コラム

長嶋茂雄の少年性

 成人しての、大人になっての、自身の内面における少年性といったコア、即ち、やんちゃ性、ちゃめっけさ、わんぱく魂、いたずら気質、こうした要素は、自我意識から消滅されてしまうのか、枯渇してしまうのか、はたまた、無意識の閾へと沈み込んでいってしまうのか、特に、会社内の役職や立場、家庭内での親の自覚、こうした社会化というものが、自身の少年のみずみずしさを、女性の肌のみずみずしさ同様に、失わしせしめていると考えるのは、私の妄想であろうか。
 
 大人になっての、青年期でもいい、その輝く感性ともいえる、あのソニーの有名な創業理念ではないが、「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」に相通ずるソニースピリッツが、江戸から明治、戦前から戦後とエポックメイキングした際に、見失ってしまった、忘れ去られた感が否めない。日本らしさの、あらゆる根底を流れてもいる“明朗なる徳”といった側面が、国家レベル、社会レベル、個人レベルで希薄となっていった。それと並行するかのように、自身を社会化することで、《愉快なる精神》を手放し、その《自由闊達》さを忘れ去ってしまったように思える。
 
 自身の、わんぱく、やんちゃ魂といった、人間本来がもつ資質が、早い段階では、小学生から、一般的には、中高生から、学校という制度の中で、社会化というシステムの歯車で、農薬で駆除される雑草のように、その人自身の心の一角から姿を消してしまう。ここである。いくら駆除しても生えてくる雑草こそ、大人になっても、ちゃめっけが抜けず、ある面で、その人物のチャーミングポイントともなっているのである。いや、その人物の<生業の武器>とすらなっているのである。その人物とは、昭和のプロ野球のヒーロー長嶋茂雄である。“ユニホームを着たターザン”とも評される所以である。彼の評伝は、まだ存命中もあり、定番のもの、決定版は、出ていない。長嶋伝説、長嶋語録など、彼にまつわるエピソードは、巷に多数を極める。
 
① ホームランを打って二塁ベースを踏み損ねた事件(本来ならホームランは445本である)
② 後楽園球場に、息子一茂を観覧させて、予言通りホームランを打ったものの、彼を球場に置き忘れた事件、「一茂、パパ言った通り、ホームラン打ったぞ!観てたか?」と自宅の玄関先で絶叫して、それに気づいた一件である。
③ 敬遠された際、それに抗議して(?)バットを逆さに持ってバッターボックスに立った事件{※いかにも新庄剛志の前例を行く、半世紀以上も前の行為、ある意味、新庄もファンに愛されているのは、宇宙人的“幼児性”にある。常人には、踏み込めない、できない行動でもあるからだ}
④ V9時代、川上監督が、長距離バッターで、ホームラン王の常連でもあった王貞治を3番にして、中距離バッターの長嶋を敢えて4番に据えていたこと(後輩の王が、ホームランを打てば、先輩の長嶋は、「ようし、俺も打つか!」と奮起する、“単純思考で、前向きな性格”の長嶋の個性を熟知していたこと:アベックホームランがこの3,4番コンビが一番多かった
⑤ 日本シリーズで、南海ホークスの名捕手野村克也のささやき戦法に唯一乗ってこなかった長嶋のキャラ、むしろ、その天然性が、野村コンピュータを乱したくらいであった。{※この気質は、先生のいっていることを上の空で聞いていて、教室内で、叱られる小学生:これなどは近年、学習障害という語で処理されることが多い}
⑥ ホームランを打って、ホームインする手前で、おどけてスキップしてくる、愛くるしい仕草をする光景{※嬉しい感情を素直に放出する天然さ、一方、王貞治は、クールに仮面を被り抑えた}
 
 こうしたエピソードは、むしろ、幼児性、子供っぽさ、やんちゃ気質が根っこになければ、生まれはしない。大人になっても、その少年性というものが、最大限発揮された証拠でもある。もちろん、フィジカル面、技術面、天賦の才といった重要素が、ベースになければならない。これは、<モーツアルトの音楽と彼の天然の幼児性>との関係を彷彿とさせるものである。
 以上のエピソ―ド以上に、長嶋の、ポジティブシンキングを証明する事例を挙げてみよう。
 その試合当日、3打席ノーヒット、いよいよ、最終打席の4打席目、3対1で、九回の裏、巨人が負けている。塁上には、二人一塁と二塁に走者がいる。その日はスランプである。普通の、尋常なる打者であれば、相当のプレッシャーで、凡打となり、ゲームセットである。彼は「おお!いい場面に巡り合ったぞ。ここで一本ホームランを打てば、逆転サヨナラだ、今日のヒーロだ!」そう思って、今日のマイナス要因を振り払い(※忘れ去ってか?)、チームを覆いかぶさる悲観的ムード、そして自身に蔽いかぶさる重圧を一切忘れて打席に立ち、ホームランを打つ。だから、長嶋は、ここぞという場面で、大活躍をした。“記憶の長嶋・記録の王”、その所以である。
 
 ある意味、プレッシャーに弱い、重圧に押しつぶされる人とは、いい意味での、幼児性に欠けているのである。状況を跳ね返す、いなす、逆手に取る、こうした精神の心持、武器とは、私がいう流儀における、少年性なのである。少年野球、高校野球、こうしたスポーツでも、プレッシャーに弱い少年は、元来資質にもよるだろうが、幼児、子ども時代のわんぱく気質、やんちゃ精神が、心の均衡を保っているように思えて仕方がないのである。この重圧を跳ね返すのは、一般的には、努力に裏打ちされた自信というものであろう。「あれだけ、練習したんだから、できないはずがない!」と自身に呟くメンタル、それを砂上の楼閣ともいえる幻想的自信と、私は呼ぶ。理由は簡単だ。常人は、あの王貞治ほどの努力はしていなからだ。それなのに、努力したと過信している。それがスキルとつり合わないからだ。自己を騙しているうちはいい、その楼閣が、崩壊する、なくなるや、モノを言うのが、この少年性でもある。子どもっぽさをバカにしてはいけない。




 

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