コラム
財界の要望に応えられぬ大学という機関
「業績は体質の結果である」(鈴木敏文)
「売り上げは上げなくていい、利益を上げろ」(鈴木敏文)
ここ最近、企業によるデータ改ざん事件があとを絶たない。これも、バブルが弾け、失われた20年以上の間に、結果第一主義という考えを生んだ、小泉構造改革による、新自由主義が、ものづくり日本の精神をも蝕んできた証ともいえない現象でもある。
KYB免震データ偽装、東レ品質データ改ざん、神戸製鋼データ改ざん、などなど、その萌芽的事件は、2006年に発覚した、ヒューザーと姉歯建築士によるものが記憶に新しい。本来ならば、4000万以上もするマンションを3000万足らずで購入できることで、ブームとなり、実は、鉄骨など、建築基準・規定などに満たない物件を販売し、ブームとなり、事の顛末が発覚した事件です。個人的な話をすると、私の知人の不動産関係の人に聞いた話ですが、「マンションを購入するなら、1990年後半から2000年代に建てられた新築のものより、バブル期に建設された中古マンションを購入する方が賢明です。というのも、そのバブル期に建てられたマンションは、建築資材など、最良のものを、ふんだんに使って建てられたからです。当然、お金があふれかえっていた庶民と企業の贅沢な時代でもあったから可能だったのです。不況期に入って、建設されたマンションは、鉄骨や内装など、相当コスト重視で作られていて、建設基準ギリギリクリアー的マンションが多いからです」
信長・秀吉の安土桃山文化と家康・秀忠・家光の寛永文化の違いとも言えましょうか、絢爛豪華から地味簡素へという文化の流れ。また、ものづくりの意識・理念といったものが、東郷平八郎・乃木希典から段々と、幕末を体験しない次の世代の軍人たちが、日本を不幸へと導いてゆく東条英機まで‘軍人気質の劣化’が顕著になってゆくのと、同じ現象が、今般の企業のデータ改ざん事件として、日本経済に嫌な影を落として、ジャパンアズナンバーワンから、ジャパンアズナンバースリーへと斜陽の懸念すら感じさせる今日この頃です。
では、こうした、大企業により、特にモノづくり大国を担っている日本では、スバルや日産に代表される自動車のリコール問題が、やたらとニュース等で、毎月の様に報じられている。それは、毎日、電車の人身事故(飛び込み自殺)によるダイヤの乱れ、電車のストップなど同様に、「今日もか!」と呟くサラリーマンが多いと思います。前者は、企業人としてモラルの低下、理念の喪失、トップと現場のギャップ、そして後者は、首切り、非正規雇用、低賃金、ブラック残業など、様々の要件が、サラリーマンを、疎外感へと駆り立ててもいる証左でありましょう。
こうした、世の中の現象、とりわけ、企業がらみの“社会問題”の病巣は、品質重視からコスト重視へ、ポストバブルの不況時期、そして、小泉構造改革による、新自由主義の悪しき側面の流入の2000年代に、結果第一主義という方へシフトしたことにあると思われます。そして、企業は、コスト重視、品質二の次意識へ、安かろう、少々悪かろう的意識でモノづくりへ方向転換し、世は、100円ショップに象徴される、また、マックの80円バーガーにも象徴された、デフレ時代へと突入していったのです。世の日本人は、ここ20年で、コストパフォーマンスに根を張るデフレマインドをすっかり身に付けてしまったわけです。バブル期に、大学生、また新入社員を経験した50代前後の人たちは、やはり、ブランドや高級品にこだわる消費行動をとるように、40代前後の人たちは、バブルが弾けて大学生となった人たちです。また、関係ないですが、ゆとり教育世代(30代前半)の先輩格でもあります。こうした40代前後の社会人は、デフレマインドが普通、当たり前、よって、コストパフォーマンスをまず意識する。こうした部族でもある。従って、今でもなお、格安居酒屋が、世のサラリーマンの絶大な支持を受けて大盛況でもあるのです。こうした、デフレマインドの堅持している現代の働き盛りの社会人に向けて、安倍政権が、“デフレからの脱却”という旗印を掲げても、庶民は踊らないのは必定なのです。この大衆の、コスパを分母としたデフレマインドという幽霊に、企業も波長を合わせざるを得ない。よって、近年の大企業によるデータ改ざん事件が、それを象徴する事件として、実態を現し始めてきたのです。
そこで話を英語教育に敷衍すると、こうした経済の状況と同じ道を辿ろう、いやもう辿っているというのが私の見解なのです。
今でも、メイドインジャパンは、商品のブランド価値として、まだ、その威光をとどめています。中国人など、秋葉原での爆買いなどは、このメイドインジャパンを意識して購入するそうです。様々なメーカーは、工場を中国からベトナム、そしてバングラディシュなど人件費の安い第三国へと鞍替えしています。
メイドインジャパンの英検、準メイドインジャパンのTOEIC、メイドインアメリカのTOEFL、メイドインジャパンもどきのTEAPやGTECなど、資格系テスト華やかなりし今日ですが{※その前夜でもあります}、この大盛況も、資格系テストのバブルとさえ断言できるのです。東京オリンピックの宴の後、このバブルは弾けるでしょう、そして、弾けた後に、文科省は、こうした資格系試験を、大学入試センター試験にとって換える、方針を出しましたが、これなんぞ、数年で、逆戻り、ゆとり教育を引っ込めたのと同じ姿勢をとると私は睨んでいます。
『英検タイトホルダーの実体』のコラム欄をお読みいただければ、お分りのように、その英検のX級と、その謳っている規定内容とその本人の実力が如何に釣り合わないか、この現実は、文科省の連中は分かっていない。カリスマ予備校講師として名高い安河内哲也氏など、「大学時代に英検1級をゲットして、実際に、きちんと話せるようになるまでには10年かかった」とまで吐露しています。また、社会人の中で、TOEICで高得点をゲットしようとも、仕事で実際自在に使えている人が、どれほどいるかは、『TOEIC亡国論』(集英社新書)をお読みいただければ明々白々です。
これは、大学時代に、あるビジネス書で読んだ文言です。
「ある企業が、売り上げを上げて、右肩上がりに規模が拡大しているかに見えて、即ち、成長企業と人々には目に映る。実は、その企業の体質が、衰えている、蝕まれている事象があるものです」
バブル期のダイエーであり、セゾングループ(西友や西武百貨店など)であります。この2大流通企業は、今は、平家政権の如く、跡形もなく、‘つゆのあとさき’でもあります。
私の塾の生徒を、実際に教えていて、つくづく思うことは、‘名ばかり英検タイトルホルー’が、非常に目に付くということです。これは、大学の世界においても同様で、TOEIC高得点ホルダーが、実社会に出ても、どれほど使い物にならない人材か、企業の幹部は了解しているはずです。しかし、これは、内田樹氏も『下流社会~学ばないこどもたち・働かない若者たち~』(講談社文庫)の中で述べられていることですが、学校や大学などという場所は、先が読める品質保証のついた製品を送り出すところではないと断言しています。その一方、経団連会長の中西宏明氏は、「大学の証明書を品質保証にしたい」(週刊東洋経済‘就活ルール廃止の衝撃 採用クライシス’特集2018年10月27日号)と語っておられたが、これなんぞは、昔から言われてきた台詞で、「日本の大学は入りやすく、出やすい、だから、アメリカ型の入りやすく、出にくいシステムにすべである」論とマッチするものです。この中西氏の発言は、会長本人が理系出身であることから、理系学生には当然適用できましょう。しかし、その理系の論理は、文系学生には適応外なのです。文系学生に関して言えば、その学生が、いくら真面目にキャンパスの授業に出て、オール優(A)だったにしろ、自身でプライベートで、様々な知的経験をして、真のリベラルアーツを身に付けた学生かは、理系の学生のように、研究対象、研究実績など計量・測定・判断することは困難なのです。その代表格が、英語の実力とも言ってもいいものです。ですから、学生が、オール優(A)を目指しはするが{※TOEICで高得点をゲットし、履歴書に花を添えるため}、しかし、私生活では、一切、歴史、哲学、文学、芸術といったジャンルの本を前向きに、全く読まない学生が、文系学生の‘お勉強’だけが出来る、知的ひ弱な学生が量産されてしまう事態を招くのです。英語でもしかりです。ですから、大学が機能不全に陥っている今日この頃だからこそ、高校では、従来の骨太の、ある意味、文法、読解、訳読、英作などをしっかりとやり、大学という場を、それの‘アンラーニング’{※意識的に文法や訳読を‘ネイティブ’のように忘れてゆく作業}の場にすべきであるというのが私の考えでもある。大学では、もう、語学や教養などは教えてはくれません。企業の顔色を窺って、就活で有利になるノウハウ・スキル・流行りの上っ面の知識などです。
今こそ、文系の知的“野人”たち、早稲田大学の中退者にこそ、学ぶべき姿、鏡とも言うべきところがあるのです。早稲田は、昔は、学生1流、設備2流、教授3流と揶揄されていた時代、早稲田は、中退者こそ、大物になるというジンクスまであった。更に、一昔前まで、中退1流、留年2流、卒業3流という言い方まであったそうです。こうした‘早稲田の伝統’が、薄れつつあります。早稲田の慶應化と指摘される点でもあるのです。国際教養学部や文化構想学部などに象徴されるように、真面目に授業に出席する学生の数が今では慶應を凌ぐまでになっているそうです。早稲田大学は、政経学部に数学(数ⅠAまで)を課す方針などだしましたが、ある意味、自身の存在理由を喪失していると皮肉くりたくなるのです。中途半端です。慶應経済の後追いです。因みに、慶應経済は、数学ⅡBまで試験範囲です。早稲田の国際教養学部など、慶應のSFCを猿真似をしても、その学部出身者で、有名人・財界人・文化人など、有名な人がどれほどいましょうや?SFCの比ではない。早稲田は、大橋巨泉、野坂昭如、永六輔、タモリと綺羅星のごとく世の文化に貢献した巨人を輩出してきました。中でも、大橋巨泉は、日本大学第一中学・高校から早稲田の第一政経学部に進学したが、英語なんぞは、そうした学校(日大や早稲田)ではなく、アテネフランセで身に付けたとまで豪語している。私の大学院時代の知己、現在慶應大学でフランス語の講師を務められていて、NHKラジオフランス語講座の講師までやられていた倉舘健一氏なども自身のブログで、「大学の仏文科{※実際に日吉で1年からフランス語を学んでいてもです}に進んではみたものの、フランス語の文法など一切身に付かず、個人でアテネフランセに通って真のフランス語の実力をつけた」といった、大学の語学という授業が如何に身に付かないものであったかを、怨嗟の愚痴風に吐露しておられる。
ここで、敢えて、極端な譬えをしますが、現代のコツコツ真面目に授業に出席し、「先生!今日は宿題はないのですか?」とゼミで発言する学生の質は、100円ショップで売られている陶器・磁器の類であり。標準的・丈夫で、格安の商品。それに対して、昔の早稲田の文化人・知識人は、名工が、薪と窯を使い焼く陶器・磁器の類であります。ほとんどが“失敗作品”(その名工に目にとってはのことです)でありながら、数千に一つ、名品が生まれる。大学というトポス(場所)は、電気窯で、同じ物を均質に生産するとしたならば、それは、専門学校とは何ら変わりはないであろう。大学という場所は、結果がわからない、何が生まれてくるのか予想もつかないのが、本来の姿でもあるのです。文科省主導による、文系学部廃止問題や、准教授任期制などは、その効率主義の典型の何ものでもないと言えましょう。現在のアカデミックの流れからすれば、予測不能の近未来などに澎湃と沸き起こる様々な難題を解決へと導く能力のある、骨太の知的“野人”などは、大学という機関からは、ますます生まれにくくなっているのが実態です。
では本題に戻ります。語学というものは、正規の教育機関というより、在野の、ある意味、日陰者的存在{塾・予備校など}で、自身の内発的学習意欲があって、初めて身に付くものなのです。その証拠に2016年に『ルポ塾歴社会』(幻冬舎新書・おおたとしまさ著)という、権力の二重構造ならぬ、教育の二重構造を白日の下にさらしたことが、世の教育熱心な親御さんの溜飲をさげたと思います。また、『予備校が教育を救う』(文春新書・丹羽健夫著)という本をお読みいただければ、予備校が如何に現代の中等教育ではなくてはならない存在かが明白に伝わってもきます。丹羽氏は、河合塾の理事長を務められ、立命館大学経営学部客員教授でもある業界きっての教育通でもある人物です。
1970年代までは、学校という場が、文法、構文、訳読を習う場で、英会話といった実用英語は、自身で、NHKラジオ講座や、英会話スクールなど、プライベートでひっそりと学んでいた。それが、80年代後半から、特に、バブルが弾けて以降、学校という場が、ごっこ的英会話、薄っぺらなトラベル英会話、実用英語もどき、そうした表層的な英語を、授業崩壊的な空気(※内職する生徒が多い)の中で行われてきた。従来の英文や読解、和訳や英作文能力は、塾や予備校で学ばざるをえない状況になった。いわば、逆転現象です。公立中学・高校は、文科省の、いわば、ゆとりの英語教育を行わざるをえず、面従腹背の授業展開をしているところは、マシですが、その通りに英語授業を行っているところは、悲惨な状況でしょう。そうでない公立学校のクラスがあるとすれば、恐らく、塾・予備校に通う比率が相当高いところだと考えられます。ですから、世の親御さんでも、文科省不信者に限って、中学受験させる傾向も高いのです。
そうなのです、英語のみならず、アクティブ・ラーニングにしても、道徳教育にして、知識暗記系というこれまで日陰者にされてきた領域は、学校という公的場では放逐されて、生きる力、グローバル社会で生き延びる知恵、また、使える英語などなどと美辞麗句を用いて政府は喧伝・推奨しますが、実はこれまでの文法や訳読などは、植物の表面には、見えない根や土壌のようなものなのです。世の軽薄な親御さんは、幹や枝にさえ目を向けない、葉っぱや果実、そして、花などにばかり目が行くのです。それが、英検、TOEICといった資格系テスト華やかなりし狂想曲に聞こえているのは、私が命名した、英語教育保守派の鳥飼玖美子氏や斉藤兆史、また、斉藤孝氏や林修氏なのです。時代が見え透いている賢者たちです。
「売り上げは上げなくていい、利益を上げろ」(鈴木敏文)
ここ最近、企業によるデータ改ざん事件があとを絶たない。これも、バブルが弾け、失われた20年以上の間に、結果第一主義という考えを生んだ、小泉構造改革による、新自由主義が、ものづくり日本の精神をも蝕んできた証ともいえない現象でもある。
KYB免震データ偽装、東レ品質データ改ざん、神戸製鋼データ改ざん、などなど、その萌芽的事件は、2006年に発覚した、ヒューザーと姉歯建築士によるものが記憶に新しい。本来ならば、4000万以上もするマンションを3000万足らずで購入できることで、ブームとなり、実は、鉄骨など、建築基準・規定などに満たない物件を販売し、ブームとなり、事の顛末が発覚した事件です。個人的な話をすると、私の知人の不動産関係の人に聞いた話ですが、「マンションを購入するなら、1990年後半から2000年代に建てられた新築のものより、バブル期に建設された中古マンションを購入する方が賢明です。というのも、そのバブル期に建てられたマンションは、建築資材など、最良のものを、ふんだんに使って建てられたからです。当然、お金があふれかえっていた庶民と企業の贅沢な時代でもあったから可能だったのです。不況期に入って、建設されたマンションは、鉄骨や内装など、相当コスト重視で作られていて、建設基準ギリギリクリアー的マンションが多いからです」
信長・秀吉の安土桃山文化と家康・秀忠・家光の寛永文化の違いとも言えましょうか、絢爛豪華から地味簡素へという文化の流れ。また、ものづくりの意識・理念といったものが、東郷平八郎・乃木希典から段々と、幕末を体験しない次の世代の軍人たちが、日本を不幸へと導いてゆく東条英機まで‘軍人気質の劣化’が顕著になってゆくのと、同じ現象が、今般の企業のデータ改ざん事件として、日本経済に嫌な影を落として、ジャパンアズナンバーワンから、ジャパンアズナンバースリーへと斜陽の懸念すら感じさせる今日この頃です。
では、こうした、大企業により、特にモノづくり大国を担っている日本では、スバルや日産に代表される自動車のリコール問題が、やたらとニュース等で、毎月の様に報じられている。それは、毎日、電車の人身事故(飛び込み自殺)によるダイヤの乱れ、電車のストップなど同様に、「今日もか!」と呟くサラリーマンが多いと思います。前者は、企業人としてモラルの低下、理念の喪失、トップと現場のギャップ、そして後者は、首切り、非正規雇用、低賃金、ブラック残業など、様々の要件が、サラリーマンを、疎外感へと駆り立ててもいる証左でありましょう。
こうした、世の中の現象、とりわけ、企業がらみの“社会問題”の病巣は、品質重視からコスト重視へ、ポストバブルの不況時期、そして、小泉構造改革による、新自由主義の悪しき側面の流入の2000年代に、結果第一主義という方へシフトしたことにあると思われます。そして、企業は、コスト重視、品質二の次意識へ、安かろう、少々悪かろう的意識でモノづくりへ方向転換し、世は、100円ショップに象徴される、また、マックの80円バーガーにも象徴された、デフレ時代へと突入していったのです。世の日本人は、ここ20年で、コストパフォーマンスに根を張るデフレマインドをすっかり身に付けてしまったわけです。バブル期に、大学生、また新入社員を経験した50代前後の人たちは、やはり、ブランドや高級品にこだわる消費行動をとるように、40代前後の人たちは、バブルが弾けて大学生となった人たちです。また、関係ないですが、ゆとり教育世代(30代前半)の先輩格でもあります。こうした40代前後の社会人は、デフレマインドが普通、当たり前、よって、コストパフォーマンスをまず意識する。こうした部族でもある。従って、今でもなお、格安居酒屋が、世のサラリーマンの絶大な支持を受けて大盛況でもあるのです。こうした、デフレマインドの堅持している現代の働き盛りの社会人に向けて、安倍政権が、“デフレからの脱却”という旗印を掲げても、庶民は踊らないのは必定なのです。この大衆の、コスパを分母としたデフレマインドという幽霊に、企業も波長を合わせざるを得ない。よって、近年の大企業によるデータ改ざん事件が、それを象徴する事件として、実態を現し始めてきたのです。
そこで話を英語教育に敷衍すると、こうした経済の状況と同じ道を辿ろう、いやもう辿っているというのが私の見解なのです。
今でも、メイドインジャパンは、商品のブランド価値として、まだ、その威光をとどめています。中国人など、秋葉原での爆買いなどは、このメイドインジャパンを意識して購入するそうです。様々なメーカーは、工場を中国からベトナム、そしてバングラディシュなど人件費の安い第三国へと鞍替えしています。
メイドインジャパンの英検、準メイドインジャパンのTOEIC、メイドインアメリカのTOEFL、メイドインジャパンもどきのTEAPやGTECなど、資格系テスト華やかなりし今日ですが{※その前夜でもあります}、この大盛況も、資格系テストのバブルとさえ断言できるのです。東京オリンピックの宴の後、このバブルは弾けるでしょう、そして、弾けた後に、文科省は、こうした資格系試験を、大学入試センター試験にとって換える、方針を出しましたが、これなんぞ、数年で、逆戻り、ゆとり教育を引っ込めたのと同じ姿勢をとると私は睨んでいます。
『英検タイトホルダーの実体』のコラム欄をお読みいただければ、お分りのように、その英検のX級と、その謳っている規定内容とその本人の実力が如何に釣り合わないか、この現実は、文科省の連中は分かっていない。カリスマ予備校講師として名高い安河内哲也氏など、「大学時代に英検1級をゲットして、実際に、きちんと話せるようになるまでには10年かかった」とまで吐露しています。また、社会人の中で、TOEICで高得点をゲットしようとも、仕事で実際自在に使えている人が、どれほどいるかは、『TOEIC亡国論』(集英社新書)をお読みいただければ明々白々です。
これは、大学時代に、あるビジネス書で読んだ文言です。
「ある企業が、売り上げを上げて、右肩上がりに規模が拡大しているかに見えて、即ち、成長企業と人々には目に映る。実は、その企業の体質が、衰えている、蝕まれている事象があるものです」
バブル期のダイエーであり、セゾングループ(西友や西武百貨店など)であります。この2大流通企業は、今は、平家政権の如く、跡形もなく、‘つゆのあとさき’でもあります。
私の塾の生徒を、実際に教えていて、つくづく思うことは、‘名ばかり英検タイトルホルー’が、非常に目に付くということです。これは、大学の世界においても同様で、TOEIC高得点ホルダーが、実社会に出ても、どれほど使い物にならない人材か、企業の幹部は了解しているはずです。しかし、これは、内田樹氏も『下流社会~学ばないこどもたち・働かない若者たち~』(講談社文庫)の中で述べられていることですが、学校や大学などという場所は、先が読める品質保証のついた製品を送り出すところではないと断言しています。その一方、経団連会長の中西宏明氏は、「大学の証明書を品質保証にしたい」(週刊東洋経済‘就活ルール廃止の衝撃 採用クライシス’特集2018年10月27日号)と語っておられたが、これなんぞは、昔から言われてきた台詞で、「日本の大学は入りやすく、出やすい、だから、アメリカ型の入りやすく、出にくいシステムにすべである」論とマッチするものです。この中西氏の発言は、会長本人が理系出身であることから、理系学生には当然適用できましょう。しかし、その理系の論理は、文系学生には適応外なのです。文系学生に関して言えば、その学生が、いくら真面目にキャンパスの授業に出て、オール優(A)だったにしろ、自身でプライベートで、様々な知的経験をして、真のリベラルアーツを身に付けた学生かは、理系の学生のように、研究対象、研究実績など計量・測定・判断することは困難なのです。その代表格が、英語の実力とも言ってもいいものです。ですから、学生が、オール優(A)を目指しはするが{※TOEICで高得点をゲットし、履歴書に花を添えるため}、しかし、私生活では、一切、歴史、哲学、文学、芸術といったジャンルの本を前向きに、全く読まない学生が、文系学生の‘お勉強’だけが出来る、知的ひ弱な学生が量産されてしまう事態を招くのです。英語でもしかりです。ですから、大学が機能不全に陥っている今日この頃だからこそ、高校では、従来の骨太の、ある意味、文法、読解、訳読、英作などをしっかりとやり、大学という場を、それの‘アンラーニング’{※意識的に文法や訳読を‘ネイティブ’のように忘れてゆく作業}の場にすべきであるというのが私の考えでもある。大学では、もう、語学や教養などは教えてはくれません。企業の顔色を窺って、就活で有利になるノウハウ・スキル・流行りの上っ面の知識などです。
今こそ、文系の知的“野人”たち、早稲田大学の中退者にこそ、学ぶべき姿、鏡とも言うべきところがあるのです。早稲田は、昔は、学生1流、設備2流、教授3流と揶揄されていた時代、早稲田は、中退者こそ、大物になるというジンクスまであった。更に、一昔前まで、中退1流、留年2流、卒業3流という言い方まであったそうです。こうした‘早稲田の伝統’が、薄れつつあります。早稲田の慶應化と指摘される点でもあるのです。国際教養学部や文化構想学部などに象徴されるように、真面目に授業に出席する学生の数が今では慶應を凌ぐまでになっているそうです。早稲田大学は、政経学部に数学(数ⅠAまで)を課す方針などだしましたが、ある意味、自身の存在理由を喪失していると皮肉くりたくなるのです。中途半端です。慶應経済の後追いです。因みに、慶應経済は、数学ⅡBまで試験範囲です。早稲田の国際教養学部など、慶應のSFCを猿真似をしても、その学部出身者で、有名人・財界人・文化人など、有名な人がどれほどいましょうや?SFCの比ではない。早稲田は、大橋巨泉、野坂昭如、永六輔、タモリと綺羅星のごとく世の文化に貢献した巨人を輩出してきました。中でも、大橋巨泉は、日本大学第一中学・高校から早稲田の第一政経学部に進学したが、英語なんぞは、そうした学校(日大や早稲田)ではなく、アテネフランセで身に付けたとまで豪語している。私の大学院時代の知己、現在慶應大学でフランス語の講師を務められていて、NHKラジオフランス語講座の講師までやられていた倉舘健一氏なども自身のブログで、「大学の仏文科{※実際に日吉で1年からフランス語を学んでいてもです}に進んではみたものの、フランス語の文法など一切身に付かず、個人でアテネフランセに通って真のフランス語の実力をつけた」といった、大学の語学という授業が如何に身に付かないものであったかを、怨嗟の愚痴風に吐露しておられる。
ここで、敢えて、極端な譬えをしますが、現代のコツコツ真面目に授業に出席し、「先生!今日は宿題はないのですか?」とゼミで発言する学生の質は、100円ショップで売られている陶器・磁器の類であり。標準的・丈夫で、格安の商品。それに対して、昔の早稲田の文化人・知識人は、名工が、薪と窯を使い焼く陶器・磁器の類であります。ほとんどが“失敗作品”(その名工に目にとってはのことです)でありながら、数千に一つ、名品が生まれる。大学というトポス(場所)は、電気窯で、同じ物を均質に生産するとしたならば、それは、専門学校とは何ら変わりはないであろう。大学という場所は、結果がわからない、何が生まれてくるのか予想もつかないのが、本来の姿でもあるのです。文科省主導による、文系学部廃止問題や、准教授任期制などは、その効率主義の典型の何ものでもないと言えましょう。現在のアカデミックの流れからすれば、予測不能の近未来などに澎湃と沸き起こる様々な難題を解決へと導く能力のある、骨太の知的“野人”などは、大学という機関からは、ますます生まれにくくなっているのが実態です。
では本題に戻ります。語学というものは、正規の教育機関というより、在野の、ある意味、日陰者的存在{塾・予備校など}で、自身の内発的学習意欲があって、初めて身に付くものなのです。その証拠に2016年に『ルポ塾歴社会』(幻冬舎新書・おおたとしまさ著)という、権力の二重構造ならぬ、教育の二重構造を白日の下にさらしたことが、世の教育熱心な親御さんの溜飲をさげたと思います。また、『予備校が教育を救う』(文春新書・丹羽健夫著)という本をお読みいただければ、予備校が如何に現代の中等教育ではなくてはならない存在かが明白に伝わってもきます。丹羽氏は、河合塾の理事長を務められ、立命館大学経営学部客員教授でもある業界きっての教育通でもある人物です。
1970年代までは、学校という場が、文法、構文、訳読を習う場で、英会話といった実用英語は、自身で、NHKラジオ講座や、英会話スクールなど、プライベートでひっそりと学んでいた。それが、80年代後半から、特に、バブルが弾けて以降、学校という場が、ごっこ的英会話、薄っぺらなトラベル英会話、実用英語もどき、そうした表層的な英語を、授業崩壊的な空気(※内職する生徒が多い)の中で行われてきた。従来の英文や読解、和訳や英作文能力は、塾や予備校で学ばざるをえない状況になった。いわば、逆転現象です。公立中学・高校は、文科省の、いわば、ゆとりの英語教育を行わざるをえず、面従腹背の授業展開をしているところは、マシですが、その通りに英語授業を行っているところは、悲惨な状況でしょう。そうでない公立学校のクラスがあるとすれば、恐らく、塾・予備校に通う比率が相当高いところだと考えられます。ですから、世の親御さんでも、文科省不信者に限って、中学受験させる傾向も高いのです。
そうなのです、英語のみならず、アクティブ・ラーニングにしても、道徳教育にして、知識暗記系というこれまで日陰者にされてきた領域は、学校という公的場では放逐されて、生きる力、グローバル社会で生き延びる知恵、また、使える英語などなどと美辞麗句を用いて政府は喧伝・推奨しますが、実はこれまでの文法や訳読などは、植物の表面には、見えない根や土壌のようなものなのです。世の軽薄な親御さんは、幹や枝にさえ目を向けない、葉っぱや果実、そして、花などにばかり目が行くのです。それが、英検、TOEICといった資格系テスト華やかなりし狂想曲に聞こえているのは、私が命名した、英語教育保守派の鳥飼玖美子氏や斉藤兆史、また、斉藤孝氏や林修氏なのです。時代が見え透いている賢者たちです。