コラム

出口汪氏の教養論は薄っぺらく説得力に欠ける

 先日、YouTubeでカリスマ現代文講師出口汪氏の「教養の身に付け方」を観た。
 まず、まくらで、出口氏は、2チャンネル創設者のひろゆきのコメントに言及していた。
 
「学校の授業に古文は必要か?」といったものである。まるで国語教師の陣営擁護者のスタンスがありありとわかる意見を披露されてもいた。いわば、出口氏いわく、「教養という目線で、古文は必要である」「役に立つ、立たないという観点からは教養は成り立たない」という論調で、古文の科目の存在を擁護してもいた。「古文は、役には立たないが、深く学べば面白い」「その面白いが、人間の幅を広げ、教養ともなる」と。
 
 このひろゆきのYouTubeの動画を以前に私も観た。「古文なんて学校の授業には無用だ!」と主張されてもいて、最後に、カリスマ古文講師吉野敬介氏に、意見を求めたところ、古文を何百万人の受験生に教えてきた彼自身も、ひろゆきに反論できず、「必要ないかもね」と心もとない発言をされていた。最後は、「僕も、吉野先生に代ゼミで古文を習ったんですよ」とダメ押しされ、吉野氏自身もグーの音も出ない始末であった。
 
 極論ながら、中等教育で学ぶほとんどの科目は、実社会では‘役には立たない’。一方、小学校における、漢字を習う国語や掛け算九九を暗記する算数などは、絶対に実社会では必要な教科の典型でもある。社会や理科もそれに準ずるともいえよう。それが、中学高校ともなれば、特に、高校の古典の授業は将来の仕事や生活に一切かかわりがないとも言えよう。
 では、私の論を披歴する。中等教育の殆んどの科目は、日本社会の知的レベルを維持するために各世代が、一応、わきまえて、次の世代へと継承する、伝承してゆく知的たしなみでもあると断っておく。
 古文なんぞは、やってもやらなくても個人レベルの将来の人生には、表面上、非教養の面で、実益性の観点でも無用の長物である。しかし、この古文や日本史なんぞの科目は、日本人として<知的学校内の徴兵制度>とも弁えておく必要がある。赤子から幼児へ、幼児から小学校1年まで、桃太郎や浦島太郎などの多くの昔話を皆が知っているように、思春期の“桃太郎”や“浦島太郎”が「枕草子」であり「源氏物語」でもある。ある意味、日本国籍のパスホート、アイデンティティーともなるのが、古典や日本史なのである。
 
 古文という科目は、<日本沈没>という民族的大惨事・悲劇が現実となり、世界に彷徨える民となった際の、日本民族の存在の保険でもある。ちょうど、ユダヤ人にとっての「旧約聖書」のような存在、それが、「源氏物語」であり、「平家物語」であり、近代の文芸作品でもある。
 個人レベルで、古典や国語という科目を語ってはいけないのである。また、出口氏が主張されてもいる個人としての、深く学べば面白いといった次元の教養としての古文でもない。
 
 言語とは、社会におけるコミュニケーションのためだけでなく、その社会を世代から世代へと守り継承していくための手段でもある。言語とは文化である。言語を美術品の如く保護しているのがフランスアカデミーでもある。
 
 これと同次元で古文という科目の存在意義があるのである。いわば、その<文化という神輿の担ぎ手>、それが、高校生の役割でもあり、非義務教育の過程における“文化的徴兵制”でもある。その軍役ならぬ、文役こそが、高校生の義務でもあり、高等教育(大学)へのパスポートなのである。
 
 古文という科目を、役に立つとか立たないとか、または、将来の教養となるなどといった論点は、ひろゆきや巷の高校生や社会人から論破されるのが落ちである。
 極論を申し上げる。世に、公民などという中学の科目から、日本国民は、教育を受ける権利、納税する義務など自明の理として認識もしていよう。しかし、日本文化、日本人として嗜み、文化的・知的マナーやエチケットとして、わきまえておくべき義務、それが古文という科目の存在意義でもある。それは、明治から昭和にかけての文豪とされる作品にも言えることである。これを弁えているか否かが、西欧の文脈での真のエリートか否かのリトマス試験紙ともなりうるのである。面白から、面白くないから、役に立つとか、立たないからとか、そういった次元で語る筋合いのものではない。
 
 海外のエリートビジネスマンに限り、三島、谷崎、漱石を、商談の後、ディナーでポンポンと口にする。日本でお勉強だけで受験の勝ち組ともなった、有名大学出の一流商社マンが、ためをはることはできない。
 エリート教育の総本山、フランスなどでは、小学校からラフォンテーヌの寓話を暗唱する。そして、リセになると、ルソーからサルトルまでの名言や有名な一節を多く暗記してもいる。古典が日常の周辺にある。これを自然と感じる環境の中にいる人、それが教養がある人という。大学時代に、時事通信社パリ支局長でもあった倉田保雄氏{仏語と英語の達人}から教わった真実である。成金やタレント上がりのセレブと京都や日本橋の老舗のセレブの文化的佇まいの違いとも言ってもいい。
 何も、痩せ我慢してまで、古典を学ぼう、古典を面白いと感じるメンタルを身に付けよう、そう努力している人が、教養がある人なのではない。そうした科目を、実益主義から超然として、<文化的日本人として宿命>として覚悟し、それに向き合ってもいる人、それが、入門レベルの教養人でもあり、エリートのメルクマールでもある。
 
 音楽なんぞは、将来の利益になる、役にたつなどとは誰も考えてもいない。しかし、音楽が、プラーベートで、また仕事で、どれほどの<影の効用>をもたらしてくれているかは、高校生から社会人までどれほど多くの人が認識していることだろう。そうである。この音楽という日常の友を、古典や美術、歴史や哲学に拡大してゆけるか、それができている人を教養がある人ともいう。

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