コラム
精進は時代遅れ?、努力はコスパ・タイパ!
前回に、真の科学者、いや、偉大な業績を上げた科学者は、無神論者ではない。また、大相撲の世界でも、一般のアスリートの世界と違い、心技体の心の要素も求められる、それが精進でもあり、勝利や実績だけなら技と体で十分だと、それは努力で足りる、そういう文脈で語りました。何か、道徳論、倫理観、宗教じみてもいる刻苦勉励が、精進とも結びつけられるように感じるやもしれません。そうです、そもそも、この精進ということばは、仏教の六波羅蜜の六行の一つ、菩薩になるための六つの徳目の一つ、精進に由来するものです。この六波羅蜜に関しては、以下のように軽く触れておきます。
<六波羅蜜>
布施…与えること
持戒…戒を守ること
忍辱…苦難に耐えること
精進…努力すること
禅定…精神統一すること
智慧…こだわりなき心でいること
本来の精進が、近代、そして現代へと推移する過程で、特に、科学的トレーニングや合理的練習法といったスポーツ界の趨勢で努力ともなり{※努力に墜したとも言えましょう}、丁度、現代人の幸福が、物質的要因が、その指針のウェイトを占めるように、精神的な面が、鍛錬から修練、そして練習・演習と容貌を変えてきたようであります。タワマンに住み、冷凍食品で満足し、映画からライブまでSNSで十分と考えるデジタル世代の幸福感にも、令和の努力観は比類するものだと思います。
こうした現象は、昨年の甲子園夏の大会で優勝した慶應高校の練習を含め、その野球スタイルに典型的に現れてもいるかと存じます。彼らの姿には、精進の“精”の字すら感じられません。それがまた高感度をもってマスコミに受け入れられもする。また、大船渡高校{この時代、この高校の監督からの扱われ方が何かその後の彼を勘違いさせてしまったようです}から鳴り物入りでロッテに入団した佐々木朗希のアスリートとしてのメンタル面にも同様のことが言えます。彼が、ロッテ内はもちろん、野球ファンからも好印象を持たれていない最大の要因が、自己の利益最優先{体の故障を回避し、なるべく省エネでメジャーリーグに行けるかの、見え透いた根性}、まさに、あの六波羅蜜の精神から逸脱しているからだと思われます。
努力という言葉の後ろ姿に、少しでも、精進という残像、幻影が見えている人は、初詣をしたり、天神様に合格祈願する部類のひとでもありましょうか。努力の限界を、無意識に知ってもいるからだろうと思います。また、自身の刻苦勉励が、精進ではなく努力でもあることを内省しもいるかであろうかと存じます。「我、神仏を尊びて、神仏に頼らず」(宮本武蔵)精進に達している者だからこそ吐ける言葉です。
そう、短刀直入に申し上げれば、努力とは、社会の精神、気風を覆うデジタル的倫理観とも似通っている代物と言えましょう。一方、精進とは、個人の内面を支配、律するアナログ的道徳観とでも申せましょうか。ですから、努力とは、学校、会社など環境に影響されやすい、よって、欲が駆動させ、自己第一の成功に妄執する傾向にある気質であるのに対して、精進とは、ある意味、周囲には影響されない、客観的成功というものを第二義とし、我欲を比較的中心には置かない資質とも申せましょう。極論ながら、世間的、個人的にも、ものごとの鍛錬の過程で、精進が努力に、結果的に勝る点でもあります。幸福感の尺度と似通ってもいます。会社や学校で仮面を被った幸福(世間的成功)が、家庭内では、不幸(家族内で様々な問題を抱えている)となれば、それは、真の幸福ではないように。
ここで、私流の表現でまとめますと、次のようにもなろうかと存じます。
努力とは、汗を流しながら、草原(楽な環境)で常識(成功体験・成功事例)と戯れる行為、その結果、自身の技能が、脚力が成長を遂げる修練のことです。それに対して、精進とは、汗と血を流しながら、荒野(厳しい環境)で常識(※以上同義)と格闘する行為、その結果、己の技体のみならず心も成長を遂げる鍛錬のこととも言えます。
「常識を壊して、新しいものが生まれる」(三原脩)川上哲治に比肩できる名将
「前例がないからやってみよう」(糸川英夫)日本ロケット開発の父
「独創とは闘いにあり」(西澤潤一)ミスター半導体と呼ばれた元東北大学学長
常識、前例とは、成功と同義であります。世に正しいとされてもいる流儀です。大衆は、その大船に乗っていれば、安心する、らくちんなのです。
こうした偉人たちの吐くことばの背後には、努力を突き抜けた精進の領域のメンタルが透けて見えてこようかと思います。会社経営やビジネスマンの流儀ならともかく、一受験生に、この精進を求めることは、電子辞書やスマホではなく、紙の辞書を使えと命ずるに等しい、ゲームをしたりやYouTubeを見るのではなく、まっとうな書籍を読めと指導するに等しいものであります。後者は、苦痛です。効率性を考慮した時、コスパ、タイパ思想で洗脳された令和の高校生は、難行苦行の何物でもないかと思われます。逆説めきますが、不易、不便、そういった面が、心に見えないプラスαの側面があると指摘する説は、価値観の多様化、リベラル社会では、超マイノリティーになっている現実を認識してのことです。
異端を恐れない精神、それが、精進でもありましょうや、そのコアには、天の邪鬼やへそ曲がりといった資質が見え隠れしている真実は、野茂英雄のトルネード投法、イチローの振り子打法、そして、大谷翔平の二刀流といったものが証明済みです。私たちが学ぶべきは、成功・失敗以前の自身の確信、覚悟、そして信念といったものを内包する、それを大切にする道、それが精進というものです。精進は、友人とつるんで予備校や図書館の自習室でするものではありません。中学受験で有名な風説ですが、「小学6年生が、自室ではなく、リビングで親がいる前で勉強する方が、成績が伸びる、合格する確率が高い」といったものがあります。そうしたものなど、努力とうものの、月並みの典型でもありましょうか?(つづく)
<六波羅蜜>
布施…与えること
持戒…戒を守ること
忍辱…苦難に耐えること
精進…努力すること
禅定…精神統一すること
智慧…こだわりなき心でいること
本来の精進が、近代、そして現代へと推移する過程で、特に、科学的トレーニングや合理的練習法といったスポーツ界の趨勢で努力ともなり{※努力に墜したとも言えましょう}、丁度、現代人の幸福が、物質的要因が、その指針のウェイトを占めるように、精神的な面が、鍛錬から修練、そして練習・演習と容貌を変えてきたようであります。タワマンに住み、冷凍食品で満足し、映画からライブまでSNSで十分と考えるデジタル世代の幸福感にも、令和の努力観は比類するものだと思います。
こうした現象は、昨年の甲子園夏の大会で優勝した慶應高校の練習を含め、その野球スタイルに典型的に現れてもいるかと存じます。彼らの姿には、精進の“精”の字すら感じられません。それがまた高感度をもってマスコミに受け入れられもする。また、大船渡高校{この時代、この高校の監督からの扱われ方が何かその後の彼を勘違いさせてしまったようです}から鳴り物入りでロッテに入団した佐々木朗希のアスリートとしてのメンタル面にも同様のことが言えます。彼が、ロッテ内はもちろん、野球ファンからも好印象を持たれていない最大の要因が、自己の利益最優先{体の故障を回避し、なるべく省エネでメジャーリーグに行けるかの、見え透いた根性}、まさに、あの六波羅蜜の精神から逸脱しているからだと思われます。
努力という言葉の後ろ姿に、少しでも、精進という残像、幻影が見えている人は、初詣をしたり、天神様に合格祈願する部類のひとでもありましょうか。努力の限界を、無意識に知ってもいるからだろうと思います。また、自身の刻苦勉励が、精進ではなく努力でもあることを内省しもいるかであろうかと存じます。「我、神仏を尊びて、神仏に頼らず」(宮本武蔵)精進に達している者だからこそ吐ける言葉です。
そう、短刀直入に申し上げれば、努力とは、社会の精神、気風を覆うデジタル的倫理観とも似通っている代物と言えましょう。一方、精進とは、個人の内面を支配、律するアナログ的道徳観とでも申せましょうか。ですから、努力とは、学校、会社など環境に影響されやすい、よって、欲が駆動させ、自己第一の成功に妄執する傾向にある気質であるのに対して、精進とは、ある意味、周囲には影響されない、客観的成功というものを第二義とし、我欲を比較的中心には置かない資質とも申せましょう。極論ながら、世間的、個人的にも、ものごとの鍛錬の過程で、精進が努力に、結果的に勝る点でもあります。幸福感の尺度と似通ってもいます。会社や学校で仮面を被った幸福(世間的成功)が、家庭内では、不幸(家族内で様々な問題を抱えている)となれば、それは、真の幸福ではないように。
ここで、私流の表現でまとめますと、次のようにもなろうかと存じます。
努力とは、汗を流しながら、草原(楽な環境)で常識(成功体験・成功事例)と戯れる行為、その結果、自身の技能が、脚力が成長を遂げる修練のことです。それに対して、精進とは、汗と血を流しながら、荒野(厳しい環境)で常識(※以上同義)と格闘する行為、その結果、己の技体のみならず心も成長を遂げる鍛錬のこととも言えます。
「常識を壊して、新しいものが生まれる」(三原脩)川上哲治に比肩できる名将
「前例がないからやってみよう」(糸川英夫)日本ロケット開発の父
「独創とは闘いにあり」(西澤潤一)ミスター半導体と呼ばれた元東北大学学長
常識、前例とは、成功と同義であります。世に正しいとされてもいる流儀です。大衆は、その大船に乗っていれば、安心する、らくちんなのです。
こうした偉人たちの吐くことばの背後には、努力を突き抜けた精進の領域のメンタルが透けて見えてこようかと思います。会社経営やビジネスマンの流儀ならともかく、一受験生に、この精進を求めることは、電子辞書やスマホではなく、紙の辞書を使えと命ずるに等しい、ゲームをしたりやYouTubeを見るのではなく、まっとうな書籍を読めと指導するに等しいものであります。後者は、苦痛です。効率性を考慮した時、コスパ、タイパ思想で洗脳された令和の高校生は、難行苦行の何物でもないかと思われます。逆説めきますが、不易、不便、そういった面が、心に見えないプラスαの側面があると指摘する説は、価値観の多様化、リベラル社会では、超マイノリティーになっている現実を認識してのことです。
異端を恐れない精神、それが、精進でもありましょうや、そのコアには、天の邪鬼やへそ曲がりといった資質が見え隠れしている真実は、野茂英雄のトルネード投法、イチローの振り子打法、そして、大谷翔平の二刀流といったものが証明済みです。私たちが学ぶべきは、成功・失敗以前の自身の確信、覚悟、そして信念といったものを内包する、それを大切にする道、それが精進というものです。精進は、友人とつるんで予備校や図書館の自習室でするものではありません。中学受験で有名な風説ですが、「小学6年生が、自室ではなく、リビングで親がいる前で勉強する方が、成績が伸びる、合格する確率が高い」といったものがあります。そうしたものなど、努力とうものの、月並みの典型でもありましょうか?(つづく)