コラム

英語はデジタル?日本語はアナログ?

 沖縄の米軍基地問題、そして、広島・長崎発の日本の非核化運動、これは、父母ともに我が子に対して良き親である時、両親の離婚に際して、どちら側につくかという子供の立場の究極の選択問題と似たような難題である。
 
 もしもである、沖縄から米軍を撤退させた場合、核の傘問題が浮上する。自国で核兵器を持たざるを得ないという状況に、中国、北朝鮮を想定した場合、そういう道へと踏み込まざるをえないのは必定である。しかし、これは、人類最初の被爆国日本としては、国民総意の是を得られない。広島の被爆者を中心とした反核運動を、沖縄県民を優先すれば完全に無視することになる。一方、日本が、国連の非核化の方針で、アメリカに逆らうものなら、アメリカに冷や水をぶっかけられる。
 
 日本国民、いや政府は、沖縄県民と広島市民の間で、どっちつかずの状況を宙ぶらりんでごまかすしかなかった、おそらく、これかもであろう。ここの苦しい日本の立場を、わざわざここまで言わなくてもと思うくらいに冷徹に分析、むしかえしたのが、近年の白井聡氏の書籍のテーマの一つでもある。こういう知性も、思想的立場が違えども、あっぱれと快哉を送っておく。これまで自民党がごまかしてきた慣例を、もうすでに保守の論客西部邁が指摘してきた日本の弱点を、‘永続敗戦論’として、左系の学者が、陽の当たる場所に、再度引っ張り出した功績は認めるとしよう。
 
 では、この沖縄米軍基地問題と、広島非核化問題とを天秤にかけた時、依然として宙ぶらりんとして決定不能な状況に追い込まれるように、実は、日本における大学のグローバル化問題というものもダブって見えてきてしまうのである。
 
 それは、典型的なものとして、大学の授業における英語化のテーマである。また、大学入試の実用第一主義への方針転換である。ご存じのように、2020年初頭に頓挫した、大学入学共通テストにおける民間資格系テストの導入問題である
 
 今月(2021年1月)に初めて実施された、大学入学共通テストの英語問題なんぞは、実は、大学卒業共通テストとして行ったらいい。得点8割未満の者は、仮卒業として、社会人になってもらう。仮卒業後、再度受験して、8割以上をゲットしなければ、正規の学卒とは認めない制度にすれば、よっぽど文科省や大企業の眼鏡に叶う学生として社会に巣立っていくであろう。しかし、やはり、その学卒も大して英語が使える新卒ではないことは、すぐに馬脚を現すこと、必定であろう。大学の教育不全、教育不能を暴露するので、決してこんな制度は設けはしないことであろう。衆議院議員や参議院議員が自身の給与や待遇を下げる法案を決して国会に出さないのと同じである。
 
 短刀直入に申しあげれば、大学の授業を国際化の名のもとに、例えば、早稲田の国際教養学部や、秋田国際教養大学のように、すべて英語で行えば行うほど、日本の大学のアイデンティティーが希薄になる、曖昧になる。つまり、アジアの留学生が、英語で政治、経済、文学など、日本という国で、英語で学べば、到底、アメリカやイギリス、シンガポールや香港の大学で学ぶほど、そのコンテンツの濃度といったものは到底及びもつかないことであろう。わざわざ日本語という、深い文化から高度の文明にまで学べる言語を持つ国で、どうして、英語で学ぶ必要性があろうかと留学生は疑問を持たざるを得ないことだろう、いやむしろ、日本のアカデミズの底の浅さを見透かされてしまうことになる。それは、村上春樹の小説の英語訳を、わざわざ日本語翻訳して、そのテキストを再度日本人が読み村上春樹を批評するような行為に似ている。留学生には、興ざめの授業であり、純ジャパの学生には、授業の半分も理解できない結果をまねきかねない。これは、以前にも私が指摘したことだが、大学のグローバル化は、理系には少々吉とでるが、文系には凶とでると明言した所以である。
 
 特に、文系に関してだが、大学のグローバル化は、アジアの留学生は、2~3流の知的レベルしか来日しない、一方、国内の日本人大学生は、理解不十分、内容希薄の欠陥大学生を量産する事態を招きかねないというのが、大学の国際化の盲点でもある。これは、アジアでも母国語教育が近代において見事に成功した国家の弱点でもある。アジアで、通信インフラが一番進み、紙幣の質が世界最高水準にある利点が、むしろ、旧途上国にデジタルで先起こされてしまう皮肉的状況とダブって見えてしまう。また、トヨタ自動車に象徴されるように、ハイブリット車の成功国日本が、むしろ、その利点が足かせとなり、世界の電気自動車へのシフトの波に乗り遅れてしまうガラパゴス化現象とも似て非ではない。この点、最近世に出た『デジタル化する新興国』(伊藤亜聖)〔中公新書〕という書物は、<英語と日本語>という命題を、デジタルとアナログとを分母として再考した時、非常に教育上示唆に富み、『大学はもう死んでいる?』(苅谷剛彦 吉見俊哉)〔集英社新書〕という“解”を出してもくれているように思える。
 
 戦後、昭和の成功モデルが、バブル崩壊後、平成中期までなんとか日本を引っ張っても来た。その長所が、むしろ、足かせ、短所となるように、<グローバル化>=<高等教育の英語教育化>の趨勢で、日本語で科学(学問)を学ぶという長所が、“悪”とみなささる風潮を危惧するばかりである。これは、教育におけるデジタル化の勢いに、アナログが放逐されてしまう事態同様に、結局、日本を衰退へと導くことになりはしないか。
 
 沖縄と広島、それを米軍基地と非核化とを天秤にかけたとき、英語と日本語、それを高等教育でどちらを取るべきかと天秤にかけるかの如き、同じジレンマが浮上してくるのである。

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