コラム
認知能力と非認知能力は分業とすべきか?
前回、内村航平の記者会見に言及し、アスリートの世界から、現況の教育界の師弟関係にまで敷衍して意見を述べてみた。
では、この内村航平のコメント、技能と人徳という側面を、今教育界でも頻繁に話題にもなっている、認知能力と非認知能力といった面で斬りこんでみたいと思う。
教育実践家藤原和博氏や、スタディサプリの生みの親リクルートの山口文洋氏などが、しきりに主張されてもいる論調「学校は、これから非認知を教える場となる。認知能力は、塾や予備校でもなく、ネットで、スマホで、スタディサプリのようなもので英数国理社など効率よく、上手に学べばいい」といった発言、これをテーマに語ってみたい。
話はとぶがエジソンの余りにも有名な名言「発明は、1パーセントのひらめきと99パーセントの汗だ」といったものがある。これは、99パーセントは無駄かもしれない行為の表徴としての“汗”、いやほとんどの人には無駄とおもえるような行為、学習、努力、これがあっての1パーセントのひらめき“天才”が生きる、生まれてくる、いや、巡り合えるという謂いである。
思考力・表現力・論理力などは、大学入学共通テストのコアともなっている理念である。それと似通ってもいる非認知能力とは、創造性、共感性、協調性、主体性、コミュニケーション力などさらに、形而上的理念ともなっている。非認知能力とは、社会的情緒とも言われている。ここで断りを入れておく、岡潔曰く「数学とは情緒である」これを忘れずにいて欲しい。
藤原和博氏が推奨されてもいる教育観というものがある。これから学生に必要なのは、情報処理能力ではなく情報編集力であるといったものである。情報処理能力とは、これまでの受験を前提とした暗記主体で、解答のある問題をなるべく速く、なるべく上手に、処理できるか、その能力をいい、それが教育の要諦でもあったという。これからは、問題を見出し、どう組み合わせて、解決へと導くのか、従来とは全く違った方向性が求められる。それこそが、教育がネックとなるとも語る。それが情報編集力であるという。
ここでいう、認知能力と非認知能力は、まるで<分業化社会>の教育観とも私の眼には映る。情報処理能力は、一種ブルーカラー的学習として見下し、情報編集能力は、ある意味ホワイトカラー的学習でもあるかのような、差別的見解として耳に響く。日ごろ、藤原氏の言説には、共感、納得する点が大なのだが、この両点に関しては、どうも彼の古巣のリクルートのネット学習を全面肯定し、平成までの、基礎学力育成のイニシアティブを、スマホという文明の利器とスマホ中毒者にかこつけて、学校や塾・予備校の場から奪い取り、リクルートをベネッセや東進ハイスクールの立ち位置から奪還する誘導策のような言説がどうも、違和感を感じずにはいられないし、気に入らない。つまりは、平成までの非効率なアナログ認知能力涵養の役割は、デジタルに移行せよ、デジタルに任せよといわんばかりの口吻に、リクルート教育産業の絶対肯定主義の匂いを感じてしまう。それは、何故なのか?
中等教育の段階で、非認知能力みの涵養を云々するのは間違いである。それは初等教育が発芽の起点ともなっているかである。また、中学からでは遅すぎる、いや、認知能力の向上の過程で、非認知も伸ばすというのが筋、本道、正道とさえいえる。その為に、中学校から部活という存在がある。最近では、部活廃止論も聞くが、部活の効用とは、ある意味非認知能力を育てる役割に存するともいえるのである。
それはこういうことでもある。リアルの、同じ時間空間の教室内で、数十名の他の生徒と、英語を学ぶ、数学を学ぶ、国語を学ぶ、その場の空気という、ある意味、教師と生徒の間の学びの内容から、その教科の内容を差し引いたもの、その余分の語り、態度、雑談などが、ある意味、その科目を土台として生徒の非認知を育ててもいると言える。それは昭和の予備校文化を熟知している者なら首肯する真実でもある。それは、おいしいカキが気仙沼湾に森林の養分が河川と通して流れている事例や、ミュージシャンのライブのMCがまた、その生の魅力の一つとなっている事例にも似通ってもいる。
初等教育は、脇におく。中学生から高校生の年齢で、認知能力は、ネットというヴァーチャルな世界で十分学び足る、これから重要な非認知能力こそ、現場の学校が教えよといった分業化の論が、教育実践家の和田氏やスタディサプリの生みの親でもある山口文洋氏によって喧伝されてもいる状況は、ホリエモンこと堀江貴文氏などが主張してもいる、大学不要論、つまり、大学で学べる内容は、すべてネットで学習できる。今や、大学などに行く必要なし論とも似通ってもいる。
“不便益”という用語が最近脚光を浴びてもいる。それを捩って“非効率益”という用語を、教育に適応すれば、まさしく、非効率性から生まれる非認知能力の芽というものがうかがい知れる。
エジソンの1パーセントのひらめきを“非認知能力”と準えよう。99パーセントの汗を“認知能力”と言い切ってもいいかと思う。
ここに、ホリエモンがかねてから主張されてもいる論、「寿司職人になるには、あんな10年もの修行期間など不要だ、半年寿司専門学校で学べば、一つ、二つ星の名店の寿司の匠になれる」、これも藤原和博氏の言説と類似している。この寿司職人修行論は、議論の分かれるところではある。寿司学校出の職人は、この非認知能力とやらが私に言わせれば、育たない可能性が大ともいえる。一般論としては、“寿司さえ旨けりゃ問題あるまい、客は大勢くる”といった論でもあろうが、そこが問題点、急所である。N高から、大学生に、独学で高卒認定をもらい、大学生になったルートが、中等教育の段階で非認知能力が育まれるか否かといった問題でもある。
ホリエモンの<多動力>といったコンセプトは、ある意味、飽きっぽくあれこれ手をだし、自身の適正に気づけ的論調でもある。表層的無駄をいっぱいしろというに等しい。やはり、あれこれを好奇心のおもむくままに、自身のスキルを磨けという方向性でもある。
しかし、これは、社会人には適応可能やもしれない、未成年、それも親の支配と学校という制約の中では、むしろ、積極的無駄をあれこれするなかで、自身の適正に気づくというのが、教育という本道、本義でもある。これをホリエモンは、「全ての教育は洗脳である」と言い張る。でも、実社会では、会社、上司、自己啓発本なども、ある種“洗脳”といってしまえば、身もふたもない。ホリエモンもある意味、ネット社会の教祖様である。故に、ホリエモンの意見も、ある意味で洗脳の道具である。
こう考えると、知的虚無主義に陥って、処世術のアナーキストになれ下がるのが落ちでもある。ある意味、ホリエモンもそういう部族である。大正デモクラシーにおける大杉栄的存在が、平成末期から令和にかけての堀江貴文でもあろうか。
では、この内村航平のコメント、技能と人徳という側面を、今教育界でも頻繁に話題にもなっている、認知能力と非認知能力といった面で斬りこんでみたいと思う。
教育実践家藤原和博氏や、スタディサプリの生みの親リクルートの山口文洋氏などが、しきりに主張されてもいる論調「学校は、これから非認知を教える場となる。認知能力は、塾や予備校でもなく、ネットで、スマホで、スタディサプリのようなもので英数国理社など効率よく、上手に学べばいい」といった発言、これをテーマに語ってみたい。
話はとぶがエジソンの余りにも有名な名言「発明は、1パーセントのひらめきと99パーセントの汗だ」といったものがある。これは、99パーセントは無駄かもしれない行為の表徴としての“汗”、いやほとんどの人には無駄とおもえるような行為、学習、努力、これがあっての1パーセントのひらめき“天才”が生きる、生まれてくる、いや、巡り合えるという謂いである。
思考力・表現力・論理力などは、大学入学共通テストのコアともなっている理念である。それと似通ってもいる非認知能力とは、創造性、共感性、協調性、主体性、コミュニケーション力などさらに、形而上的理念ともなっている。非認知能力とは、社会的情緒とも言われている。ここで断りを入れておく、岡潔曰く「数学とは情緒である」これを忘れずにいて欲しい。
藤原和博氏が推奨されてもいる教育観というものがある。これから学生に必要なのは、情報処理能力ではなく情報編集力であるといったものである。情報処理能力とは、これまでの受験を前提とした暗記主体で、解答のある問題をなるべく速く、なるべく上手に、処理できるか、その能力をいい、それが教育の要諦でもあったという。これからは、問題を見出し、どう組み合わせて、解決へと導くのか、従来とは全く違った方向性が求められる。それこそが、教育がネックとなるとも語る。それが情報編集力であるという。
ここでいう、認知能力と非認知能力は、まるで<分業化社会>の教育観とも私の眼には映る。情報処理能力は、一種ブルーカラー的学習として見下し、情報編集能力は、ある意味ホワイトカラー的学習でもあるかのような、差別的見解として耳に響く。日ごろ、藤原氏の言説には、共感、納得する点が大なのだが、この両点に関しては、どうも彼の古巣のリクルートのネット学習を全面肯定し、平成までの、基礎学力育成のイニシアティブを、スマホという文明の利器とスマホ中毒者にかこつけて、学校や塾・予備校の場から奪い取り、リクルートをベネッセや東進ハイスクールの立ち位置から奪還する誘導策のような言説がどうも、違和感を感じずにはいられないし、気に入らない。つまりは、平成までの非効率なアナログ認知能力涵養の役割は、デジタルに移行せよ、デジタルに任せよといわんばかりの口吻に、リクルート教育産業の絶対肯定主義の匂いを感じてしまう。それは、何故なのか?
中等教育の段階で、非認知能力みの涵養を云々するのは間違いである。それは初等教育が発芽の起点ともなっているかである。また、中学からでは遅すぎる、いや、認知能力の向上の過程で、非認知も伸ばすというのが筋、本道、正道とさえいえる。その為に、中学校から部活という存在がある。最近では、部活廃止論も聞くが、部活の効用とは、ある意味非認知能力を育てる役割に存するともいえるのである。
それはこういうことでもある。リアルの、同じ時間空間の教室内で、数十名の他の生徒と、英語を学ぶ、数学を学ぶ、国語を学ぶ、その場の空気という、ある意味、教師と生徒の間の学びの内容から、その教科の内容を差し引いたもの、その余分の語り、態度、雑談などが、ある意味、その科目を土台として生徒の非認知を育ててもいると言える。それは昭和の予備校文化を熟知している者なら首肯する真実でもある。それは、おいしいカキが気仙沼湾に森林の養分が河川と通して流れている事例や、ミュージシャンのライブのMCがまた、その生の魅力の一つとなっている事例にも似通ってもいる。
初等教育は、脇におく。中学生から高校生の年齢で、認知能力は、ネットというヴァーチャルな世界で十分学び足る、これから重要な非認知能力こそ、現場の学校が教えよといった分業化の論が、教育実践家の和田氏やスタディサプリの生みの親でもある山口文洋氏によって喧伝されてもいる状況は、ホリエモンこと堀江貴文氏などが主張してもいる、大学不要論、つまり、大学で学べる内容は、すべてネットで学習できる。今や、大学などに行く必要なし論とも似通ってもいる。
“不便益”という用語が最近脚光を浴びてもいる。それを捩って“非効率益”という用語を、教育に適応すれば、まさしく、非効率性から生まれる非認知能力の芽というものがうかがい知れる。
エジソンの1パーセントのひらめきを“非認知能力”と準えよう。99パーセントの汗を“認知能力”と言い切ってもいいかと思う。
ここに、ホリエモンがかねてから主張されてもいる論、「寿司職人になるには、あんな10年もの修行期間など不要だ、半年寿司専門学校で学べば、一つ、二つ星の名店の寿司の匠になれる」、これも藤原和博氏の言説と類似している。この寿司職人修行論は、議論の分かれるところではある。寿司学校出の職人は、この非認知能力とやらが私に言わせれば、育たない可能性が大ともいえる。一般論としては、“寿司さえ旨けりゃ問題あるまい、客は大勢くる”といった論でもあろうが、そこが問題点、急所である。N高から、大学生に、独学で高卒認定をもらい、大学生になったルートが、中等教育の段階で非認知能力が育まれるか否かといった問題でもある。
ホリエモンの<多動力>といったコンセプトは、ある意味、飽きっぽくあれこれ手をだし、自身の適正に気づけ的論調でもある。表層的無駄をいっぱいしろというに等しい。やはり、あれこれを好奇心のおもむくままに、自身のスキルを磨けという方向性でもある。
しかし、これは、社会人には適応可能やもしれない、未成年、それも親の支配と学校という制約の中では、むしろ、積極的無駄をあれこれするなかで、自身の適正に気づくというのが、教育という本道、本義でもある。これをホリエモンは、「全ての教育は洗脳である」と言い張る。でも、実社会では、会社、上司、自己啓発本なども、ある種“洗脳”といってしまえば、身もふたもない。ホリエモンもある意味、ネット社会の教祖様である。故に、ホリエモンの意見も、ある意味で洗脳の道具である。
こう考えると、知的虚無主義に陥って、処世術のアナーキストになれ下がるのが落ちでもある。ある意味、ホリエモンもそういう部族である。大正デモクラシーにおける大杉栄的存在が、平成末期から令和にかけての堀江貴文でもあろうか。