コラム
教養に目覚める頃~ファスト教養は通過点~
小学校5,6年、もしくは、中学校1、2年、それが、普通、性に目覚める頃といってもいい。では、中学3年、また、高校生時代に目覚める、いや、意識してくるものが、世のイデオロギー、そういえば大袈裟である、正確にいうと、漠として、右的思想と、左的思想が世を二分している現実があるということである。その総本山が、アメリカとソ連であったと昭和の時代、私のフィルターを通して言わせていただくと、そういうことにもなる。韓国と北朝鮮、西ドイツと東ドイツ、こうした現実存在が、もろにそれをリアル化してもくれた。右翼や左翼などは、はっきりと認識してはないのが、思春期でもあっただろうか、そういうものが世の中を動かしている原理だと漠然と感じ始めてもいた。テレビや新聞、大人たちの言説を、見聞きし、何か、社会を動かしてもいる“リビドー”という考え方がはっきりと見えてもくる、それが、高校時代でもあっただろう。
平成後期から令和にかけて、世の中の情報から娯楽に至るまで、活字メディアや地上波ではなく、SNS(スマホやパソコン)に多くの時間を取られることが、ライフスタイルの主流となったことは、ある意味、社会の多様化を象徴してもいよう。しかし、その負の側面、その死角とやらを語ってみたい。それは、便利さ・手軽さに起因する“わかりやすさ”というものの“罪”・“罠”というものが、『ファースト教養』(新潮新書)として具体的な事例を挙げて、真の教養領域における問題点、いや、命題ともなっているからだ。つまりは、小津安二郎や黒澤明の名画を、二倍速、三倍速で観ることは是か非かという問いでもある。
多くのビジネス書をてがけているKKベストセラーズの編集者、鈴木康成はいわゆる自己啓発書の読者について「『時代に取り残されずに生きていきたい』『社会の中で今より下のクラスに転落したくない』と思っている人が少なくありません」と分析している。(『自己啓発本』編集者が明かす『言葉のドーピング』それでも作る理由withnews)。時代の流れについていきながら転落を防ぐためには教養が必要と信じている層の切実なニーズは、教養が受容される環境をますます「ファスト」に染めてゆく。
『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(新潮新書)P53より
これは、理性や知性と言ったら大袈裟かもしれないが、逆説的に言えば、わかりやすさ、これが、面白い、ためになった、感動した云々を抜きにして、わかりやすさから脱することが、真の意味の教養ともいえるからだ。ある意味、わかりやすさという罠のパラドクスを実感できるか否か、それが、真の教養があることの証左であることを意味している。
以上の引用文の言説は、英検に追われる小中の子どもたち、TOEICに駆り立てられる大学生・社会人の深層心理と瓜二つでもあろう。英検やTOEICも現代日本人には、“ファスト技能”となっている証左である。厄介なのは、巷の人には、それが、役に立つ、更には、頭がいいといった指標にすらなっている集団幻想である。
これは、弊塾で、常日頃、指導してもいることなのだが、スマホではなく、電子辞書でもなく、出来れば、時間の制限される高校3年の一学期まで、できれば、紙の辞書を使いなさい。速読のためには、多読ではなく、精読だ。意味がわかればいいや的根性ではなく、きちんと和訳ができること、和訳する習慣を忘れないこと。最後に、思春期(中学生)からの外国語学習とは、まず英文法と英語構文という基盤の上に、読み・書きを徹底的に行うこと、その後、話し・聞く作業を追随して実践すること。前者の読み・書きと後者の話し・聞くという英語学習作業を中等教育で同時並行的に行うは、理想だが、平均的高校生には、旧帝国陸軍の、日中戦争と太平洋戦争の二面攻撃ともなり、虻蜂取らずと相成る(惨敗)と教え子に警鐘を鳴らす。以上が、教え子に、何度も言い聞かせている英語学習の心構えである。このクラッシックで、伝統的な手法は、平成の最中、特にセンター試験の時代にどんどんと衰退してもいった。しかし、これぞ、「学びに王道はなし」の主旨でもあろうか。ファーストフードならぬ、スロウフード、ファーストファッションならぬ、トラディショナルファッション、これを捩って、スロースタディ、いや、ファームスタディ(Firm Study)とも言えようか。新幹線よりローカル線、自動車より自転車、見えてくる光景が違うのである。その過程こそが、終着点の感慨、堅実な学びの道程とも結びつく。飛躍であろうか?
学びにおいて、「急がば回れ」この格言を忘れぬか否か、その差が、家康と秀吉の差でもある。信長の下から“人たらし~人間とはどういう生き物なのかを嗅ぎ分ける才能~”を武器にのし上がった百姓の天才と今川氏の下、人質ながら“帝王学”を教え込まれた弱小大名の武士の秀才との差でもある。利休に切腹を申しつけたことが、秀吉の“教養”の限界でもあっただろうか?
秀吉は、わかりやすさの政治手法で、天下という高峰の五合目まで昇りつめた。それは、一代限りの治世を意味する。十合目までが、真の天下を取ったといえる偉業でもある。一代でダイエー流通帝国を築いた中内功などは、関西人でもあり、秀吉にダブっても見えてくる。
天下布武、天下統一、天下泰平、これ、信長、秀吉、家康の偉業を著す言葉である。天下という高き峰の4合目、せいぜい7合目、そして10合目を言い当てる四文字熟語である。しかし、社会の安泰とは、家康ではなく3代家光で完成する歴史上の定理は、鎌倉幕府が、3代執権泰時の時、足利幕府が、3代将軍義満の時に、それぞれ完結を見た例を持ち出すまでもない。物事の、ホップ・ステップ・ジャンプなる三段階なる真理は、信長から家康までが該当することではないのである。これは、人間一個人の人生に擬えても、青年、中年、壮年、晩年ともいいえて、英語の言葉でも、ancient/medieval/modernとあるのと似ている、時間軸の不変の真理でもあろうか?
ここで、昭和の時代は、圧倒的に秀吉が人気があった。田中角栄という今太閤も出現したが、世の中、高度成長を経ても、やはりバブル(平成3年)までは、秀吉が解りやすいヒーローでもあった。それが、世が平成へと移行するにつれて、秀吉と並ぶ人気に上昇したのが、家康である。秀吉贔屓で、家康に冷ややかでもあった歴史小説のカリスマ司馬遼太郎が亡くなり、失われた20年、30年などと日本が自己批判する世となったことと家康人気は正比例する。皮肉なことに、この家康人気の台頭とSNS社会の拡大もほぼ同比例してゆくこととなる。更に輪をかけて、皮肉なことに、このSNS社会の浸透とファースト教養の跋扈が目に付き始める。書店には『~の教養』『教養としての~』などといった書名の本が活況を呈し始める。それと同時並行で視聴率も、そこそこなのが、Eテレで放送されてもいる「100分で名著」である。こうした現象を、総括したのが昨年出されたの『ファースト教養』(レジー)でもある。今は、この書籍には言及せず、自己の、表層的“知的欲求”からの脱し方、知的人格の脱構築の仕方を語ってみたい。(つづく)
平成後期から令和にかけて、世の中の情報から娯楽に至るまで、活字メディアや地上波ではなく、SNS(スマホやパソコン)に多くの時間を取られることが、ライフスタイルの主流となったことは、ある意味、社会の多様化を象徴してもいよう。しかし、その負の側面、その死角とやらを語ってみたい。それは、便利さ・手軽さに起因する“わかりやすさ”というものの“罪”・“罠”というものが、『ファースト教養』(新潮新書)として具体的な事例を挙げて、真の教養領域における問題点、いや、命題ともなっているからだ。つまりは、小津安二郎や黒澤明の名画を、二倍速、三倍速で観ることは是か非かという問いでもある。
多くのビジネス書をてがけているKKベストセラーズの編集者、鈴木康成はいわゆる自己啓発書の読者について「『時代に取り残されずに生きていきたい』『社会の中で今より下のクラスに転落したくない』と思っている人が少なくありません」と分析している。(『自己啓発本』編集者が明かす『言葉のドーピング』それでも作る理由withnews)。時代の流れについていきながら転落を防ぐためには教養が必要と信じている層の切実なニーズは、教養が受容される環境をますます「ファスト」に染めてゆく。
『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(新潮新書)P53より
これは、理性や知性と言ったら大袈裟かもしれないが、逆説的に言えば、わかりやすさ、これが、面白い、ためになった、感動した云々を抜きにして、わかりやすさから脱することが、真の意味の教養ともいえるからだ。ある意味、わかりやすさという罠のパラドクスを実感できるか否か、それが、真の教養があることの証左であることを意味している。
以上の引用文の言説は、英検に追われる小中の子どもたち、TOEICに駆り立てられる大学生・社会人の深層心理と瓜二つでもあろう。英検やTOEICも現代日本人には、“ファスト技能”となっている証左である。厄介なのは、巷の人には、それが、役に立つ、更には、頭がいいといった指標にすらなっている集団幻想である。
これは、弊塾で、常日頃、指導してもいることなのだが、スマホではなく、電子辞書でもなく、出来れば、時間の制限される高校3年の一学期まで、できれば、紙の辞書を使いなさい。速読のためには、多読ではなく、精読だ。意味がわかればいいや的根性ではなく、きちんと和訳ができること、和訳する習慣を忘れないこと。最後に、思春期(中学生)からの外国語学習とは、まず英文法と英語構文という基盤の上に、読み・書きを徹底的に行うこと、その後、話し・聞く作業を追随して実践すること。前者の読み・書きと後者の話し・聞くという英語学習作業を中等教育で同時並行的に行うは、理想だが、平均的高校生には、旧帝国陸軍の、日中戦争と太平洋戦争の二面攻撃ともなり、虻蜂取らずと相成る(惨敗)と教え子に警鐘を鳴らす。以上が、教え子に、何度も言い聞かせている英語学習の心構えである。このクラッシックで、伝統的な手法は、平成の最中、特にセンター試験の時代にどんどんと衰退してもいった。しかし、これぞ、「学びに王道はなし」の主旨でもあろうか。ファーストフードならぬ、スロウフード、ファーストファッションならぬ、トラディショナルファッション、これを捩って、スロースタディ、いや、ファームスタディ(Firm Study)とも言えようか。新幹線よりローカル線、自動車より自転車、見えてくる光景が違うのである。その過程こそが、終着点の感慨、堅実な学びの道程とも結びつく。飛躍であろうか?
学びにおいて、「急がば回れ」この格言を忘れぬか否か、その差が、家康と秀吉の差でもある。信長の下から“人たらし~人間とはどういう生き物なのかを嗅ぎ分ける才能~”を武器にのし上がった百姓の天才と今川氏の下、人質ながら“帝王学”を教え込まれた弱小大名の武士の秀才との差でもある。利休に切腹を申しつけたことが、秀吉の“教養”の限界でもあっただろうか?
秀吉は、わかりやすさの政治手法で、天下という高峰の五合目まで昇りつめた。それは、一代限りの治世を意味する。十合目までが、真の天下を取ったといえる偉業でもある。一代でダイエー流通帝国を築いた中内功などは、関西人でもあり、秀吉にダブっても見えてくる。
天下布武、天下統一、天下泰平、これ、信長、秀吉、家康の偉業を著す言葉である。天下という高き峰の4合目、せいぜい7合目、そして10合目を言い当てる四文字熟語である。しかし、社会の安泰とは、家康ではなく3代家光で完成する歴史上の定理は、鎌倉幕府が、3代執権泰時の時、足利幕府が、3代将軍義満の時に、それぞれ完結を見た例を持ち出すまでもない。物事の、ホップ・ステップ・ジャンプなる三段階なる真理は、信長から家康までが該当することではないのである。これは、人間一個人の人生に擬えても、青年、中年、壮年、晩年ともいいえて、英語の言葉でも、ancient/medieval/modernとあるのと似ている、時間軸の不変の真理でもあろうか?
ここで、昭和の時代は、圧倒的に秀吉が人気があった。田中角栄という今太閤も出現したが、世の中、高度成長を経ても、やはりバブル(平成3年)までは、秀吉が解りやすいヒーローでもあった。それが、世が平成へと移行するにつれて、秀吉と並ぶ人気に上昇したのが、家康である。秀吉贔屓で、家康に冷ややかでもあった歴史小説のカリスマ司馬遼太郎が亡くなり、失われた20年、30年などと日本が自己批判する世となったことと家康人気は正比例する。皮肉なことに、この家康人気の台頭とSNS社会の拡大もほぼ同比例してゆくこととなる。更に輪をかけて、皮肉なことに、このSNS社会の浸透とファースト教養の跋扈が目に付き始める。書店には『~の教養』『教養としての~』などといった書名の本が活況を呈し始める。それと同時並行で視聴率も、そこそこなのが、Eテレで放送されてもいる「100分で名著」である。こうした現象を、総括したのが昨年出されたの『ファースト教養』(レジー)でもある。今は、この書籍には言及せず、自己の、表層的“知的欲求”からの脱し方、知的人格の脱構築の仕方を語ってみたい。(つづく)