少ない実力派講師などに出会えたら教えられていた内容である。また、受験英語を英文科で更に、言語学・英語学などでブラッシュアップした辣腕の英語教師であれば、秘匿して、教え子に地味に(やる気のあり、英語を真剣に学ぼうとする生徒に対して)披歴していた事柄でもある。

 もちろん、『鬼100則』の英文法の本質すら知らずに、TOEICや英検など資格系英語を、これまで極めようとする、そして、その習うより慣れろ的、一種、帰納法的英語学習法をし、自身の英語、英文法の限界を知り、もやもや感にとらわれてきた英語学習者が、ただ闇雲に英単語を暗記してきた社会人が、こぞって、『ヘミングウェイで学ぶ英文法』、『鬼100則』や『語源図鑑』を購入し、自身の英語の実力のリストラを行っているという英語学習者の心象風景が想像できるのである。

 話は、相当英語参考書の方へ脱線してしまったようだが、本題の名経営者のマネジメント書とその時代というテーマにもどるとしよう。

 

 平成の前半までは、会社の経営者、大企業の幹部、管理職の人間には、松下から稲盛まで、十把一絡げで申し上げれば、ピーター・ドラッカーのマネジメント的思考・発想は、必要条件であったということである。しかし、平成も後半ともなれば、それは、十分条件になれ果てたと申し上げてもさしつかえない。人間という生き物を束ねる力量よりもデジタル、パソコン、ITなどを自在に扱える、自在に駆使できる人間が必要条件として急浮上してきたからだ。

 はっきり言わせてもらえば、ドラッカーのドの字すら、松下幸之助や本田宗一郎の松や本でさえ知らなくても、プログラミングやコンピュータを自在に扱えれば、それで、世の何かのニーズ、需要を感知、察知して、それをビジネスに取り込み、適用、応用しさえすれば、株式上場、また、大手IT系企業を渡り歩くことも可能な時代になったということである。具体名は挙げないが、今や、プロ野球選手やJリーガーといったアスリートを凌ぐ勢いで、有名女優、美人タレントの結婚相手が、IT長者になる傾向がそれを証明してもいる。守護や守護代の身の上(商学部でマーケッティングやマネジメントを学んできた人間)でなくても、国人(大学などろくすっぽ出ていなくても、デジタルやコンピュータ、ネットなどに精通し、そのスキルを有するもの)でさえ、戦国大名になれる世の中の環境が出来上がってしまったのである。

 ここに、令和の時代、デジタル知識・技能、こうしたスキルを有することが、世の勝ち組となる必要条件ともなってしまった所以がある。松下幸之助の経営哲学や本田宗一郎の経営理念でさえ、十分条件と、影に隠れてしまった現実がある。極端ながら、昭和の時代、組織論で、二宮尊徳や上杉鷹山を持ち出す以上に、もはや、松下や本田の人間哲学や経営理念が経営、ビジネスで通用しないなどとは言わない、必要とされなくなったのである。それは、中国社会で、赤い資本主義が、人民に“パンとサーカス”さえ与えていれば、<自由や人権>といった人類普遍の理念・価値観など二の次でもかまわない、豊かで、便利であれば、国が間違った方向へ進もうと、一切口を挟まない、言えなくてもかまわないといった、社会通念と似たものがある。嫌な時代になったものである。

 

 ドラッカーの経営思想(≒企業道徳・倫理)でさえ、もはや、組織を維持発展する上では、少々時代に適応できないといった意見すらあるが、そこが、ドラッカー思想の奥深さで、彼は、もはや思想家の域に棚上げ、ビジネス成功者が、自身の成功を確認する規矩と成り上がってしまった嫌いがなくもない。UNIQLOの成功経営者柳井正氏が、自己の経営道程を確認するバイブル程度のものである。そのバイブルを読んでも、令和の時代勝ち組にはなれない真実がある。それは、弁護士や税理士の資格を取ったからと言って、それで、令和の世の中で真の意味での中流以上の収入で生活できる保障がない現実と相似関係をなしてもいる。であるからして、これからビジネスを始めるとか、事業を立ち上げるとか、ゼロから経営を始める人間には、“何の腹の足し”にもならいないと言ったら言い過ぎなのかもしれないが、令和の時代、デジタル・IT・ネット、更には、AIや5Gなど、第4次産業の武器を使わない第1次から第3次産業の人々にとっては、松下、本田、稲盛の経営のカリスマはまだ有効な経営の神ではあるが、第4次産業の勝者、つまり、平清盛や織田信長のような時代の勝者には、神は不要なのである。彼らにとっては、「神は死んだ」も同然なのだ。因に、第3次産業の中核をなすサービス産業の範疇にも入るアパレル産業の雄、UNIQLOが百貨店やオンワードやワールドなどと決定的に違うのは、軸足を第4次産業にシフトしている点にある。ちょうど、戦国時代に足軽に槍や刀を与えていた他の戦国大名と足軽鉄砲隊を組織した信長との違いといってもいい。しばらくは、UNIQLOの信長こと、柳井正への“本能寺の変”でも起きない限り、アパレルの一人勝ちは続いてゆくことだろう。

 事実、マイクロソフトのビル・ゲイツ、アマゾンのジェフ・ベソスやアップルのスティーブ・ジョブスなど、大学でマネジメントの猛勉強などしてはいなかっただろうし、松下幸之助や本田宗一郎にしろ、大学という高等教育機関(経済学や経営学の習得)すら出てはいなかった。経営学とは、企業の成功事例の最小公倍数のマネジメント公理である。それをケーススタディーで行っているのが、ハーバードのビジネススクールという大学院である。それ以前{※大学院以前}の大学4年間で、デジタルツールなり、リベラルアーツなりを学んできた秀才である。しかし、ゲイツやベソスなど大学中退者が多いのも、経営学とは、学ぶものではなく、自らが構築するものであるという謂いが、ここに成立する、いわば、経営とは哲学とされる所以でもある。

 結論を言うとしよう。大学で学ぶ経営学とやらは、令和の時代、ポストコロナの時代、盾としか機能しない学問となり、プログラミングなどのITツール、デジタルスキルこそ矛となるのである。

 


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