コラム
共通テストでは、思考力・表現力などわからない
平成末期から、学校の教育は、文科省の方針か、情報処理能力から情報編集力へのシフトする、こう巷では言われ始めた。ネット社会、スマホ時代が、その引きがねか、その潮流の最大の要因でもあろう。デジタルの教育への影響の一つとも言える。
情報編集力のコアが、思考力・表演力・判断力、この3つであるらしい。それを、共通テストにドッキングさせて、その科目のみならず、プラスαの能力がなければ高得点が望めぬ試験となり果てた。この試験、共通一次、センター試験、そして共通テストを概観した昭和世代の一塾講師の目線からすれば、アナログからデジタルへの適応力が求められるが如く、全く異質の国家的学力試験のように目に映るが、令和の高校生には、生まれ出た時点が、デジタルネイティブともいう彼らには、違和感はないのでもあろう。それは、丁度戦前で中等教育を受け、戦後の民主社会(民主教育)を目の当たりにした昭和一桁世代(我々の父親世代)と昭和50年代に中等教育を受けた私たち世代ほど、この国民的試験というものに隔世の感を禁じ得ない。共通一次世代と共通テスト世代という親子ほど年の離れた関係とも比例的に言えることである。
冷戦期のユーゴスラヴィアのように、モザイク国家ならぬ、モザイク試験に、今般の共通テストが思われてならない。本来の科目に、様々な要素が複合的に組み合わされてもいるからである。以前にも言及したが、この共通テスト、その科目の知識プラス知能テストの色彩がますます加味してきているように感じてならない。そう感じない学校教師・塾講師は、リスキリングやデジタルなどに何の違和感もなく適応できる資質の人間でもあろう。一方、こうした共通テストに愚痴る、失敗する、そうした受験生は、親御さんの世代に近い、また、アナログ資質を有してもいる高校生とも言いえるようである。
前回にも触れたが、この共通テストで、その受験生の思考力・表現力・判断力など量ることなどできはしない、むしろ、この超デジタル化社会への適応能力を測定するリトマス試験紙の様相を呈していると言っても過言ではない。
さて、話しは、横にそれるが、私が毎週よく観ているNHKの番組、古舘伊知郎が司会の『ニュー試』という番組がある。世界中の名門大学(大学の世界ランキングベストテンに入るような大学)の試験を、松丸亮吾君などの、知的有名人・高学歴芸人(お笑いタレント)などに解かせる、その大学の入試問題のオリジナリティ、難解さを披歴する番組である。ハーバードからスタフォード、ケンブリッジ、シンガポールなど世界の難関大の問題を彼らの解いてもらい、採点し、合格するか否かを判別するものだ。これらの超有名大学に共通する点は、エッセイを書かせる問題が必須であるということだ。テーマや問題を与え、文章化する、その文章で、その学生が、自校にとって必要な受験生かを判別するものだ。共通するのがユニークさと大学当局の前向きな積極性(その大学が本当に欲しい人物から超真剣に見定めようとする姿勢)である。
前回でも触れた、日本の、中高一貫校の私立中学受験や公立・私立高校受験の国語の問題が、記述形式である点で、その問題の主旨は共通する。いわば、厳しいながらも温かい眼差しで、その受験生の資質を掬い取ろうとする問題なのだ。引っかけ問題という悪趣味・悪意的問題ではなく、その受験生の資質を見抜こうとする良心的・好意的問題であるという点で際立ってもいる。ここに、海外の有名大学のエッセイを書かせるという目論見と日本の麻布や桜蔭といった難関校の国語の問題と同類の意図がダブっても見えてくる。
センター試験が私大利用に拡大するにつれて、一般国公立大学も、そのセンター試験でのみ合否を判定する大学まで多く出現するに至る。コロナ禍の横浜国大が記憶に新しい。二次試験を中止して、一次の第一回共通テストの点数のみで合否を決める方針をしたことである。確か、信州大学もそうであったが、こうした大学は、論外であると私は言いたいのである。コロナ禍の状況下、受験生の命と入試を天秤にかけても、大学当局は、後者に比重を置かねばならない。丁度、遣唐使が、命を賭しても、中国に渡ったように、二次試験を行わねばならなかった。まさしく、この二次試験に対する、横浜国大の意図、目的というものが透けて見えるようでもある。
英検でその大学の英語の試験を代用する大学など論外である。共通テストで私大のその学部の一部の合格者を出す、こうした私大も片腹痛い。国公立で共通テストの一次のみで合否を決める大学、その大学の学生の質が透けても見える。一次と二次で、一次の共通テストを重視する国公立大学、この大学の将来も危うい。国公立で、二次試験を重視する国立大学の、戦前と戦後を比較した時、最も変わらないのが、旧7帝大と東京藝大が最右翼なのだ。こうした伝統校とは、その旧~というブランドに寄りかかっているのではない。その入学試験システムが、その大学の学生の質を担保してくれてもいる。そして、その学生の質が、旧7帝大の伝統を維持してもいる、ブランドたらしめてもいる。
2024年1月24日の朝日新聞で、東北大学と筑波大学の総長・学長がインタビューに応じてもいたが、東北大学の大野英男総長は、「全て総合型選抜(旧来のAO)へ移行したい」~私立の成功例SFCの国立版~と、筑波の永田恭介学長は「二次試験は、面接と論文中心に」~欧米型~とも語っていた。
情報編集力のコアが、思考力・表演力・判断力、この3つであるらしい。それを、共通テストにドッキングさせて、その科目のみならず、プラスαの能力がなければ高得点が望めぬ試験となり果てた。この試験、共通一次、センター試験、そして共通テストを概観した昭和世代の一塾講師の目線からすれば、アナログからデジタルへの適応力が求められるが如く、全く異質の国家的学力試験のように目に映るが、令和の高校生には、生まれ出た時点が、デジタルネイティブともいう彼らには、違和感はないのでもあろう。それは、丁度戦前で中等教育を受け、戦後の民主社会(民主教育)を目の当たりにした昭和一桁世代(我々の父親世代)と昭和50年代に中等教育を受けた私たち世代ほど、この国民的試験というものに隔世の感を禁じ得ない。共通一次世代と共通テスト世代という親子ほど年の離れた関係とも比例的に言えることである。
冷戦期のユーゴスラヴィアのように、モザイク国家ならぬ、モザイク試験に、今般の共通テストが思われてならない。本来の科目に、様々な要素が複合的に組み合わされてもいるからである。以前にも言及したが、この共通テスト、その科目の知識プラス知能テストの色彩がますます加味してきているように感じてならない。そう感じない学校教師・塾講師は、リスキリングやデジタルなどに何の違和感もなく適応できる資質の人間でもあろう。一方、こうした共通テストに愚痴る、失敗する、そうした受験生は、親御さんの世代に近い、また、アナログ資質を有してもいる高校生とも言いえるようである。
前回にも触れたが、この共通テストで、その受験生の思考力・表現力・判断力など量ることなどできはしない、むしろ、この超デジタル化社会への適応能力を測定するリトマス試験紙の様相を呈していると言っても過言ではない。
さて、話しは、横にそれるが、私が毎週よく観ているNHKの番組、古舘伊知郎が司会の『ニュー試』という番組がある。世界中の名門大学(大学の世界ランキングベストテンに入るような大学)の試験を、松丸亮吾君などの、知的有名人・高学歴芸人(お笑いタレント)などに解かせる、その大学の入試問題のオリジナリティ、難解さを披歴する番組である。ハーバードからスタフォード、ケンブリッジ、シンガポールなど世界の難関大の問題を彼らの解いてもらい、採点し、合格するか否かを判別するものだ。これらの超有名大学に共通する点は、エッセイを書かせる問題が必須であるということだ。テーマや問題を与え、文章化する、その文章で、その学生が、自校にとって必要な受験生かを判別するものだ。共通するのがユニークさと大学当局の前向きな積極性(その大学が本当に欲しい人物から超真剣に見定めようとする姿勢)である。
前回でも触れた、日本の、中高一貫校の私立中学受験や公立・私立高校受験の国語の問題が、記述形式である点で、その問題の主旨は共通する。いわば、厳しいながらも温かい眼差しで、その受験生の資質を掬い取ろうとする問題なのだ。引っかけ問題という悪趣味・悪意的問題ではなく、その受験生の資質を見抜こうとする良心的・好意的問題であるという点で際立ってもいる。ここに、海外の有名大学のエッセイを書かせるという目論見と日本の麻布や桜蔭といった難関校の国語の問題と同類の意図がダブっても見えてくる。
センター試験が私大利用に拡大するにつれて、一般国公立大学も、そのセンター試験でのみ合否を判定する大学まで多く出現するに至る。コロナ禍の横浜国大が記憶に新しい。二次試験を中止して、一次の第一回共通テストの点数のみで合否を決める方針をしたことである。確か、信州大学もそうであったが、こうした大学は、論外であると私は言いたいのである。コロナ禍の状況下、受験生の命と入試を天秤にかけても、大学当局は、後者に比重を置かねばならない。丁度、遣唐使が、命を賭しても、中国に渡ったように、二次試験を行わねばならなかった。まさしく、この二次試験に対する、横浜国大の意図、目的というものが透けて見えるようでもある。
英検でその大学の英語の試験を代用する大学など論外である。共通テストで私大のその学部の一部の合格者を出す、こうした私大も片腹痛い。国公立で共通テストの一次のみで合否を決める大学、その大学の学生の質が透けても見える。一次と二次で、一次の共通テストを重視する国公立大学、この大学の将来も危うい。国公立で、二次試験を重視する国立大学の、戦前と戦後を比較した時、最も変わらないのが、旧7帝大と東京藝大が最右翼なのだ。こうした伝統校とは、その旧~というブランドに寄りかかっているのではない。その入学試験システムが、その大学の学生の質を担保してくれてもいる。そして、その学生の質が、旧7帝大の伝統を維持してもいる、ブランドたらしめてもいる。
2024年1月24日の朝日新聞で、東北大学と筑波大学の総長・学長がインタビューに応じてもいたが、東北大学の大野英男総長は、「全て総合型選抜(旧来のAO)へ移行したい」~私立の成功例SFCの国立版~と、筑波の永田恭介学長は「二次試験は、面接と論文中心に」~欧米型~とも語っていた。