コラム
メジャーリーガーは努力はしても精進はしていない
メジャーリーガーは、引退後5年で自己破産する者が、8割もいるという。この通説は、個人的ながら、スポーツジャーナリストではないので、ことの詳細や事情には深入りしませんが、どうも、その淵源には、アスリートとして、野球(身体や技能)に対して、努力をしてきたか,精進はしてきたか、その違いがあるように思えてなりません。この点、日本のプロ野球界で、引退後に自己破産にみまわれるものなら、スポーツ紙や週刊誌で、騒ぎ立てられ、煽り立てられ、耳目の的にもなります。それは、元スター選手がどうしてと?稀有なケースでもあるからです。
前回にも言及したロッテの佐々木朗希投手の現在での球界の立ち位置ですが、どう考えても、精進の域には、ありません。メジャーリーガーの卵の大学生のアスリートのメンタルに近いものだろうと推察されます。大船渡高校の延長線にあるということでもある。月並みな、努力、ド努力に留まってもいる姿が、周囲に好感が持たれていない最大の要因です。野村克也的に言わせてもらえば、「人間的な成長なし」とでも申せましょうか?大船渡高校から、チームの甲子園出場より、将来嘱望された、球界の至宝として、まるで、宅急便の箱に、フラジールとか取り扱い要注意と書かれた品を扱うが如く、丁重に、扱われてもきた、その忖度が、ロッテ球団にも受け継がれ、大船渡高校の監督と佐々木本人の自己が一体化した、自身の欲、自己の夢、それが最大優先ともなり、一切の故障や怪我は絶対にしてはなるものか!そうしたメンタルが育まれてきたように想像できるのです。高校野球の投球制限や延長戦におけるタイブレーク方式の導入など、球児の身体を最優先する時代の趨勢が、佐々木朗希の野球への信条・憲法ともなっているようです。ここでです、佐々木朗希と同レベルの才能を有してもいた、大谷翔平やイチローを持ち出すまでもないが、大谷の花巻東高校での佐々木監督の扱い方、イチローのオリックスへ入団した数年間の扱われ方、そして、近鉄で入団以来、4年連続で最多勝を獲得した野茂への扱い方、こうした期間、時代が、彼らには、努力ではどうしようもない次元の、苦難・困難というものが待ち構えてもいました。
彼らに試練を与えてもいたのでしょう、それこそが、自身の内面で、努力の殻を破り精進の域へと脱皮せしめたことは確かであったことでありましょう。そうです、精進には、努力にはいない、理不尽さという敵がいるのです。不快、苦悩、懊悩といったものが、自身の技能の向上を妨げようとしてきます。佐々木には、これらが人生行路で、きれいさっぱり払拭されてしまっています。これは、これでいいとしましょうか!
両親の仲がいい、裕福な家庭で、何不自由なく、東大理科一類に合格するために、理科系の勉学に励むは、努力で十分であります。一方、両親の諍いが絶えない家庭、また、母子家庭、さらに一家の主の父が重い病で寝込んでいる家庭、などなど、こうした家庭で同じように、理科系の、東大理科Ⅰへの勉学に励むなど苦難以外のないものでもない。努力すら不可能な環境です。そうした高校生は、理科系から、むしろ、文系、それも、私立文系に進む人生が、有名人なんかを概観すると、そうしたタイプが多いかと存じます。それは、簡単な<人生の理>とでも申せましょう。死にかけた母親のベッドの脇で、数学などの問題を解く行為など手につかない、よって、文学書や哲学書、時に、宗教書の類に触手が伸び、理系中心の受験勉強から怠惰の習慣へと墜ちてもゆく、それが、私立文系の末路となった小説家などの典型でもありましょうか?これは、受験勉強で精進はもちろん、努力さえもゆるされなかった宿命のケースであります。しかし、それは、受験の次元では、努力や精進になどすらできない状況です。でも、人生における精進はしていたことになる、その鍛錬とも言っていい<エキス>が、その後、作品で昇華する。この昇華の次元こそ、大谷、イチロー、野茂には言いえるけれど、佐々木朗希には、疑問符がついてしまう所以です。
努力と精進の境界線、このグレーゾーンには、集団のため、組織のため、いわば、チームのために、ある程度の自己犠牲というものを払えるか、また、利他の精神というものがが意識に上ってくるのか、そういう側面が必要になってきます。科学的、身体優先、そうした角度から、限界を超えてもいると認識できていても、無理して投げ続ける心持、それが、努力と精進の境界線でもあろうかと存じます。そこの一線を超えるか、越えて故障しても、仕方ない、そう覚悟ができるか否か、それが、アスリートのメンタル面でその後、人生を決定しようかと思います。
ほとんどのメジャーリーガーは、自身の妻が出産する当日は、欠場する。子どもの大切な行事があると、そちらを優先する。これは、また、精進とは別次元の行為です。
ビッグマネーのために、メジャーリーガーは、努力をする。また、こうしたスーパースターのようになりたいと思い、努力もする。彼らは、億万長者となったり、野球ファンの憧れの的となる記録をのこしたりする。それは、努力で十分足りる世界です。その後の引退後の人生という第二ステージを駆動する何かを持ってはいません。精進という、連綿と続く努力、不断の鍛錬、それも利他的な側面をも含む修練に欠けてもいるからです。ですから、メジャーリーガーのスーパースターは、ベーブルースにしろ、ジョー・デマジオにしろ、名監督にはなっていないことが、それを証明してもいようかと存じます。現在でも、メジャーの名監督のキャリアというものは、才能2流でも現役時代に精進をしてきた否かがものをいう領域でもある。精進の何たるか、それは人生のアナザー・フェーズへの架け橋ともなることを物語ってもいます。(つづく)
前回にも言及したロッテの佐々木朗希投手の現在での球界の立ち位置ですが、どう考えても、精進の域には、ありません。メジャーリーガーの卵の大学生のアスリートのメンタルに近いものだろうと推察されます。大船渡高校の延長線にあるということでもある。月並みな、努力、ド努力に留まってもいる姿が、周囲に好感が持たれていない最大の要因です。野村克也的に言わせてもらえば、「人間的な成長なし」とでも申せましょうか?大船渡高校から、チームの甲子園出場より、将来嘱望された、球界の至宝として、まるで、宅急便の箱に、フラジールとか取り扱い要注意と書かれた品を扱うが如く、丁重に、扱われてもきた、その忖度が、ロッテ球団にも受け継がれ、大船渡高校の監督と佐々木本人の自己が一体化した、自身の欲、自己の夢、それが最大優先ともなり、一切の故障や怪我は絶対にしてはなるものか!そうしたメンタルが育まれてきたように想像できるのです。高校野球の投球制限や延長戦におけるタイブレーク方式の導入など、球児の身体を最優先する時代の趨勢が、佐々木朗希の野球への信条・憲法ともなっているようです。ここでです、佐々木朗希と同レベルの才能を有してもいた、大谷翔平やイチローを持ち出すまでもないが、大谷の花巻東高校での佐々木監督の扱い方、イチローのオリックスへ入団した数年間の扱われ方、そして、近鉄で入団以来、4年連続で最多勝を獲得した野茂への扱い方、こうした期間、時代が、彼らには、努力ではどうしようもない次元の、苦難・困難というものが待ち構えてもいました。
彼らに試練を与えてもいたのでしょう、それこそが、自身の内面で、努力の殻を破り精進の域へと脱皮せしめたことは確かであったことでありましょう。そうです、精進には、努力にはいない、理不尽さという敵がいるのです。不快、苦悩、懊悩といったものが、自身の技能の向上を妨げようとしてきます。佐々木には、これらが人生行路で、きれいさっぱり払拭されてしまっています。これは、これでいいとしましょうか!
両親の仲がいい、裕福な家庭で、何不自由なく、東大理科一類に合格するために、理科系の勉学に励むは、努力で十分であります。一方、両親の諍いが絶えない家庭、また、母子家庭、さらに一家の主の父が重い病で寝込んでいる家庭、などなど、こうした家庭で同じように、理科系の、東大理科Ⅰへの勉学に励むなど苦難以外のないものでもない。努力すら不可能な環境です。そうした高校生は、理科系から、むしろ、文系、それも、私立文系に進む人生が、有名人なんかを概観すると、そうしたタイプが多いかと存じます。それは、簡単な<人生の理>とでも申せましょう。死にかけた母親のベッドの脇で、数学などの問題を解く行為など手につかない、よって、文学書や哲学書、時に、宗教書の類に触手が伸び、理系中心の受験勉強から怠惰の習慣へと墜ちてもゆく、それが、私立文系の末路となった小説家などの典型でもありましょうか?これは、受験勉強で精進はもちろん、努力さえもゆるされなかった宿命のケースであります。しかし、それは、受験の次元では、努力や精進になどすらできない状況です。でも、人生における精進はしていたことになる、その鍛錬とも言っていい<エキス>が、その後、作品で昇華する。この昇華の次元こそ、大谷、イチロー、野茂には言いえるけれど、佐々木朗希には、疑問符がついてしまう所以です。
努力と精進の境界線、このグレーゾーンには、集団のため、組織のため、いわば、チームのために、ある程度の自己犠牲というものを払えるか、また、利他の精神というものがが意識に上ってくるのか、そういう側面が必要になってきます。科学的、身体優先、そうした角度から、限界を超えてもいると認識できていても、無理して投げ続ける心持、それが、努力と精進の境界線でもあろうかと存じます。そこの一線を超えるか、越えて故障しても、仕方ない、そう覚悟ができるか否か、それが、アスリートのメンタル面でその後、人生を決定しようかと思います。
ほとんどのメジャーリーガーは、自身の妻が出産する当日は、欠場する。子どもの大切な行事があると、そちらを優先する。これは、また、精進とは別次元の行為です。
ビッグマネーのために、メジャーリーガーは、努力をする。また、こうしたスーパースターのようになりたいと思い、努力もする。彼らは、億万長者となったり、野球ファンの憧れの的となる記録をのこしたりする。それは、努力で十分足りる世界です。その後の引退後の人生という第二ステージを駆動する何かを持ってはいません。精進という、連綿と続く努力、不断の鍛錬、それも利他的な側面をも含む修練に欠けてもいるからです。ですから、メジャーリーガーのスーパースターは、ベーブルースにしろ、ジョー・デマジオにしろ、名監督にはなっていないことが、それを証明してもいようかと存じます。現在でも、メジャーの名監督のキャリアというものは、才能2流でも現役時代に精進をしてきた否かがものをいう領域でもある。精進の何たるか、それは人生のアナザー・フェーズへの架け橋ともなることを物語ってもいます。(つづく)