コラム
現代文講師にも"帰国子女"と"純ジャパ"とがある!
これから、現代文のカリスマ予備校講師に関して私なりの隠れた、いや潜在的一般論というものを申しあげたいと思います。これは、これまで誰も指摘しなかった死角でもある。
英語講師には、私は常々3タイプあると申しあげてきました。弊著『英語教師は<英語>ができなくてもいい!』を参照していただくと詳細が語られもいますが、まずAタイプ、これは、帰国子女タイプで、留学経験などもある、発音などネイティブまがいの英語講師、文法や単語など半分以上は無意識下に潜ってもいる。できない中1からの純ジャパの英語学習者の苦労がわからない、<英語リッチ族>の先生でもあります。この人々を<運命の英語>講師族と命名しています。次に、Bタイプ、これは、12歳から英語を学び始め、英語習得の苦労を熟知してもいる、英文科、英語学科出身の英語講師であります。最後に、Cタイプ、これはBタイプに準じますが、非英文科、非英語学科出身の英語講師であります。このBとCタイプを<宿命の英語>講師族と命名しています。Aを如来の講師、BとCを菩薩の講師とも名付けました。仏教の知識がおありの方なら、恐らく膝を打ってにやりとされることでしょう。
こうした、英語講師の<運命族>と<宿命族>があるように、実は、現代文にも、<運命の現代文講師>と<宿命の現代文講師>とが存在するのです。
まず、例を挙げると、林修氏などであります。彼は、恐らく、タレント活動に忙殺されて、昔の貯金で今や授業をされていることが想像に難くありません。
林氏は、小学校時代に、祖父の日本画家の日本文学大全集を読破していたともいいます。ですから、愛知県ナンバーワンの進学校、東海中学受験の際、国語の問題集など、やらなくても国語は満点近くゲットしていたことが想像されます。中高でも、現代文は、やってもやらなくても全校でトップクラスであったような気がします。その小学校時代の豊富な貯金で今や飯を食ってもいるのです。小学校6年までハワイで暮らし、中高が日本の公立高校に通い、大学は上智かICUあたりに進み、英語教師になった部族、それが、現代文の林修のタイプでもあります。
彼のクラスは、東大志望者の母集団で構成されてもいるはずです。ですから、現代文だけがいまいち、数学や英語、理科は問題なし、現代文だけが凹んでいる高3生を集めて、担当しているはずです。よって、地頭のある優秀な受験生が、<現代文帰国子女>の林先生が教えられても、だいたい、彼のコンテンツを理解もできる。まるで、クラーク博士から英語を習った札幌農学校のエリート学生のようなものです。しかし、MARCHレベルの現代文でもがき苦しんでいる高校生には、理解不明、理解不能な点が多々でてくる、「こんな専門用語も知らないの?」「こんな分かり切った例示に気づかないの?」といった上から目線になりかねません。日ごろ、生の授業でオフレコながら、「東大以外は大学じゃあない!」と豪語しているカリスマ講師ですから、帰国子女タイプの英語講師が、落ちこぼれ準ジャパに英語を教えるのと同じ現象が生じます。ですから、林氏は、東進でも東大クラスのみの担当は十分理解できます。こてこての準ジャパの英語組が、大学受験の際に、上智志望が多くを占めるトフルゼミナールという塾が敷居が高くなるのと同じことが当てはまります。よって、林修氏に典型的に表れてもいる、<帰国子女タイプの国語講師>という存在があるということです。
次に、ゴロ語シリーズで一世を風靡した板野博行現代文講師を挙げましょう。
板野氏は、彼の自著『大学生活を極める55のヒント』の中で、高校生になって読書に目覚めたとも語っています。このタイプを<準ジャパの現代文講師>と命名したいのです。彼の参考書などを読んでみますと、様々な記号を使い、テクニックで現代文を料理してゆくタイプです。因に、林修氏は、現代文の参考書を出してはいません、ですから、彼の教え方の私なりの判断は、彼出演の知的バラエティー番組や単時間の東進の映像だけでの想像によるものです。
板野氏の現代文参考書は、小学生時代の読書体験という“国語という肥沃なる土壌”を抜きにして、つまり、有していない受験生に、ある程度現代文を克服する術を与える流儀でもあります。これを、<宿命の現代文講師>と命名したいのです。
そもそも、林氏がテレビで語っていたことですが、「年号なんてゴロで覚えるなんて邪道だ、こんなの軽く覚えられるだろう!」という発言からして、ゴロ語シリーズを世に広めた板野氏と対局にある現代文講師であることが容易に想像がつきます。板野氏は、現代文のある意味弱者の味方であります。鎌倉仏教の「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽に行けると説いた法然や親鸞を想起させます。ですから、MARCH以下の現代文を征服したいと望んでいる受験生では、林氏は、尊崇の対照にすらならない。東大専科という限られた閉鎖的空間、参考書も出していないがゆえの、弁が立つゆえにメディアでカリスマ性を増してもいるが、それは、ある意味幻想とでも申せましょうか。恐らくは、予備校講師から知的タレントへ、少子化と東進の衰退と比例して、脱皮してゆく賢さも心に秘めてもいることでしょう。
その林氏と板野氏の中間に位置しているのが、論理エンジンで一躍有名になった出口汪氏であります。論理エンジンなるものを使って、現代文を読み解くともいうが、<非帰国子女タイプの現代文講師>の証拠でもあります。彼の参考書や問題集は、MARCHレベルの標準的な問題をフォーマットとしながら、その論理エンジンの効能を説いているように思えますが、早稲田やMARCHレベルの難問や悪問、奇問を排除して、良問、いわゆる標準的な文章のみを俎上に挙げている嫌いがなくもない。ですから、東大の二次の問題などは、論理エンジンなどでは、到底太刀打ちできない限界があることは誰も指摘していません。ひと昔今井宏氏などが広めたパラグラフリーディングなるものが、国公立の難しい二次の英語やSFCの英語には一向に無力であったのと同じであります。この出口汪氏も、敢えていえば<宿命の現代文講師>と言えましょう。この論理エンジンなるものは、センター試験からMARCHレベルの問題対応策とだけ言っておきましょう。彼は、関西学院出身である。板野氏は例外としても、現代文にしろ、古文にしろ、名物講師、生徒の支持を受ける国語講師は非国公立出であるというのが私の持論でもある。特に、「古文は国学院!」これは業界では有名です。一般論として、国立などに進む者が、その後、国語の講師となっても、共通一次やら、センター試験やら、更に、二次試験を難なく突破して、国語猛者が、いわば、<運命の国語講師>になるというのが、独断ながら、私の仮説でもある。これは、私の県立高校時代の現代文教師T先生からも確信したことであります。今や、現代文のカリスマ講師となっている柳生好之氏などは、早稲田国文科出身でありながらも、哲学にはまり、一時期英語をも教えていた遠回り組でもある。私の個人的説でもある、非英文科・非英語学科出身こそ優秀なる英語講師なるという仮説と相似関係をなしているではないか。余談ながら名著『古文研究法』で有名な小西甚一氏などは、専門の国文学は言うに及ばず、英語は当然、独語、仏語、中国語、朝鮮語にも堪能であったことを鑑みると、まんざら、私の私見も間違ってはいないことは確かなようである。
作家丸谷才一が「真に国文学を学びたいなら、大学の学部時代は、外国語学部、英文科、仏文科などに進め、そして大学院から国文学を究めよ」と語っていた言葉が、予備校講師の専門性にも裏打ちされてもいる。因に、林修氏にしても、明治大学教授の斎藤孝氏にしろ、東大法学部出身である。その後、自身の資質に目覚めた先生方でもある。
結論を申し上げると、英語講師にもA,B、Cタイプがあるように、<帰国子女タイプの現代文講師>から、MARCHレベルの受験生が現代文を学びを受けても効果薄とだけは言っておこう。つまりは、<帰国子女タイプの現代文講師>から、国公立二次の現代文は勿論、MARCHレベルの現代文を教わるなどとは、デーブ・スペクターに学校英語・受験英文法を習うが如しである。ましてや、受験生自身の国語の読書体験の多寡、文学的・哲学的関心の有無、それにより、林氏は勿論のこと、板野氏や出口氏から現代文を習っても、効果の強弱があるということを受験生はわきまえておかねばならない。
因み、個人的な受験生時代を申し上げる。東京教育大付属校の国語教師から代々木ゼミナールにスカウトされた、今でいうカリスマ現代文講師堀木博礼の授業より、駿台予備校で、一時代を築いた、ミスター“イイタイコト”こと、藤田修一現代文講師の記号的読解法の方にどれほど救われたかしれない。この両者に、<帰国子女タイプの現代文講師>と<準ジャパの現代文講師>とがあることを教わったのが、私の浪人時代の現代文体験でもあった
。
では、現代文講師を総括すると、幼児期から子供時代に、本を読む習慣の中にいて、その後、文学の気質の染まる濃淡はあれ、国語教師となった者、それを<帰国子女タイプの現代文講師>とする。そして、彼らには、作者の小説であれ、評論であれ、その世界に“自我”を離れて、同化しうる資質(才能)が養われているのである。一方、小学生時代はほとんど本など読まず、16歳前後の思春期から読書を始めた<準ジャパの現代文講師>である。彼らは、読書の喜び、その世界に浸るというより、自身の経験をその作品なり作家なりに投影する、少々文学青年タイプの人々でもある。我流に、太宰なり三島なりを読み解き、その世界の虜になり、国文学などに進み、国語教師、または、現代文講師となった人々でもある。大学受験生は、現代文に救いを求めるなら、その参考書や予備校の現代文講師の肌色を見極めてから、自身の“師”としなければならない。
余談ながら、遠藤周作氏の名作『沈黙』が、某大学で出題された時、狐狸庵先生曰く、「受験落ちこぼれの俺の文章が、とうとう大学入試に使われたか!ちょっとやってみよう。」そう思い立ち、実際にやってみたそうです。「作者の言いたいことだって?」「この下線部は、どういうことだって?」「俺が作者なんだけど、こんな選択肢のどれがいいたいことだっけな?」「この箇所って、その時どういうつもりで書いたっけな?」と狐狸庵先生は、迷ったあげく、6割しか正解できなかったエピードがある。受験現代文なんぞは、大学の作問者の解釈を忖度する駆け引きでもある。受験現代文が得意だった高校生に限り、その後作家などになるものがマイナー派でもある。但し、読書は好きだった人は、吉本ばななにしろ角田光代にしろ大勢いることは保留しておこう。
英語講師には、私は常々3タイプあると申しあげてきました。弊著『英語教師は<英語>ができなくてもいい!』を参照していただくと詳細が語られもいますが、まずAタイプ、これは、帰国子女タイプで、留学経験などもある、発音などネイティブまがいの英語講師、文法や単語など半分以上は無意識下に潜ってもいる。できない中1からの純ジャパの英語学習者の苦労がわからない、<英語リッチ族>の先生でもあります。この人々を<運命の英語>講師族と命名しています。次に、Bタイプ、これは、12歳から英語を学び始め、英語習得の苦労を熟知してもいる、英文科、英語学科出身の英語講師であります。最後に、Cタイプ、これはBタイプに準じますが、非英文科、非英語学科出身の英語講師であります。このBとCタイプを<宿命の英語>講師族と命名しています。Aを如来の講師、BとCを菩薩の講師とも名付けました。仏教の知識がおありの方なら、恐らく膝を打ってにやりとされることでしょう。
こうした、英語講師の<運命族>と<宿命族>があるように、実は、現代文にも、<運命の現代文講師>と<宿命の現代文講師>とが存在するのです。
まず、例を挙げると、林修氏などであります。彼は、恐らく、タレント活動に忙殺されて、昔の貯金で今や授業をされていることが想像に難くありません。
林氏は、小学校時代に、祖父の日本画家の日本文学大全集を読破していたともいいます。ですから、愛知県ナンバーワンの進学校、東海中学受験の際、国語の問題集など、やらなくても国語は満点近くゲットしていたことが想像されます。中高でも、現代文は、やってもやらなくても全校でトップクラスであったような気がします。その小学校時代の豊富な貯金で今や飯を食ってもいるのです。小学校6年までハワイで暮らし、中高が日本の公立高校に通い、大学は上智かICUあたりに進み、英語教師になった部族、それが、現代文の林修のタイプでもあります。
彼のクラスは、東大志望者の母集団で構成されてもいるはずです。ですから、現代文だけがいまいち、数学や英語、理科は問題なし、現代文だけが凹んでいる高3生を集めて、担当しているはずです。よって、地頭のある優秀な受験生が、<現代文帰国子女>の林先生が教えられても、だいたい、彼のコンテンツを理解もできる。まるで、クラーク博士から英語を習った札幌農学校のエリート学生のようなものです。しかし、MARCHレベルの現代文でもがき苦しんでいる高校生には、理解不明、理解不能な点が多々でてくる、「こんな専門用語も知らないの?」「こんな分かり切った例示に気づかないの?」といった上から目線になりかねません。日ごろ、生の授業でオフレコながら、「東大以外は大学じゃあない!」と豪語しているカリスマ講師ですから、帰国子女タイプの英語講師が、落ちこぼれ準ジャパに英語を教えるのと同じ現象が生じます。ですから、林氏は、東進でも東大クラスのみの担当は十分理解できます。こてこての準ジャパの英語組が、大学受験の際に、上智志望が多くを占めるトフルゼミナールという塾が敷居が高くなるのと同じことが当てはまります。よって、林修氏に典型的に表れてもいる、<帰国子女タイプの国語講師>という存在があるということです。
次に、ゴロ語シリーズで一世を風靡した板野博行現代文講師を挙げましょう。
板野氏は、彼の自著『大学生活を極める55のヒント』の中で、高校生になって読書に目覚めたとも語っています。このタイプを<準ジャパの現代文講師>と命名したいのです。彼の参考書などを読んでみますと、様々な記号を使い、テクニックで現代文を料理してゆくタイプです。因に、林修氏は、現代文の参考書を出してはいません、ですから、彼の教え方の私なりの判断は、彼出演の知的バラエティー番組や単時間の東進の映像だけでの想像によるものです。
板野氏の現代文参考書は、小学生時代の読書体験という“国語という肥沃なる土壌”を抜きにして、つまり、有していない受験生に、ある程度現代文を克服する術を与える流儀でもあります。これを、<宿命の現代文講師>と命名したいのです。
そもそも、林氏がテレビで語っていたことですが、「年号なんてゴロで覚えるなんて邪道だ、こんなの軽く覚えられるだろう!」という発言からして、ゴロ語シリーズを世に広めた板野氏と対局にある現代文講師であることが容易に想像がつきます。板野氏は、現代文のある意味弱者の味方であります。鎌倉仏教の「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽に行けると説いた法然や親鸞を想起させます。ですから、MARCH以下の現代文を征服したいと望んでいる受験生では、林氏は、尊崇の対照にすらならない。東大専科という限られた閉鎖的空間、参考書も出していないがゆえの、弁が立つゆえにメディアでカリスマ性を増してもいるが、それは、ある意味幻想とでも申せましょうか。恐らくは、予備校講師から知的タレントへ、少子化と東進の衰退と比例して、脱皮してゆく賢さも心に秘めてもいることでしょう。
その林氏と板野氏の中間に位置しているのが、論理エンジンで一躍有名になった出口汪氏であります。論理エンジンなるものを使って、現代文を読み解くともいうが、<非帰国子女タイプの現代文講師>の証拠でもあります。彼の参考書や問題集は、MARCHレベルの標準的な問題をフォーマットとしながら、その論理エンジンの効能を説いているように思えますが、早稲田やMARCHレベルの難問や悪問、奇問を排除して、良問、いわゆる標準的な文章のみを俎上に挙げている嫌いがなくもない。ですから、東大の二次の問題などは、論理エンジンなどでは、到底太刀打ちできない限界があることは誰も指摘していません。ひと昔今井宏氏などが広めたパラグラフリーディングなるものが、国公立の難しい二次の英語やSFCの英語には一向に無力であったのと同じであります。この出口汪氏も、敢えていえば<宿命の現代文講師>と言えましょう。この論理エンジンなるものは、センター試験からMARCHレベルの問題対応策とだけ言っておきましょう。彼は、関西学院出身である。板野氏は例外としても、現代文にしろ、古文にしろ、名物講師、生徒の支持を受ける国語講師は非国公立出であるというのが私の持論でもある。特に、「古文は国学院!」これは業界では有名です。一般論として、国立などに進む者が、その後、国語の講師となっても、共通一次やら、センター試験やら、更に、二次試験を難なく突破して、国語猛者が、いわば、<運命の国語講師>になるというのが、独断ながら、私の仮説でもある。これは、私の県立高校時代の現代文教師T先生からも確信したことであります。今や、現代文のカリスマ講師となっている柳生好之氏などは、早稲田国文科出身でありながらも、哲学にはまり、一時期英語をも教えていた遠回り組でもある。私の個人的説でもある、非英文科・非英語学科出身こそ優秀なる英語講師なるという仮説と相似関係をなしているではないか。余談ながら名著『古文研究法』で有名な小西甚一氏などは、専門の国文学は言うに及ばず、英語は当然、独語、仏語、中国語、朝鮮語にも堪能であったことを鑑みると、まんざら、私の私見も間違ってはいないことは確かなようである。
作家丸谷才一が「真に国文学を学びたいなら、大学の学部時代は、外国語学部、英文科、仏文科などに進め、そして大学院から国文学を究めよ」と語っていた言葉が、予備校講師の専門性にも裏打ちされてもいる。因に、林修氏にしても、明治大学教授の斎藤孝氏にしろ、東大法学部出身である。その後、自身の資質に目覚めた先生方でもある。
結論を申し上げると、英語講師にもA,B、Cタイプがあるように、<帰国子女タイプの現代文講師>から、MARCHレベルの受験生が現代文を学びを受けても効果薄とだけは言っておこう。つまりは、<帰国子女タイプの現代文講師>から、国公立二次の現代文は勿論、MARCHレベルの現代文を教わるなどとは、デーブ・スペクターに学校英語・受験英文法を習うが如しである。ましてや、受験生自身の国語の読書体験の多寡、文学的・哲学的関心の有無、それにより、林氏は勿論のこと、板野氏や出口氏から現代文を習っても、効果の強弱があるということを受験生はわきまえておかねばならない。
因み、個人的な受験生時代を申し上げる。東京教育大付属校の国語教師から代々木ゼミナールにスカウトされた、今でいうカリスマ現代文講師堀木博礼の授業より、駿台予備校で、一時代を築いた、ミスター“イイタイコト”こと、藤田修一現代文講師の記号的読解法の方にどれほど救われたかしれない。この両者に、<帰国子女タイプの現代文講師>と<準ジャパの現代文講師>とがあることを教わったのが、私の浪人時代の現代文体験でもあった
。
では、現代文講師を総括すると、幼児期から子供時代に、本を読む習慣の中にいて、その後、文学の気質の染まる濃淡はあれ、国語教師となった者、それを<帰国子女タイプの現代文講師>とする。そして、彼らには、作者の小説であれ、評論であれ、その世界に“自我”を離れて、同化しうる資質(才能)が養われているのである。一方、小学生時代はほとんど本など読まず、16歳前後の思春期から読書を始めた<準ジャパの現代文講師>である。彼らは、読書の喜び、その世界に浸るというより、自身の経験をその作品なり作家なりに投影する、少々文学青年タイプの人々でもある。我流に、太宰なり三島なりを読み解き、その世界の虜になり、国文学などに進み、国語教師、または、現代文講師となった人々でもある。大学受験生は、現代文に救いを求めるなら、その参考書や予備校の現代文講師の肌色を見極めてから、自身の“師”としなければならない。
余談ながら、遠藤周作氏の名作『沈黙』が、某大学で出題された時、狐狸庵先生曰く、「受験落ちこぼれの俺の文章が、とうとう大学入試に使われたか!ちょっとやってみよう。」そう思い立ち、実際にやってみたそうです。「作者の言いたいことだって?」「この下線部は、どういうことだって?」「俺が作者なんだけど、こんな選択肢のどれがいいたいことだっけな?」「この箇所って、その時どういうつもりで書いたっけな?」と狐狸庵先生は、迷ったあげく、6割しか正解できなかったエピードがある。受験現代文なんぞは、大学の作問者の解釈を忖度する駆け引きでもある。受験現代文が得意だった高校生に限り、その後作家などになるものがマイナー派でもある。但し、読書は好きだった人は、吉本ばななにしろ角田光代にしろ大勢いることは保留しておこう。