コラム

文法と紙の辞書でテキストを読むという事

 外国語にしろ、古典にしろ、文法というものを介して、その原典にあたるという行為にどういう意義があるのかという問いを投げかけてみたい。

 それは、毎週観ているEテレで、今月が『古今和歌集』を取り上げてもいるから、そういった疑問、問いかけが湧きもしたからである。この番組、古今和歌集の解釈とその意味だけをあれこれ、面白おかしく論じてはいるが、その三十一文字(五七五七七)の古典文法に基づいた解釈を一切していない。直訳を素通りしての意訳から、その和歌の魅力を説明しているだけにすぎない。Eテレの高校古典講座でもないから、それも致し方あるまい。
 
 本題に戻ると、『源氏物語』を、その古語から成り立つ文章を、文法と古語辞典を武器として、遅々として、その有名な場面を読み込む、いわゆる、その古の世界の一部を独力で蘇らせる行為、そして、谷崎、円地、瀬戸内といった文学者による現代語訳で、その全体を読む行為、更に、漫画『あさきゆめみし』でその平安王朝の世界を日曜日の午後の時間を費やして読み通すこと、一種、少女漫画の読後感に酔いしれる行為、だいたい、この三タイプが主な古典世界への招待ルートでもあろうか?
  こうした三ルートのうち後者二つは、『三国志』から『平家物語』に至るまで、現代の学生から社会人にいたる知識・教養・娯楽のツールでもあるように思われる。勿論、映画やドラマ、アニメ、更には、ゲームなどで古典世界に造詣が深くなるケースも当然あろうかと思う。因に、来年の大河ドラマは、紫式部を主人公にしたものである。令和6年は『源氏物語』ブームか、平安ブームが来るのであろう。しかし、古典文法ブームとやらは当然ながらやってはこない。

 ここで、私が、命題として掲げたいのは、こうした古典というもの、また、外国語というもの、そうした世界を、難儀で、苦痛で、時間を要する<文法と辞書>を通じて、そこまでして、果てして、接する甲斐・価値・意味があるのかといった問題である。これは、ポケトークやグーグルで、翻訳機能が日ましにハイレベルになりつつある今日、英会話や古典の解釈などといった学習に意味があるのか、意味を成すのかといったことに行きつくものである。現代文カリスマ講師林修氏は、古文という有限なる書物の世界を、わざわざ一個人が読み込む行為、即ち、「学校における古典の時間は無意味だ」とまで言い切っている。“古典全てを全訳して日本人のアーカイブとして誰にも現代語で読めるようにしておけば、それでいいじゃん”論である。

 何故、山に登るのか?富士山に登山電車を敷くことは“悪”なのか?何故、墨と筆で書をするのか?スマホやパソコン全盛期に、学校の授業で習字の時間など不要ではないか?百円ショップで電卓が買える時代にソロバンなど必要あるのか?こういった問いかけは、全て、古文解釈や英文解釈の存在意義と根底ではつながってもいよう。

 AIの時代に、何故、人間がさす将棋や囲碁なる世界が、あるのか、その答えは、人類のスポーツ熱がその答えともなろう。一人間の肉体のパフォーマンスでもある、サッカーワールドカップやオリンピックを観るまでもなく、その人間の肉体のスキルは、AIの進歩にには及ぶまでもないが、遅々として、進化している。それに、大衆は、魅了される。
 Reading is to the mind what food is to the body.

 自動車があるのに、何故、自転車が消滅しないのか?勿論、金額の面や健康の面は無視できない。お掃除ロボット“ルンバ”があるのに、何故、箒なるものが量販店・ホームセンターで売られているのか?スマホ辞書機能花盛りの令和にあって、ヨドバシカメラでは、電子辞書が販売され、巷の書店には、微々たる売り上げしかないにもかかわらず、紙の辞書が置かれているのか。これらの疑問は、すべて、外国語、古典を、それぞれ、文法と辞書を用いて読み解く行為と通底しているという、アナログの秘儀が横たわってもいる。
 交通の便の良い世の中にあって、どうして、これほどチョコザップなどのスポーツジムが花盛りなのか?勿論、健康志向が最大の要因である。それが、“知の健康”ともなると、怠惰とあいなる。これ、ファスト教養と、今では言うらしい。
 肉体、身体は、筋トレ、健康食品には、敏感なりし大衆は、知性、頭脳に関しては、鈍感なのだろうか?この皮肉なる行為は、映画の名作を二倍速、三倍速で観て、あらすじなど内容を知れば、それで良しとする“タイパ”の風潮が如実にそれを証明してもいよう。

 私は、外国旅行をするとか、外国人とコミュニケーションを取りたいがために、英語や仏語を学んできたわけではない。前者は、受験に絶対に必要な科目であったからだ、後者は、英語を踏み台に、もう一つくらい外国語を、英語レベルにまで引き上げ、読み・書きができるようになりたい、それに、文学の、小説の、総本山でもあるフランス文学(カミュ・サルトル・バルザック・スタンダールなど)を齧ってみたい、味読してみたい、その風味・感触を実感してみたい、そういった知的好奇心からである。何も、エッフェル塔を見たいとかボルドーやシャンパーニュで、観光がてらワインあさりをしたい、そういった望みがあったわけではない。ましてや、大学生の頃は、フランス映画を、仏語で楽しみたいという欲望すらなかった。そういえば、先々週の『アエラ』{2023年11月8日号}だったか、内田樹というフランス思想の文化人が「私がフランス語を話せない理由 虫や花やお笑いより哲学書」という巻頭エッセイを読んで、彼と外国語を学ぶ動機とやらがほぼ同じだったことに笑いが込みあげてもきた。因に、昭和の名物英語予備校講師は、みなこうした動機で英語に研鑽をつんできたはずである。

 小林秀雄が、「古典とは、解釈するのではなく、こちらが、そっちに推参するものである」と語っていたが、これを、我流に解釈すれば、大量の情報を現代語訳から得るのではなく、少量でもいい、古人、哲人と会話する、吐息を感じ取ることだ、そう解釈もできる。ここにこそ、学校で古典を学ぶ意義というものが存するのである。これは、外国語、特に英語においても同様である。多読と精読の存在意義の違いでもある。これ、世の啓発本、ハウツー本と名著とされる小説から思想書との接し方の違いである。これは、現代では、後者をも速読・あらすじ・要旨のみを追い求めるファスト教養という行為に典型的に顕れてもいよう。

 「広く浅く読書して得られないものが深く狭い読書から得られる」(小林秀雄)

 ホリエモンやひろゆきの言説を読み、聞いても、物知り、耳学問の大正の丁稚小僧止まりの、現代版“さかしら”のようなことは、吐けても、浅瀬に泳ぎまわる雑魚のようなものである。

 「波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水の深さを。」『宮本武蔵』の結尾(吉川英治)

 名作の冒頭は、有名で傑作なるものは、数知れず。しかし、名作の末尾で、これに勝る秀逸なるものを私は知らない。この『宮本武蔵』の結尾には、“地上の星(中島みゆき)”や“昴(谷村新司)”と共通する、人生の悲哀ではなく、人生の真実を言いおおせられる含蓄がある。

 古典、洋書、こうしたものを文法と辞書を“武器”に、独力で読み進む行為は、SNS社会では、時代錯誤、ちょうど、令和の高校生に、紙の古語辞典を、紙の英和辞典を用いてこの数ページを訳してきなさいというに等しい、令和っ子の誰も見向きもしない。楽しくない。ENJOYできない。苦痛である。この生理的・心理的に嫌な行為こそ、教養を耕す野良仕事なのである。真の“有機農作物”は、トラクターと農薬では、育てることはできないものである。(つづく)
 



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