コラム
日本刀の名品=教養ある人間
Eテレの知恵泉『真打折り紙国宝の謎 日本刀 猛きを満たせ』(2021年10月19日)を観た。特集が“日本刀”についてであったが、まさしく、日本刀が生まれるその経緯、そして工程といったものが教育、人をどう育てるかということと根底で繋がっていることをまざまざと見せつけられた思いがした。
まず、この日本刀誕生のプロセスの秘儀、それを次ぎの一言で集約してもいた。
「偶然に逆らわず、必然を求めるな」
これは、料理研究家の土井善晴氏の言葉である。なかなか唸らされる言葉である。この真意は、日本刀ならず、樂茶碗など、陶芸の名品を生み出す世界のみならず、高等教育から初等教育にいたるまで、人材育成、人間陶冶にも該当する真理と感じずにはいられない。
そもそも日本刀のルーツは、平安初期まで、直刀であり、戦の際の武器であり、貴族の装飾品であった。これが、平安後期になるや、あの反りのある怪しい光を放つ美しい日本刀となった。本来の直刀は、切れ味のみを追求したことで、反面、折れやすい欠点を内包していた。現場武士の難題、「切れやすく、折れにくい刀を作れ!」という要求に刀鍛冶職人は、峰には泥を厚く、刃には薄く泥を塗り、焼きを入れると、峰はゆっくりと温度が下がり、刃は急激に下がる、そして、峰はしなやかに、そして刃は鋭く、いわゆる、《切れやすく、折れにくい》という剣として理想的な日本刀が誕生したという。その何度もの焼きと冷やし(水入れ)の過程で、あの美しい反りが生まれたのである。美しいばかりではない。馬上の武士が、戦の際、鞘から抜きやすい実用性、実戦性をももたらした。奇跡的な、<美と益の融合>である。これは、近年再評価の高い民芸の推奨者柳宗悦が追求した<用の美>と一脈通じてもいる。日本芸術、日本美術の理想形が、この日本刀に集約されていることを改めて実感させれられた。
本来日本人は、益と不益とを矛盾することなく止抑する資質にたけているようである。千利休に代表されるように、茶と禅とを道として侘び茶として完成させたその美意識の高さというものも日本刀という存在と似通ってもいる。信長が、家臣への褒美に、茶器を、秀吉は、刀を授けたという慣習もむべなるかなと感慨深い。
剣というものは、洋の東西を問わず、始まりは武器として発祥した。その後王侯貴族が装飾品として権力の象徴として進化を遂げた。恐らく、日本以外は、ここまでであった。しかし、中世の平安後期から鎌倉にかけて、武士の世となるや、その剣が世界に類例を見ない、美と実用性とを兼ね備えた日本刀としてさらなる進化をとげる。その後、天下泰平の江戸になると一種、美術品として花開く。鞘や柄の工芸品としても発展し、今日遍く世界にとどろく日本刀として芸術品として定着する。そもそも鉄砲の伝来以来、日本刀はそうなる運命でもあったといえばそれまでだが、武士の魂を象徴するモノとして、戦後の天皇制の如く、日本を象徴する“美”として伝統の中心に存してもいる。
さて、この日本刀というものの<切れやすさと折れにくさ>という両面を人間に引き下げて考えてみると、どうも、前者は知性という世の中、ビジネスで勝ち残ってゆく必須の要素、そして後者は感性というプライベート空間、私的生活を律しなくてはならない因子ともいえる。この知性と感性とを兼ね備えた人間を、一般には、教養があると言えるような気がするのである。戦いにおける攻めと守りともいえよう。おそらく欧州の近世以前の剣というものは、ただ切れやすいだけ、しかし現場では折れやすくもあったであろう。そこから、飛び道具としての鉄砲の誕生も必然と私は観る。一方、日本では、この日本刀というものの実用性が抜きんでてもいたため、飛び道具は、弓矢の域に留まっていたのかもしれない。しかし、種子島以来、実用性が断然まさる鉄砲が、50年足らずで西欧を凌ぐまで普及したが、様式美というものへの愛着かは知らぬが、近代美術品として姿を変えて今に至ってもいると考えられる。それは、デジタル貨幣、電子商取引が、日本でいまいち普及しない要因は、日本紙幣の高品質、絶対的信頼性というものが日本人の精神の根底にあるのと通底してもいよう。
本題に戻るとしよう。日本刀や樂茶碗の名品、これらを作るという営みは、意図的に、そうなるという目標には至らないということを我々に教えてもくれている。これは、今般日本電産の永守重信会長が、即、社会に、会社に役に立つ人材を輩出する目的で私財を投げうってKUAS(京都先端科学大学)という大学を設立した模様であるが、その目論見は吉と出るか凶とでるか、恐らく、中吉や末吉程度であろうが、その夢は永守氏が存命中は実現しそうにない。そのころ、本家でもある世界一のモーター会社がどうなっているかも知れたものではない。
因みに、永守会長は次のエピソ―ドをご存じないのかもしれない。
令和の上皇(皇太子明仁親王)の人格形成の家庭教師役、戦後皇室の“ファッションデザイナー”でもあり、美智子皇后を引き合わせた偉人である。それは、福澤諭吉の秘蔵っ子にして慶應大学中興の祖でもある小泉信三である。次の逸話から彼の慧眼の確かさ、そして深さが伝わってもくる。
福澤の教え子の大実業家藤原銀次郎が、戦後すぐ、自身の藤原工業大学{※ここが日吉の敷地にあった}を「慶應には理工系学部がない、福澤先生の願いでもあった理工学部を慶應に譲ろう」と慮って母校に寄付する英断をしたとき、財界のお歴々は、「おう!いよいよ慶應にも工業などで役に立つ人材を輩出する学部ができたか!」と言い放ち、実業界からは莫大な寄付があったそうである。その時の彼らの注文は「これからは、どしどし社会で役に立つ人材を輩出してください」といったものだったそうである。それを聞いた小泉塾長の名言である。
「すぐに役にたつものは、すぐに役に立たなくなる」
まず、この日本刀誕生のプロセスの秘儀、それを次ぎの一言で集約してもいた。
「偶然に逆らわず、必然を求めるな」
これは、料理研究家の土井善晴氏の言葉である。なかなか唸らされる言葉である。この真意は、日本刀ならず、樂茶碗など、陶芸の名品を生み出す世界のみならず、高等教育から初等教育にいたるまで、人材育成、人間陶冶にも該当する真理と感じずにはいられない。
そもそも日本刀のルーツは、平安初期まで、直刀であり、戦の際の武器であり、貴族の装飾品であった。これが、平安後期になるや、あの反りのある怪しい光を放つ美しい日本刀となった。本来の直刀は、切れ味のみを追求したことで、反面、折れやすい欠点を内包していた。現場武士の難題、「切れやすく、折れにくい刀を作れ!」という要求に刀鍛冶職人は、峰には泥を厚く、刃には薄く泥を塗り、焼きを入れると、峰はゆっくりと温度が下がり、刃は急激に下がる、そして、峰はしなやかに、そして刃は鋭く、いわゆる、《切れやすく、折れにくい》という剣として理想的な日本刀が誕生したという。その何度もの焼きと冷やし(水入れ)の過程で、あの美しい反りが生まれたのである。美しいばかりではない。馬上の武士が、戦の際、鞘から抜きやすい実用性、実戦性をももたらした。奇跡的な、<美と益の融合>である。これは、近年再評価の高い民芸の推奨者柳宗悦が追求した<用の美>と一脈通じてもいる。日本芸術、日本美術の理想形が、この日本刀に集約されていることを改めて実感させれられた。
本来日本人は、益と不益とを矛盾することなく止抑する資質にたけているようである。千利休に代表されるように、茶と禅とを道として侘び茶として完成させたその美意識の高さというものも日本刀という存在と似通ってもいる。信長が、家臣への褒美に、茶器を、秀吉は、刀を授けたという慣習もむべなるかなと感慨深い。
剣というものは、洋の東西を問わず、始まりは武器として発祥した。その後王侯貴族が装飾品として権力の象徴として進化を遂げた。恐らく、日本以外は、ここまでであった。しかし、中世の平安後期から鎌倉にかけて、武士の世となるや、その剣が世界に類例を見ない、美と実用性とを兼ね備えた日本刀としてさらなる進化をとげる。その後、天下泰平の江戸になると一種、美術品として花開く。鞘や柄の工芸品としても発展し、今日遍く世界にとどろく日本刀として芸術品として定着する。そもそも鉄砲の伝来以来、日本刀はそうなる運命でもあったといえばそれまでだが、武士の魂を象徴するモノとして、戦後の天皇制の如く、日本を象徴する“美”として伝統の中心に存してもいる。
さて、この日本刀というものの<切れやすさと折れにくさ>という両面を人間に引き下げて考えてみると、どうも、前者は知性という世の中、ビジネスで勝ち残ってゆく必須の要素、そして後者は感性というプライベート空間、私的生活を律しなくてはならない因子ともいえる。この知性と感性とを兼ね備えた人間を、一般には、教養があると言えるような気がするのである。戦いにおける攻めと守りともいえよう。おそらく欧州の近世以前の剣というものは、ただ切れやすいだけ、しかし現場では折れやすくもあったであろう。そこから、飛び道具としての鉄砲の誕生も必然と私は観る。一方、日本では、この日本刀というものの実用性が抜きんでてもいたため、飛び道具は、弓矢の域に留まっていたのかもしれない。しかし、種子島以来、実用性が断然まさる鉄砲が、50年足らずで西欧を凌ぐまで普及したが、様式美というものへの愛着かは知らぬが、近代美術品として姿を変えて今に至ってもいると考えられる。それは、デジタル貨幣、電子商取引が、日本でいまいち普及しない要因は、日本紙幣の高品質、絶対的信頼性というものが日本人の精神の根底にあるのと通底してもいよう。
本題に戻るとしよう。日本刀や樂茶碗の名品、これらを作るという営みは、意図的に、そうなるという目標には至らないということを我々に教えてもくれている。これは、今般日本電産の永守重信会長が、即、社会に、会社に役に立つ人材を輩出する目的で私財を投げうってKUAS(京都先端科学大学)という大学を設立した模様であるが、その目論見は吉と出るか凶とでるか、恐らく、中吉や末吉程度であろうが、その夢は永守氏が存命中は実現しそうにない。そのころ、本家でもある世界一のモーター会社がどうなっているかも知れたものではない。
因みに、永守会長は次のエピソ―ドをご存じないのかもしれない。
令和の上皇(皇太子明仁親王)の人格形成の家庭教師役、戦後皇室の“ファッションデザイナー”でもあり、美智子皇后を引き合わせた偉人である。それは、福澤諭吉の秘蔵っ子にして慶應大学中興の祖でもある小泉信三である。次の逸話から彼の慧眼の確かさ、そして深さが伝わってもくる。
福澤の教え子の大実業家藤原銀次郎が、戦後すぐ、自身の藤原工業大学{※ここが日吉の敷地にあった}を「慶應には理工系学部がない、福澤先生の願いでもあった理工学部を慶應に譲ろう」と慮って母校に寄付する英断をしたとき、財界のお歴々は、「おう!いよいよ慶應にも工業などで役に立つ人材を輩出する学部ができたか!」と言い放ち、実業界からは莫大な寄付があったそうである。その時の彼らの注文は「これからは、どしどし社会で役に立つ人材を輩出してください」といったものだったそうである。それを聞いた小泉塾長の名言である。
「すぐに役にたつものは、すぐに役に立たなくなる」