コラム

学校は"デジタルの波"のアナログという避難所たるべし

 弊塾(英精塾)に入ってくる生徒に、常に、何気なく質問することに、「君の学校は、朝の読書っていうやつ行っている?」というものがある。もう20年近く前から、一部の教育者が推奨して、今や、中高一貫校の中学で実行されている学びの習慣とやらであ。読書離れが指摘され、それを食い止める策として、活字に馴染んでもらい、その朝の10分の読書がきっかけとなり、昼休み、放課後、自宅で、前向きに書を友とする時間を積極的に持って欲しいとするものである。私の塾の生徒の学校でも、朝のホームルームの前の10分、静かに読書をすることを義務付けている学校が増えつつあるのがうかがえる。よき学びの慣習となって喜ばしい限りである。
 
 この読書のたった10分が、アナログの典型、紙の本と接する時間として貴重なものであり、学校という場が、デジタルの波の影響を受ければうけるほど、その存在意義が輝きを増してもくる。
 
 学校という閉鎖的社会以外では、ティーン達は、カバンからスマホと取りだし、SNSの学習サプリを利用したり、友人とラインをしたり、YouTubeを眺めたりと、デジタルの海の中に放りだされる。リクルートの小学生スタディサプリのCMでその母親が口にする言葉「うちの子集中力が5分しかもたない!」、これは文明病としか言いようがない。ティックトックなど数十秒、ユーチューブなど数分くらいのものしか十代からは見向きもされない、それが何よりの証拠である。デジタル文明病(コロナウイルス)である。因みに、文化病とは聞き覚えがないが、具体的には、昭和まで存在した西洋かぶれ、フランスかぶれ、ジャズフリークなどなどであろうが、デジタル化社会の到来で、これはむしろ文化病と名付けてもいい、結核や天然痘の類である。病としては、“絶滅感染病”といえる。格下げとなったものである。しかし、電車の中、スタバやフードコートで自習をしている中高生を眺めていると、意外なことに、本としての単語集や歴史の一問一答集、さらには、ノートとテキストを広げて、シャーペンでもくもくと数学の問題を解いたりしている光景が目に付く。やはり、中学校や高校は、教える側、習う側それぞれが、紙の教材にこだわってもいる証拠でもある。でも、勉強のリラックスタイムは、スマホでゲームやYouTubeといった感は否めない。
 
 2023年度からデジタル教科書を政府は導入することを決めたとするが、ティーンの生育、成長を考慮した段で申しあげれば、これを十代で飲酒と喫煙を許す愚断と同義であるとまで指摘する風潮がどこにもない。学校は、飽くまでもアナログを保持する場とすべきというのが、私の持論である。学校は、閉じられた社会、ある意味、“社会の害毒”の流入を防ぐ場でもある。これを“過剰なるデジタルの空気”とでも言わせてもらう。未成年が、身体的学説から成長段階であることを考慮して、飲酒・喫煙を禁じているように、デジタルという生物の成長を凌駕するスピードで、また阻害しかねない文明の利器を、生育途上の少年少女に与えることが、どれほど“悪”であるのか、『スマホが学力を破壊する』(集英社新書)や『スマホ脳』(新潮新書)を読んだ者なら首肯する真実である。
 端的に、分かりやすく申し上げるよう。次の比の関係で認識していただきたい。
 
 
 学校の時間:朝の読書=非学校の社会的空間(デジタル):学校の保護的空間(アナログ)
 
 学校でわざわざデジタル教育など施さなくても、若い、デジタルネイティブとも言われるティーンの連中は、黙っていても、デジタルの技能を吸収していく、生まれ育つものである。それは、片親がアメリカ人の家庭の子どもが、日本の学校でわざわざ英語の授業など受けなくても、ネイティブの英語を習得する慣例と同じであり、また、学校の性教育などを学校で“不自然に”にぎこちなく行っても、友人、知人、メディアを通じて、“自然な”性知識を身に付けてゆく実態と同じものがある。もちろん誤った方向へゆくティーンもいるが、学校でそうした性教育を行っても道を間違える連中はいるものである。それは、学校の、社会の責任ではない、むしろ本人の気質、また家庭も問題でもある。
 
 最近、遅ればせながら数学者藤原正彦氏の『本屋を守れ』(PHP新書)を読んだ。副題は“読書は国力”と記載されている。その本の帯には“インターネットで教養は育たない”と大きくアピールされてもいる。
 デジタルでは教養は育たないとうことであり、それにもかかわらず文科省は、デジタル教科書導入に踏み切ろうとしている。藤原正彦氏が、安倍政権の教育ジャンルの点数を0点とつけたのは当然である。
 

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