コラム
勉強や練習は量か質か?
量か質か?この問いかけは、食から、アスリートの練習、学生の勉強にいたるまで、全てに関与してくる命題である。
よく教え子に、銀座すきやばし次郎の高級寿司40000円をおごってもらうのと、回転寿司4000円分を10回ごちそうになるのはどっちがいい?と尋ねる。すると、大方の男子生徒は8割は、後者を選ぶ、女子でも5割強は、後者選ぶ。「一回くらい、その最高の寿司を食べてみたい」というのが、男子2割、女子5割弱の感想なのである。私の想像だが、そうした彼らは一回その高級寿司の味を知ってから、その味は10倍旨いとは言えない真実にも無意識に悟るであろう。その後、10回派の方に鞍替えし、そこから逸脱することはない。これが庶民感覚というものである。
勉強でも、練習でも、量なのか、質なのか、それを問われた時、昭和から平成初期であれば、6対4、いや7対3くらいで量と応える指導者が多かったように思われる。勉学にしろ、スポーツにしろ、その学びの手法が科学的に進歩した証やもしれぬが、平成半ばから令和にかけて、ほぼ、3対7か、2対8位にその比率は逆転していると考えられる。
こうした理由は、マスプロ教育と子供の数の多さから、個別化と少子化へのシフトしたことが大きな要因でもあろう。
しかし、勉強にしろ、練習にしろ、量か質かといった、白黒的、二分論には、現実に適応できないことは明白でもある。人それぞれ、状況や、レベル、また、その生徒や選手の資質や性格などを考慮しなければ、どちが是であるかなどは、判断できないものである。
これは、力道山が、同期入門でも、育て方、向き合い方で、対照的でもあった、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を思い出す。前者は、巨人軍から入門した、エリートルートで、性格も柔の馬場には、優しく褒めて育てた。一方、後者は、ブラジルの移民の息子で、厳しい環境の中、性格も剛の猪木には、厳しくあたったエピソ―ドが思い出されてもくる。これは、味方を変えれば、馬場は質的、猪木は量的指導を力道山はほどこしてもいたと言えなくもない。
今や、チャットGPTに、様々な質問もできるように、このAIに、勉強や練習は、量か質かの問いを投げかけると、恐らく、以上のような私に似た返答をしてくるものと推測される。まあ、それほど、まともにはなってきている証拠である。しかし、ここからが問題なのだ。そのAIに、その実際のA君のケースを、どうアドヴァイスしてくれるかが問題なのだ。AIは、理論はわかるが実践は難しい、そうした弱点を有する。
このAIは、時代の趨勢の、最大公倍数と最小公倍数を賢く塩梅して、ずる賢く応答してもくる、ディープラーニングとやらである。
このAIに、その子のデータや家族構成、性格、能力などをインプットして、それに適った教え方を提示してくれるかどうかといった問題なのだ。それは、極論ながら、サラブレッドの鞍上に、ジョッキー擬きの人工知能を搭載したメカを搭載して、生の人間のジョッキーと競争させる、そして、そのAIジョッキーが果たして、武豊に勝てるかどうかといった問題である。そのレース直前の、馬の気分や体調を、臨機応変、それもレースの最中に嗅ぎ分けることが、人工知能にできるかどうかだ。将棋や囲碁の対戦とはわけが違うのである。教育の勘所は、ここの強烈なる自覚にある。
また、動物園の飼育係を、檻に設置したカメラを通したAIによる飼育法というものが、果たして可能かといった問題も思い浮かぶ。
AIは、あらゆるデータを基として、人間には不可能なアドヴァイスをしてくれる反面、コンピュータでは、うかがい知れない、生き物の感情、人間の心の側面にまで指導できない弱点がある。これは、スマホ育児の盲点にもいいうることだ。これは、赤ん坊、幼児、子ども、少年少女、青年、大人に成長するにしたがって、心情が最大公約数で対応できはするが、その逆は、最小公倍数による別個の対応が求められるからでもある。
世には、“もてる者と持たざる者”という謂いがある。国家レベルから、貧富の家庭にいたるまで、さらに、IQが高いとか地頭があるとか、学習能力的側面にも当てはまる。当然、アスリートにも大谷翔平からも言いうる真実である。
とりわけ、スポーツ選手から中高生の学生に至るまで、指導者や教師は、この現実を強烈に認識しなければならい。特に、近年、ギガスクール構想と称して、生徒一人に一台のタブレット端末を与え、その生徒の能力に応じた授業を求めるようだが、この点でも私は留保する点がある。今はこの点は踏み込まない。
では、本題にもどるとしよう。勉学に関しては、まず、質であるという点である、これは、できる生徒であれ、できない生徒であれ、その生徒に、その科目の本質(最高級の寿司)を味わわせることである。ああ、そういうことか、ああ、そうだったか、と、その寿司(科目)の本当の味(面白さ)を味わわせることである。すると、その科目に前向きに興味を抱き、進んで、自身が量(回転寿司)を科すメンタルへと導かれるからである。この学びにおける、質というもの優先性というものを次回、私個人の体験談を交えて話してみたいと思う。(つづく)
よく教え子に、銀座すきやばし次郎の高級寿司40000円をおごってもらうのと、回転寿司4000円分を10回ごちそうになるのはどっちがいい?と尋ねる。すると、大方の男子生徒は8割は、後者を選ぶ、女子でも5割強は、後者選ぶ。「一回くらい、その最高の寿司を食べてみたい」というのが、男子2割、女子5割弱の感想なのである。私の想像だが、そうした彼らは一回その高級寿司の味を知ってから、その味は10倍旨いとは言えない真実にも無意識に悟るであろう。その後、10回派の方に鞍替えし、そこから逸脱することはない。これが庶民感覚というものである。
勉強でも、練習でも、量なのか、質なのか、それを問われた時、昭和から平成初期であれば、6対4、いや7対3くらいで量と応える指導者が多かったように思われる。勉学にしろ、スポーツにしろ、その学びの手法が科学的に進歩した証やもしれぬが、平成半ばから令和にかけて、ほぼ、3対7か、2対8位にその比率は逆転していると考えられる。
こうした理由は、マスプロ教育と子供の数の多さから、個別化と少子化へのシフトしたことが大きな要因でもあろう。
しかし、勉強にしろ、練習にしろ、量か質かといった、白黒的、二分論には、現実に適応できないことは明白でもある。人それぞれ、状況や、レベル、また、その生徒や選手の資質や性格などを考慮しなければ、どちが是であるかなどは、判断できないものである。
これは、力道山が、同期入門でも、育て方、向き合い方で、対照的でもあった、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を思い出す。前者は、巨人軍から入門した、エリートルートで、性格も柔の馬場には、優しく褒めて育てた。一方、後者は、ブラジルの移民の息子で、厳しい環境の中、性格も剛の猪木には、厳しくあたったエピソ―ドが思い出されてもくる。これは、味方を変えれば、馬場は質的、猪木は量的指導を力道山はほどこしてもいたと言えなくもない。
今や、チャットGPTに、様々な質問もできるように、このAIに、勉強や練習は、量か質かの問いを投げかけると、恐らく、以上のような私に似た返答をしてくるものと推測される。まあ、それほど、まともにはなってきている証拠である。しかし、ここからが問題なのだ。そのAIに、その実際のA君のケースを、どうアドヴァイスしてくれるかが問題なのだ。AIは、理論はわかるが実践は難しい、そうした弱点を有する。
このAIは、時代の趨勢の、最大公倍数と最小公倍数を賢く塩梅して、ずる賢く応答してもくる、ディープラーニングとやらである。
このAIに、その子のデータや家族構成、性格、能力などをインプットして、それに適った教え方を提示してくれるかどうかといった問題なのだ。それは、極論ながら、サラブレッドの鞍上に、ジョッキー擬きの人工知能を搭載したメカを搭載して、生の人間のジョッキーと競争させる、そして、そのAIジョッキーが果たして、武豊に勝てるかどうかといった問題である。そのレース直前の、馬の気分や体調を、臨機応変、それもレースの最中に嗅ぎ分けることが、人工知能にできるかどうかだ。将棋や囲碁の対戦とはわけが違うのである。教育の勘所は、ここの強烈なる自覚にある。
また、動物園の飼育係を、檻に設置したカメラを通したAIによる飼育法というものが、果たして可能かといった問題も思い浮かぶ。
AIは、あらゆるデータを基として、人間には不可能なアドヴァイスをしてくれる反面、コンピュータでは、うかがい知れない、生き物の感情、人間の心の側面にまで指導できない弱点がある。これは、スマホ育児の盲点にもいいうることだ。これは、赤ん坊、幼児、子ども、少年少女、青年、大人に成長するにしたがって、心情が最大公約数で対応できはするが、その逆は、最小公倍数による別個の対応が求められるからでもある。
世には、“もてる者と持たざる者”という謂いがある。国家レベルから、貧富の家庭にいたるまで、さらに、IQが高いとか地頭があるとか、学習能力的側面にも当てはまる。当然、アスリートにも大谷翔平からも言いうる真実である。
とりわけ、スポーツ選手から中高生の学生に至るまで、指導者や教師は、この現実を強烈に認識しなければならい。特に、近年、ギガスクール構想と称して、生徒一人に一台のタブレット端末を与え、その生徒の能力に応じた授業を求めるようだが、この点でも私は留保する点がある。今はこの点は踏み込まない。
では、本題にもどるとしよう。勉学に関しては、まず、質であるという点である、これは、できる生徒であれ、できない生徒であれ、その生徒に、その科目の本質(最高級の寿司)を味わわせることである。ああ、そういうことか、ああ、そうだったか、と、その寿司(科目)の本当の味(面白さ)を味わわせることである。すると、その科目に前向きに興味を抱き、進んで、自身が量(回転寿司)を科すメンタルへと導かれるからである。この学びにおける、質というもの優先性というものを次回、私個人の体験談を交えて話してみたいと思う。(つづく)