コラム
リモートワークとワーケーションの負の側面
今やコロナ禍の中、市民権を持つ一歩手前にまできているリモートワークとワーケーションというものについて私見を述べてみたい。
江戸時代、武家諸法度なるものがあった。その法は、あくまで武家にのみ適用されるものであって、京都の公卿衆や江戸大坂の庶民にはあずかり知らぬ法度でもあった。
そもそも、コロナ禍の状況下のより、外発的に中大企業で実施されている働き方スタイルであり、人命第一主義と効率主義を掛け算した、IT系大企業、そして、デジタルに親和性のある社員には、もってこいのワークスタイルではある。パンデミックからの必然の“解答”である。この二つの働き方改革の推進には、人命第一と効率性の両面しか見えてこないのである。このリモートワークとワーケーションなるものを、医学的見地とビジネス的観点からいえば、大方、是とする大衆の同意がみられよう。しかし、この二つの働き方には、人性論的視点、つまり、人間とはどういう生き物であり、産業革命以来、社会・会社、そして市民・社員との関係性で、どういう健全なるメンタルを維持してきたかという目線が抜け落ちているように思えて仕方がないのである。
物事には、人間を含め自然にいたるまで、男女、昼夜、火水、陽と陰、ハレとケ、パブリックとプライベート、フォーマルとカジュアルなど一種の二元論というものが存在している。
また、オンとオフ、曜日に日曜日から祭日に至るまで、メンタルの切り替えという慣習・慣例が近代社会になって確立されてもきた。
現代では、ジェンダー論で、男女格差を解消する方向へ移行する趨勢のなか、LGBTに象徴される社会の多様性を主張する考えに至るまで、まるで均一化と多様化というブレーキとアクセルを同時に踏み込んている大衆社会の“矛盾的盲点”を誰も指摘しようとはしない。鈴木敏文の名言だが、「現代は価値観が多様化しているように見えて、実は画一化している」これは、デジタル社会のプラスに見えて実は、“負”の側面なのである。
作家やミュージシャンの多くがよく口にする言葉、「締め切りがあるから作品がつくれる」、これなども、ある創作活動における期限という存在が、オンとオフとを無意識にメンタルに強いてもいる、よき業界の慣例となっているケースである。そしてアーティストにおける“ルーティン”というものの良き側面を生じさせてもいる。この締め切りは、一見、縛り、拘束の負の面に見えながらも、幼児子どものしつけの如く、生活習慣というものをある意味、律するまっとうな大人へするための通過儀礼に似てもいる。出版界、音楽界の、産業社会上の必要悪なのである。
ルソーの有名な言葉だが、「子供を不幸にするいちばん確実な方法は、いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである」というのも、人間にいける不快な、嫌悪するものへの忍耐、律する力を養うべしとする警告でもあろう。全ての仕事を家庭に持ち込む怖さを、この名言が皮肉っているようである。
さて本題に入るとしよう。このリモートワークとワーケーションなるものが、実は、ハレとケ、プライベートとパブリックというメンタルにおける切り替えの脳内スイッチを取っ払うことになりやしないかという懸念を提起したいのである。
『孤独な散歩者の夢想』の中でルソーが、『思考の整理学』の中で外山慈比古が、この二人も指摘していることだが、<あるアイデア、よい考えは、散歩している時にひらめく>と、ある人は“ああ、そういえばそうだ!”と実感するようなことを語ってもいる。また、桑田佳祐や矢沢永吉なども何気ない日常生活の中で、ふと名曲が下りてくる、だから、いつもそのメロディをボイスレコーダーに録音しているとも言う。そうである、発想・着想・ひらめき・リフレッシュというものは、日常と非日常のシャトル的行為の中にあるのである。
一般的に、人間とは弱いものである。その仕事を、時間や空間の制約なしに、自身の裁量で自由に任せられたら、量的には、是とするが、質的には、非とせざるをえない結論を出さざるをえない。中高生の勉強とて同じである。だらだら長時間勉強するより、短時間でもいい、集中してやった方が、効率的である。帰宅部は浪人し、バスケ部や卓球部の主将が現役でいい大学に合格する事例がそれを証明してもいる。
これは、何も仕事の側面ばかりではない。フランスでも話題になったが、コロナ禍で、リモートワークと称して、自宅で夫と妻が24時間向かい合っていることが原因だそうだ、DVが激増したのである。リモートワークのマイナスの側面である。日本とて同様である。サラリーマン川柳で有名な「亭主元気で留守がいい」、この妻の本音もかなわぬ状況に今やなりつつある。夫婦にとっても、ストレスの源、ましてや、2月末に安倍首相が出した学校一斉休校要請は、専業主婦にとっては、ダブルパンチとなった。子どもの世話と夫の存在が家事を背負ってもいる女性のメンタルを追い詰めたことは衆目の一致するところであろう。
白洲次郎・白洲正子夫妻、彼らは、まったく趣味志向が逆ベクトルであった。篠田正浩・岩下志麻夫妻は、同じ映画業界にいても、その監督と女優の生業を理解できる間柄にいる。周防正行・草刈民代夫妻とて同様である。趣味志向が同方向に、並行してベクトルが向いている。山下達郎・竹内まりや夫妻や桑田佳祐・原由子夫妻は、音楽という共通の目的を持つ同志である。創作という、ミュージシャン同様、オンとオフが公私において<幸福なる共存>をしている、ある目的に両者のベクトルが向いている理想的なカップルである。何々屋さんの夫婦で、個人商店を切り盛りしている仲睦ましいカップルは、このお二方の縮図でもある。最後は、プロ野球選手の夫婦である。管理栄養士の資格すら持つ妻が、夫の私生活を陰で支えてもいる場合も多い。しかし、遠征などで、一年の半分は自宅にいない。ちょうど、5時から10時まで精一杯のおもてなしをするフレンチやイタリアンのオーナーシェフを自宅で妻がやっているようなものである。夫の身体管理、客の要望、それぞれ120%応えようとする心意気というものを両者は、芯にもっているからそれが可能なのである。これは、T型ベクトルタイプとも言える。横軸の夫はある目的へ向いている、そのベクトルを下から縦軸に支える妻のベクトルがある形のカップルである。
このような夫婦のタイプに該当しないサラリーマン夫婦にとっては、リモートワークは地獄でもある。サルトルの言葉を引用するまでもないが、「地獄とは他人のことだ」これがリモートワーク成れの果てでもある。
次に、ワーケーションなるものである。これなんぞも、軽井沢、箱根あたりで、自然豊かな環境の中、オンラインで仕事をするというものであるが、私に言わせれば、これも、ハレとケ、昼と夜、頭の切り替えといったメンタルにおける、ある意味、いい刺激というものを放逐する働き方と言える。
よく言われる農業における栽培法として有名なのが、いちごやメロンの栽培、トマトやキューリの栽培である。あえて水を少ない、ぎりぎりの量で育てるそうである。この方が、甘い果実や野菜に育つからである。少ない水、これは植物には“辛いこと”であろう。倹約質素、このほうが、“立派な”大人に成長するとされる育て方に似たものがある。ワインで名高いブドウの産地は、寒暖差の激しい地域である。
自然豊か、ストレスのたまらない仕事環境で、最初のうちはいいかもしれないが、長期的視点に立つと、それは、果たして効率的で、生産的な働き方と言えるのか、はなはだ疑問である。これは、飽くまでも私の仮説である。軽井沢に自宅を構えて365日、そこで東京の大企業にリモートのみで仕事をするのと、ウィークデイは、東京の賃貸マンションから会社に通い、週末は、新幹線で軽井沢の中古の別荘か古民家あたりでオフを過ごすのと、どちらが、長期的視点に立ったとき、質の面はいうまでもないが、量の面でも効率的、生産的なのか、それは言わずもがなである。人類に観光業・旅行といったレジャーというものが存在する意義が、まさにその答えを出してくれてもいる。
よく過激なフェミニストが、ジェンダー論を錦の御旗にして、男女の差別を通り越し、男女の身体的観点をも無視した男女格差、さらには男女区別をも取っ払え!と声高に叫んでいる光景を目にする。これ同様に、今般のコロナ禍において、公私・ハレとケといったような人間生活の区分すらも撤廃しろとする風潮に違和感を禁じ得ない。
寝室とは、家屋の中の寝る場所である。常識的に、そこにテレビや事務机、パソコンやスマホは持ち込まないのが通例の日常生活というものであろう。家(ホーム)とは、社会の中の安寧・安息・息抜きの場所でもある。その精神・肉体の癒しの場に、仕事を持ち込む、いやそれを“社会化”してしまうと、ある意味、“地獄化”してしまう状況が想像できないのであろうか。いや、IT、デジタルをそもそも自在に使いおおせている部族は、公も私もなくても支障がないメンタルなのかしれない。
北海道が好き、沖縄が好き、毎年数回、また季節ごとに飛行機で旅行などする方に、よく、「そんなに好きなら、現地に引っ越して住めばいいじゃないですか?」と質問すると、「いや~、たまに行くからいいんですよ。住むのと旅行とは違います」と応じる。そうである。京都が好きだからといって住むとの、そこへ中年から東京人が住むのとは事情が違ってくるという真実をわきまえていらっしゃる。犬が好きな方でも、実際にペットを飼ってはいないという実態と似たものがある。好きな対象への部をわきまえておられる。
このリモートワークやらワーケーションやらは、コロナ禍の“避難地”、いや“避暑地”でもある。今や、ウーバーイーツの自転車配達員が激増しているようだが、コロナパニックが収束したら、この仕事は恐らく激減するであろう。こうした働き方は、コロナ禍の“あだ花”とも言っていいいかと思う。
※この文章を書き終えた2021年1月18日、奇しくも、その日の日経MJ(マーケット・ジャーナル)という世のトレンドキャッチーでもある業界紙で、次のような記事が載った。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴うテレワークの実施で、働くモチベーションが低いと感じている人が2割にのぼることがリクルートキャリアの調査でわかった。なかでもチームでする仕事が減った人の意欲がより低下する傾向がみられた。職場で人との関わり合いが仕事への意欲を左右する重要な要素とされており、企業は社員のやる気を高め職場環境づくりが課題となっている。(以下割愛)
詳しくは、MJを読んでいただければ、ご納得するはずである。ほらみたことか!この比率はこれからもっと上昇することであろう。
江戸時代、武家諸法度なるものがあった。その法は、あくまで武家にのみ適用されるものであって、京都の公卿衆や江戸大坂の庶民にはあずかり知らぬ法度でもあった。
そもそも、コロナ禍の状況下のより、外発的に中大企業で実施されている働き方スタイルであり、人命第一主義と効率主義を掛け算した、IT系大企業、そして、デジタルに親和性のある社員には、もってこいのワークスタイルではある。パンデミックからの必然の“解答”である。この二つの働き方改革の推進には、人命第一と効率性の両面しか見えてこないのである。このリモートワークとワーケーションなるものを、医学的見地とビジネス的観点からいえば、大方、是とする大衆の同意がみられよう。しかし、この二つの働き方には、人性論的視点、つまり、人間とはどういう生き物であり、産業革命以来、社会・会社、そして市民・社員との関係性で、どういう健全なるメンタルを維持してきたかという目線が抜け落ちているように思えて仕方がないのである。
物事には、人間を含め自然にいたるまで、男女、昼夜、火水、陽と陰、ハレとケ、パブリックとプライベート、フォーマルとカジュアルなど一種の二元論というものが存在している。
また、オンとオフ、曜日に日曜日から祭日に至るまで、メンタルの切り替えという慣習・慣例が近代社会になって確立されてもきた。
現代では、ジェンダー論で、男女格差を解消する方向へ移行する趨勢のなか、LGBTに象徴される社会の多様性を主張する考えに至るまで、まるで均一化と多様化というブレーキとアクセルを同時に踏み込んている大衆社会の“矛盾的盲点”を誰も指摘しようとはしない。鈴木敏文の名言だが、「現代は価値観が多様化しているように見えて、実は画一化している」これは、デジタル社会のプラスに見えて実は、“負”の側面なのである。
作家やミュージシャンの多くがよく口にする言葉、「締め切りがあるから作品がつくれる」、これなども、ある創作活動における期限という存在が、オンとオフとを無意識にメンタルに強いてもいる、よき業界の慣例となっているケースである。そしてアーティストにおける“ルーティン”というものの良き側面を生じさせてもいる。この締め切りは、一見、縛り、拘束の負の面に見えながらも、幼児子どものしつけの如く、生活習慣というものをある意味、律するまっとうな大人へするための通過儀礼に似てもいる。出版界、音楽界の、産業社会上の必要悪なのである。
ルソーの有名な言葉だが、「子供を不幸にするいちばん確実な方法は、いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである」というのも、人間にいける不快な、嫌悪するものへの忍耐、律する力を養うべしとする警告でもあろう。全ての仕事を家庭に持ち込む怖さを、この名言が皮肉っているようである。
さて本題に入るとしよう。このリモートワークとワーケーションなるものが、実は、ハレとケ、プライベートとパブリックというメンタルにおける切り替えの脳内スイッチを取っ払うことになりやしないかという懸念を提起したいのである。
『孤独な散歩者の夢想』の中でルソーが、『思考の整理学』の中で外山慈比古が、この二人も指摘していることだが、<あるアイデア、よい考えは、散歩している時にひらめく>と、ある人は“ああ、そういえばそうだ!”と実感するようなことを語ってもいる。また、桑田佳祐や矢沢永吉なども何気ない日常生活の中で、ふと名曲が下りてくる、だから、いつもそのメロディをボイスレコーダーに録音しているとも言う。そうである、発想・着想・ひらめき・リフレッシュというものは、日常と非日常のシャトル的行為の中にあるのである。
一般的に、人間とは弱いものである。その仕事を、時間や空間の制約なしに、自身の裁量で自由に任せられたら、量的には、是とするが、質的には、非とせざるをえない結論を出さざるをえない。中高生の勉強とて同じである。だらだら長時間勉強するより、短時間でもいい、集中してやった方が、効率的である。帰宅部は浪人し、バスケ部や卓球部の主将が現役でいい大学に合格する事例がそれを証明してもいる。
これは、何も仕事の側面ばかりではない。フランスでも話題になったが、コロナ禍で、リモートワークと称して、自宅で夫と妻が24時間向かい合っていることが原因だそうだ、DVが激増したのである。リモートワークのマイナスの側面である。日本とて同様である。サラリーマン川柳で有名な「亭主元気で留守がいい」、この妻の本音もかなわぬ状況に今やなりつつある。夫婦にとっても、ストレスの源、ましてや、2月末に安倍首相が出した学校一斉休校要請は、専業主婦にとっては、ダブルパンチとなった。子どもの世話と夫の存在が家事を背負ってもいる女性のメンタルを追い詰めたことは衆目の一致するところであろう。
白洲次郎・白洲正子夫妻、彼らは、まったく趣味志向が逆ベクトルであった。篠田正浩・岩下志麻夫妻は、同じ映画業界にいても、その監督と女優の生業を理解できる間柄にいる。周防正行・草刈民代夫妻とて同様である。趣味志向が同方向に、並行してベクトルが向いている。山下達郎・竹内まりや夫妻や桑田佳祐・原由子夫妻は、音楽という共通の目的を持つ同志である。創作という、ミュージシャン同様、オンとオフが公私において<幸福なる共存>をしている、ある目的に両者のベクトルが向いている理想的なカップルである。何々屋さんの夫婦で、個人商店を切り盛りしている仲睦ましいカップルは、このお二方の縮図でもある。最後は、プロ野球選手の夫婦である。管理栄養士の資格すら持つ妻が、夫の私生活を陰で支えてもいる場合も多い。しかし、遠征などで、一年の半分は自宅にいない。ちょうど、5時から10時まで精一杯のおもてなしをするフレンチやイタリアンのオーナーシェフを自宅で妻がやっているようなものである。夫の身体管理、客の要望、それぞれ120%応えようとする心意気というものを両者は、芯にもっているからそれが可能なのである。これは、T型ベクトルタイプとも言える。横軸の夫はある目的へ向いている、そのベクトルを下から縦軸に支える妻のベクトルがある形のカップルである。
このような夫婦のタイプに該当しないサラリーマン夫婦にとっては、リモートワークは地獄でもある。サルトルの言葉を引用するまでもないが、「地獄とは他人のことだ」これがリモートワーク成れの果てでもある。
次に、ワーケーションなるものである。これなんぞも、軽井沢、箱根あたりで、自然豊かな環境の中、オンラインで仕事をするというものであるが、私に言わせれば、これも、ハレとケ、昼と夜、頭の切り替えといったメンタルにおける、ある意味、いい刺激というものを放逐する働き方と言える。
よく言われる農業における栽培法として有名なのが、いちごやメロンの栽培、トマトやキューリの栽培である。あえて水を少ない、ぎりぎりの量で育てるそうである。この方が、甘い果実や野菜に育つからである。少ない水、これは植物には“辛いこと”であろう。倹約質素、このほうが、“立派な”大人に成長するとされる育て方に似たものがある。ワインで名高いブドウの産地は、寒暖差の激しい地域である。
自然豊か、ストレスのたまらない仕事環境で、最初のうちはいいかもしれないが、長期的視点に立つと、それは、果たして効率的で、生産的な働き方と言えるのか、はなはだ疑問である。これは、飽くまでも私の仮説である。軽井沢に自宅を構えて365日、そこで東京の大企業にリモートのみで仕事をするのと、ウィークデイは、東京の賃貸マンションから会社に通い、週末は、新幹線で軽井沢の中古の別荘か古民家あたりでオフを過ごすのと、どちらが、長期的視点に立ったとき、質の面はいうまでもないが、量の面でも効率的、生産的なのか、それは言わずもがなである。人類に観光業・旅行といったレジャーというものが存在する意義が、まさにその答えを出してくれてもいる。
よく過激なフェミニストが、ジェンダー論を錦の御旗にして、男女の差別を通り越し、男女の身体的観点をも無視した男女格差、さらには男女区別をも取っ払え!と声高に叫んでいる光景を目にする。これ同様に、今般のコロナ禍において、公私・ハレとケといったような人間生活の区分すらも撤廃しろとする風潮に違和感を禁じ得ない。
寝室とは、家屋の中の寝る場所である。常識的に、そこにテレビや事務机、パソコンやスマホは持ち込まないのが通例の日常生活というものであろう。家(ホーム)とは、社会の中の安寧・安息・息抜きの場所でもある。その精神・肉体の癒しの場に、仕事を持ち込む、いやそれを“社会化”してしまうと、ある意味、“地獄化”してしまう状況が想像できないのであろうか。いや、IT、デジタルをそもそも自在に使いおおせている部族は、公も私もなくても支障がないメンタルなのかしれない。
北海道が好き、沖縄が好き、毎年数回、また季節ごとに飛行機で旅行などする方に、よく、「そんなに好きなら、現地に引っ越して住めばいいじゃないですか?」と質問すると、「いや~、たまに行くからいいんですよ。住むのと旅行とは違います」と応じる。そうである。京都が好きだからといって住むとの、そこへ中年から東京人が住むのとは事情が違ってくるという真実をわきまえていらっしゃる。犬が好きな方でも、実際にペットを飼ってはいないという実態と似たものがある。好きな対象への部をわきまえておられる。
このリモートワークやらワーケーションやらは、コロナ禍の“避難地”、いや“避暑地”でもある。今や、ウーバーイーツの自転車配達員が激増しているようだが、コロナパニックが収束したら、この仕事は恐らく激減するであろう。こうした働き方は、コロナ禍の“あだ花”とも言っていいいかと思う。
※この文章を書き終えた2021年1月18日、奇しくも、その日の日経MJ(マーケット・ジャーナル)という世のトレンドキャッチーでもある業界紙で、次のような記事が載った。
テレワーク、働く意欲低下
新型コロナウイルスの感染拡大に伴うテレワークの実施で、働くモチベーションが低いと感じている人が2割にのぼることがリクルートキャリアの調査でわかった。なかでもチームでする仕事が減った人の意欲がより低下する傾向がみられた。職場で人との関わり合いが仕事への意欲を左右する重要な要素とされており、企業は社員のやる気を高め職場環境づくりが課題となっている。(以下割愛)
詳しくは、MJを読んでいただければ、ご納得するはずである。ほらみたことか!この比率はこれからもっと上昇することであろう。