コラム

客観と主観について語る

成功とは客観であり、失敗とは主観である。(一般論)
成功へと導いた客観を恐れよ!失敗へと導いた主観を畏れよ!(露木康仁)
失敗の主観が成功へと反転したとき真の主観となる。これが理論というものとなり社会に認知され、定着されてもいく。この意味でのみ、「失敗は成功の母である」が真実味を増してくる。この点で、客観などある意味幻想である。真の主観と偽の主観があるに過ぎない。この文脈で近年、令和の“一休禅師”的存在、愛煙家でもある養老孟司は、「私はデータなんて信じていない」と凡人にはうかがい知れない意味深なコメントをしている。今や、“エビデンス!エビデンス!”の大合唱時代に、冷や水をかける。それは、最近のデータサイエンスとやらのブームに水を差すものである。大学もデータサイエンティストを育てること、大企業は、それを渇望している趨勢に、一段上から、その皮肉な目線を注いでもいる。ビッグデータにしろ、スモール(?)データにしろ、エビデンスとやらにしろ、濃密な個に支えられた主観というものが、そうした情報や知識を生かすも殺すもするということに過ぎない。
通常のマーケティング、つまりは浅い客観で、売り上げを上げるという現象を生む。深い客観、実はそんなものはないのであるが、それこそが、安定した、持続性を有する売り上げを保証もする。それが長期に続けば、それがブランドとして確立する。この典型的成功例が、セブンイレブンである。これは、鈴木敏文の小売りの鉄則でもあるのだが、<仮説⇒実践⇒検証>これの繰り返しを地道に行ってきた結果である。この仮説は、決してデータや情報などといった客観性に拠るものではない、むしろ絶対に主観性に基づくものであるべきだと鈴木は主張する。その個人の仮説を、売り場で実行し、そして、客観性というデータや情報で確証させる行為、それが小売業の要諦であるとも語る。鈴木は過去のPOS情報を観るな、参考にするなと敢えて部下に語りかけてもいた。なぜならば、それは、薄っぺらな客観性の蜃気楼に過ぎないからである。研究にしろ、商売にしろ、受験勉強にしろ、それは、主体に基づいた主観性が、成功の発芽の原点でもあるということである。ここに「予備校や塾に依存する者は失敗し、利用する者は成功する」(飯田康夫:元駿台予備校講師)という意味が輝きを増してもくる。つまり、自ら前向きに思考しない受験生は、日露戦争の成功体験で、太平洋戦争へと乗り込むようなものであると言いたいのである。
SNS社会に象徴されてもいるデジタル化の世の中では、個というものを持ちにくくさせて、むしろ、主体性という自我が消滅しかかってもいるとうことである。ここにデジタル化社会の行き過ぎにおけるアナログ精神の大切さを私は語ったまでである。理由は簡単である。主体が主観を形成し、自我が主体を支えているからである。この意味で、科学よりも、芸術が主観の養分たりうる。ノーベル賞受賞者のバックボーンが、福井謙一にとって夏目漱石であり、益川敏英にとっては芥川龍之介であったことがそれを証明してもいよう。これを論理の飛躍と捉えてはならない。嘘だと思う方は、山口周氏の書籍を読めば納得するはずである。
主観、いや強靭なる主観、折れない主観をなめてはいけない。自己の堅牢なる主観を恐れてはいけない。脆弱なる客観を恐れよ。浅薄なる主観を排除せよ。
客観性とは、一般論として、成功の最大公約数である。これを弁えている高校生が、現代文で高得点を取る。一方、主観性とは、特殊論(?)ともなるが、失敗の最小公倍数である。後者が前者に下克上したとき、社会が進歩し、個人は成長するものである。GAFAの企業家がほとんど20代で起業した、その情熱、モチベーションこそが、激烈なる主観でもあった。
ここで付け加えておくが、現代文で成功した受験生は、大学生ともなれば、その狭隘なる客観性を脱ぎ捨てねばならない。それは、表面上の、今流行りの“論理力”であるに過ぎないからでもある。この上っ面の、受験で培ってきた(?)“論理力”とやらの上着をなかなか脱ぎ捨て切れない者が、おじいちゃんおばあちゃんが喜ぶ大企業へと入社する。こうした連中の巣窟の大企業は、帝国陸軍と同じ運命をアメリカにされようとしている。テスラとトヨタの関係ともいっていい。iPhoneのアップルとガラケーのdocomoの関係ともいっていい。
 

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