コラム
センター試験を通して観た早慶
早稲田と慶應に関して、センター試験の色眼鏡で、比較してみたいと思います。
早稲田は、偏見を敢えて交えて申せば、文科省べったり依りで、20年近くセンター試験枠を設けてきました。しかも、2020年度から実施される英語資格系入試問題への率先した参加態度表明、これなども文科省への気配り、配慮といった今流の“忖度”が見え見えです。
それに対して、慶應はセンター試験は、これまで一切使用しない独自路線{※これを受験制度の独立自尊と私は呼んでいます}を走ってきました{※ある期間ある学部でセンター試験を使用したj時期がありましたが、すぐ中止しました}。これは、一見奇妙に思われます。なぜなら、慶應という大学は、一般的なイメージとして、体制派、いわば、政府よりとも言える大学です。1万円札が、依然として福沢諭吉であること、慶應創立150周年記念式典で、今上天皇皇后両陛下が、日吉の会場に御列席されたこと{※これは、今上天皇の独身時代の養育係であり、帝王学を伝授した人物が小泉信三であったことが大きな理由}、政府の教育諮問委員会なる議長が元慶応の塾長{※○石川忠雄:立派だった・△鳥居泰彦:まあまあの活躍・✕安西祐一郎:全く駄目}が非常に多いこと、などなど、慶応は、政府・国家と繋がりの強さは、財界人(三田会)とも政治家が繋がっているという慶應閥なる存在にも起因しているのでしょう。その一方、早稲田は、大隈重信の意志{※昔の早稲田のスローガン「藩閥政府と闘った大隈の遺志を守れ!」}を継いで、ジャーナリスティックなジャンル(新聞メディアなど)で、政府を攻撃するイメージ{※最近では、こうしたイメージは文化構想学部に象徴されるように全く消滅してしまいました}が強かろうかとも思われますが、早稲田雄弁会出身の自民党政治家{※竹下登・森喜朗・海部俊樹など}が多くいたとしても、彼らは、その雄弁会には愛着があっても、慶応愛に比べ、早稲田愛というものは、ドライ、クールであることは想像に難くありません。
慶應は、2020年度から実施される英語資格系入試問題には、一切かかわらない態度は、センター試験時代と全くかわりません。独自路線を貫きます。
そもそも、「入試問題は、ある意味学校(大学や高校中学)の顔である」(伊藤和夫)という言葉を引用すると、私大の身{※敢えて、分際と言いたいところですが}でありながら、国公立系のセンター試験だの、民間の英検やTOEICだの、GTEC(ベネッセ系)やTEAP(上智系)だのを入試の採用基準にするなどは、その教育機関の一貫性や理念のあやふやさ以外の何ものでもない、また、独自の入試制度への自殺行為とさえ言えます。まるで、母親の育児をすべてベビーシッター任せにしているようでもあります。
早稲田なら、一発勝負の2月受験コースのほかに、これまでセンター試験枠を設けてきたり、上智にしたら、センター試験枠がないもものの、TEAPなるもので、一般入試とは違った入口を設けました。
今や、英語入試システムの合従連衡の時代でもあり、まるで、幕末、尊王攘夷、尊王開国、佐幕攘夷、佐幕開国といった政治思想の下、雄藩(私立大学)が、朝廷(文科省の資格系試験理想派)か幕府(東大・京大の資格系試験懐疑派)のどちらか依りになり、開国(実用英語:使える英語⇒話し・聞く重視)か攘夷(教養英語:アカデミック英語⇒読み・書く重視)といった外交方針の勢力のつばぜり合いをしているような観すらあります。これは、極端な比喩であり、これほど短絡的に括れないこと承知で面白く(笑)語っているまでです。
和魂洋才なる、一種理想的な四文字熟語がありますが、これなどは、資格系試験採用否定派であり、洋魂洋才なるものが、資格系試験肯定派でもあります。皮肉まじりに言いますが、政府(安倍晋三=伊藤博文と下村博文=井上馨)は、英語教育の“鹿鳴館”をやっている観すらあります。無理やり、不自然なほど、欧米化の英語教育へ舵を切ろうとしているのです。
平成30年の終わりにかけて、昭和なら田中角栄(プラスマイナスの両面あり)、平成なら小泉純一郎(ほとんどマイナス面のみ)と、これからその元号で象徴される総理大臣が思い出されてもくるものと思われてきます。「改革なくして成長なし」というスローガンの劇場型政治(※トランプ政権も同じ)に如実に表されているように、経済・金融のグローバル化とITの超進化による、改革の嵐の時代とでも平成という時代を規定してよかろうかと思われます。勿論、未曾有の大災害の30年とも想起する方もおられましょう。しかし、そのグローバル化とIT化の世の中で、庶民にとって果たして、プラスとマイナスを天秤にかけた時、大きく、マイナスに傾く日本社会であったことは、細かい点{非正規社員の増加・中間層の激減⇒下層国民の激増・いびつなまでに歪んだ格差社会など}には触れませんが、事実ではなかったでしょうか?それを、象徴するのものが、平成も終わった後に実施される、英語民間資格系試験の導入というものです。これには、様々な問題点があると、毎日新聞{2019年2月18日}は報じています。そのあらましです。
英語民間試験導入 なお不安
高校現場が抱いている心配や課題
以上のように、様々な問題点が浮かび上がってくるのが、今般の2020年度に始まる大学入学共通テストに導入される民間資格・検定試験というものの特徴です。
ここで、最近特に注目されているイギリスの現代保守主義の代表的理論家マイケル・オークショットの言葉を、二つ引用して、このコラムをお読みいただいているご父兄・高校生の方々にお考えいただきたいのです。
「変化によって失うものは確実だが、変化によって得られるものは不確実である」
#近々、慶應元塾長安西祐一郎氏が、何故、駄目塾長なのかを申し述べる予定です。
早稲田は、偏見を敢えて交えて申せば、文科省べったり依りで、20年近くセンター試験枠を設けてきました。しかも、2020年度から実施される英語資格系入試問題への率先した参加態度表明、これなども文科省への気配り、配慮といった今流の“忖度”が見え見えです。
それに対して、慶應はセンター試験は、これまで一切使用しない独自路線{※これを受験制度の独立自尊と私は呼んでいます}を走ってきました{※ある期間ある学部でセンター試験を使用したj時期がありましたが、すぐ中止しました}。これは、一見奇妙に思われます。なぜなら、慶應という大学は、一般的なイメージとして、体制派、いわば、政府よりとも言える大学です。1万円札が、依然として福沢諭吉であること、慶應創立150周年記念式典で、今上天皇皇后両陛下が、日吉の会場に御列席されたこと{※これは、今上天皇の独身時代の養育係であり、帝王学を伝授した人物が小泉信三であったことが大きな理由}、政府の教育諮問委員会なる議長が元慶応の塾長{※○石川忠雄:立派だった・△鳥居泰彦:まあまあの活躍・✕安西祐一郎:全く駄目}が非常に多いこと、などなど、慶応は、政府・国家と繋がりの強さは、財界人(三田会)とも政治家が繋がっているという慶應閥なる存在にも起因しているのでしょう。その一方、早稲田は、大隈重信の意志{※昔の早稲田のスローガン「藩閥政府と闘った大隈の遺志を守れ!」}を継いで、ジャーナリスティックなジャンル(新聞メディアなど)で、政府を攻撃するイメージ{※最近では、こうしたイメージは文化構想学部に象徴されるように全く消滅してしまいました}が強かろうかとも思われますが、早稲田雄弁会出身の自民党政治家{※竹下登・森喜朗・海部俊樹など}が多くいたとしても、彼らは、その雄弁会には愛着があっても、慶応愛に比べ、早稲田愛というものは、ドライ、クールであることは想像に難くありません。
慶應は、2020年度から実施される英語資格系入試問題には、一切かかわらない態度は、センター試験時代と全くかわりません。独自路線を貫きます。
そもそも、「入試問題は、ある意味学校(大学や高校中学)の顔である」(伊藤和夫)という言葉を引用すると、私大の身{※敢えて、分際と言いたいところですが}でありながら、国公立系のセンター試験だの、民間の英検やTOEICだの、GTEC(ベネッセ系)やTEAP(上智系)だのを入試の採用基準にするなどは、その教育機関の一貫性や理念のあやふやさ以外の何ものでもない、また、独自の入試制度への自殺行為とさえ言えます。まるで、母親の育児をすべてベビーシッター任せにしているようでもあります。
早稲田なら、一発勝負の2月受験コースのほかに、これまでセンター試験枠を設けてきたり、上智にしたら、センター試験枠がないもものの、TEAPなるもので、一般入試とは違った入口を設けました。
今や、英語入試システムの合従連衡の時代でもあり、まるで、幕末、尊王攘夷、尊王開国、佐幕攘夷、佐幕開国といった政治思想の下、雄藩(私立大学)が、朝廷(文科省の資格系試験理想派)か幕府(東大・京大の資格系試験懐疑派)のどちらか依りになり、開国(実用英語:使える英語⇒話し・聞く重視)か攘夷(教養英語:アカデミック英語⇒読み・書く重視)といった外交方針の勢力のつばぜり合いをしているような観すらあります。これは、極端な比喩であり、これほど短絡的に括れないこと承知で面白く(笑)語っているまでです。
和魂洋才なる、一種理想的な四文字熟語がありますが、これなどは、資格系試験採用否定派であり、洋魂洋才なるものが、資格系試験肯定派でもあります。皮肉まじりに言いますが、政府(安倍晋三=伊藤博文と下村博文=井上馨)は、英語教育の“鹿鳴館”をやっている観すらあります。無理やり、不自然なほど、欧米化の英語教育へ舵を切ろうとしているのです。
平成30年の終わりにかけて、昭和なら田中角栄(プラスマイナスの両面あり)、平成なら小泉純一郎(ほとんどマイナス面のみ)と、これからその元号で象徴される総理大臣が思い出されてもくるものと思われてきます。「改革なくして成長なし」というスローガンの劇場型政治(※トランプ政権も同じ)に如実に表されているように、経済・金融のグローバル化とITの超進化による、改革の嵐の時代とでも平成という時代を規定してよかろうかと思われます。勿論、未曾有の大災害の30年とも想起する方もおられましょう。しかし、そのグローバル化とIT化の世の中で、庶民にとって果たして、プラスとマイナスを天秤にかけた時、大きく、マイナスに傾く日本社会であったことは、細かい点{非正規社員の増加・中間層の激減⇒下層国民の激増・いびつなまでに歪んだ格差社会など}には触れませんが、事実ではなかったでしょうか?それを、象徴するのものが、平成も終わった後に実施される、英語民間資格系試験の導入というものです。これには、様々な問題点があると、毎日新聞{2019年2月18日}は報じています。そのあらましです。
英語民間試験導入 なお不安
高校現場が抱いている心配や課題
- 機器のトラブルによって受験生に不利益が生じないか
- 受験料が高額で経済弱者には負担が大きい
- 問題の漏えい
- 地方では受験できる試験が限られる
- 学校行事との日程調整が不安
- 大学が求めている英語能力と試験が合致するかどうか
以上のように、様々な問題点が浮かび上がってくるのが、今般の2020年度に始まる大学入学共通テストに導入される民間資格・検定試験というものの特徴です。
ここで、最近特に注目されているイギリスの現代保守主義の代表的理論家マイケル・オークショットの言葉を、二つ引用して、このコラムをお読みいただいているご父兄・高校生の方々にお考えいただきたいのです。
「変化によって失うものは確実だが、変化によって得られるものは不確実である」
- 明治という時代に、夏目漱石は、似たよう言説を吐いています。
- この意味で、小泉純一郎も安倍晋三も保守ではない、似非保守であります。
#近々、慶應元塾長安西祐一郎氏が、何故、駄目塾長なのかを申し述べる予定です。