コラム

暗記力のある・なしの受験生

 記憶力について、まず、受験のフィルターを通して裁断してみたい。

 恐らく、日本経済が失墜した、バブル崩壊後の、失われた30年の初期の頃からだろうか、教育界においても、暗記、記憶という言葉が、極端にマイナスのイメージで捉えられてきたのは。それは、慶應大学文学部の一般入試問題、英語において、英和辞典と和英辞典が試験会場内に持ち込み可となった頃とも機を同じくする。2時間で超長文を、読み込む英語力のオーソドクシーをゆく問題の急先鋒ともなった入試問題である。この問題、「辞書を使えば、どんな高度の、難解な英文でも読めなければ、大学生になって研究なんぞできませんよ!」といったメッセージ性が如実に顕れている。一般的な、短絡的受験生が「俺は単語力がないから、この大学のこの学部を受験してやろう」的動機で、早稲田信者の如く記念受験のように挑んでも、惨敗とあいなる。試験会場で、数回ならいざ知らず、数十回も紙の辞書を引き引き読み進めていこうものなら、時間は2時間では間に合わない。まず、全体を、痩せ我慢しながら、1時間ほどで、辞書を数回程度用いて、最後まで読み進める。そして、設問との兼ね合いで、数回辞書を確認程度で使用する。もともと、紙の辞書を使い慣れていない受験生には、時間の足手まといすらなる<紙の辞書使用可の罠>でもある。スマホの辞書機能の達人でも、やはり、最低限度の英単語力がなければ、当然、文法・構文力があってのものだが、合格点には届かない。

 なぜ、こんな話をしたかといえば、世の中、実社会という戦場では、これと同類のことが言えるからである。

 語彙力というものを例にすれば、ボキャ貧の社員と語彙力のある社員とでは、思考力に当然差がでる。これは、斎藤孝氏の指摘なのだが、「ギガ数の多いデジカメほど、映像を美しく映し出せる、これは、語彙が豊かな人間ほど、物事を的確・精確に叙述できるのとおなじことだ」、これ、やはり、記憶量の多さが、社会で大成する確率の高さを言いあらわしている。戦前の旧制中学と旧制高校を経た人間と戦後の中高から4年生大学を出た人間の、語彙力、即ち、教養度の差に、このことは、ものの見事にあらわれてもいる。エリート教育と大衆教育の決定的な差でもある。フランスにおける一般大学出とグランゼコール出の差と言ってもいい。

 さて、このエリート教育と大衆教育というものの本質な違いというものにぶち当たる。

 生まれながらにしての天才から秀才という存在は、当然、洋の東西を問わずいるもである。暗記することが、何も苦にならず、す~と脳裏に定着する者である。一方、暗記が苦手の部族という存在がいる。大方、世の7~8割を占めるであろう。丁度、暗記が得意な種族は、短距離で、足の速い少年ともいえようか、暗記が苦手な種族は、足がおそい少年でもあろう。この脚力の優劣は、努力では如何ともしがたい、天性の部類に入る。また、長距離が苦にならない人も、やはり、天性のものといってもいい。この8割近い凡人たちは、暗記の弱点ををそこそこ克服した者である。暗記のゴロや自己流の手法で暗記した暗記工夫の達人か、物事の本質から理解をし脳裏に定着させた人々でもあろう。トレーニング方法や鍛錬、また、良き指導者によって“俊足”となった、ある意味、努力型の秀才でもあろう。しかし、大方の、中高生は、暗記に関して、こうした僥倖に出会えず、暗記を克服せずして、本場とあいない、実践の場、試験会場で惨敗を期すのである。

 世の中、特に、教育界は、この暗記の惨敗者がうようよといる。自身の、暗記力、数学も和田秀樹氏の主張によると、暗記、パターンの暗記であるそうだ。彼が設立した鉄緑会の数学観や数学エリート塾のSEGの数学観が、それとは真逆である(?)のは、興味深いところだ。

 中学受験から大学受験に至るまで、日本の大学生に、暗記の試験における比重を訊ねれば、おそらく、興味深いことに(私の意見である)、7~8割と応じることであろう。この割合、残りの2~3割は、天才と秀才ということにもなろう。この俊才は、暗記を暗記とも認識せず、す~と頭に入ってもくる。だから、共通テストの、とりわけ理系受験生の合格者は、文系科目など、あまり苦も無くクリアし、数学・物理など非暗記系の演習に専念できる、ある意味、選ばれし高校生でもある。この点で、暗記力イコールIQ度と規定して言わせてもらえば、東大Ⅰ類⇒東工大⇒早稲田理工の準にIQ度が下がると断定してもよかろうと思う。国公立の必須のあの共通テストとは、ある次元で言わせてもらえば、IQ度の高さ試験であり、ある側面から言えば、AIというコンピュータ向きの試験でもありうるということである。

 昭和から平成へ、平成から令和へ、大学というトポスは、その大衆性、実用性、有益性という面で、暗記力不要の教育機関になってきてもいる。最大の要因が、少子化と大学の専門学校化が指摘できよう。その典型的なものは、認知能力から非認知能力へのシフトである。また、英数国理社といった情報処理能力から、思考力・表現力・判断力といった情報編集力へのシフトの流れである。これが、一般入試が激減し、指定校推薦や総合選抜が激増している所以である。この二種類のシステムの眼目は、ほとんどが、学生の青田買いという大学経営というものによる。基礎学力は、担保されてはいない大学生が、私大に関してはほとんどである、

 暗記の要諦とは、凡人の観点から言わせてもらえば、天才・秀才が無意識にやっていることを、準秀才からがり勉といった連中にとっては、意識的にやらなければならない。それは、敗北や失敗から考えに考えた末の、工夫による手法である。それは、現実を強烈に自覚すること、現実を享受することを起点とする。

 挫折こそが成功のもとである!
 人は折れたら折れただけ強くなる!
 心のかさぶたをどんどん厚くせよ!
 世の中の人よ、もっと挫折せよ!   
『「挫折」というチカラ』~人は折れたら折れただけ強くなる~(原晋)より


 華のセリーグのヒーロー長嶋茂雄や王貞治を横目に、「凡人が、自らの天才に失望した時、まず立てるべきは、戦略である」(ゲーテ)を強烈に、自己の流儀で、自身を一流の域にまで高めた、日陰のパリーグの名選手野村克也の格言が、<弱者の兵法>を雄弁に物語ってもいよう。身体もさして大きくもなく、足も速くない、肩もさして強くない1,5流の捕手が、強打者にして名捕手(実績としての“天才”)となった経緯は、準秀才以下の受験生にとって学ぶべきこと大だと思われるのだが。令和の時代は、大谷翔平・藤井聡太やイーロン・マスクやスティーブ・ジョブズのような天才にばかりに目が行くのは、SNS社会の負の側面でもあろう。このSNS社会から距離を置かなければ、自身、自分、自己ははっきりとは、見えてはこない。天才から、人生の、ビジネスの、勉強の、“王道・近道”学ぼうとするは、モデルや女優から、美の秘訣を学ぶようなものである。


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