コラム
"夢"から生きがいに意識転換
前回に言及した、「己を捨てて、学問をすれば自ずと己の生き方が見えてくる」(小林秀雄)と「進歩とは、反省の厳しさに反比例する」(本田宗一郎)について、補足説明しておこう。
まず、小林の謂う“己”という言意は、成功した己、失敗した己でもある。「勝っておごらず、負けて腐らず」から「成功と書いて“退化”と読む、失敗と書いて“成長”と読む」(野村克也)という文言を掛け合わせた文脈の中での“己”を言う。
また、本田の謂う“失敗”とは、受験や就職、また、仕事での失敗を言う。それゆえ、この批評家と経営者の弁は、相乗効果を意図して挙げたまでである。それぞれ通底している名言でもある。
よくニュース番組などで、サラリーマンの仕事への重要度として、給料、待遇、職種などをアンケート調査でランクインする要因の第一位は、やりがいが断トツにあがる。やりがい、はたらきがい、これが、令和の社会人の第一要因であると報じていた。
このやりがいの実感度とは、具体的にどういうものだろうか?
その番組{フジテレビの夜のニュース番組『ニュースα』}でも指摘説明されてもいたが、まず、その仕事をしていて自身が成長しているかどうかその実感が湧くかどうか、それを重視するという。次は、自身の会社で任されている仕事のスキルが、他社でも通用するものかどうか、そういった実感が大切として挙げてもいた。更に、自身の仕事が他の人間にもできる仕事を、ルーティーンとして日々こなしているだけの日常は嫌悪されもするという。だれでもできる仕事を自身がやっていないかどうかである。こうしたしょくば環境では仕事人としてのやりがいは芽生えはしない。これらは、根底でつながってもいる要因であろう。現代の、とりわけ、平成の失われた30年の間に勤め人の内面に沸々と湧き上がってもきた退職・退社のトリガーともなっている、大きな点である。これは、私個人として、セブン&アイを2年足らずで退社したから、非常に納得できる。こうした、サラリーマンの現代的疎外感というものに遭遇しながらも、退社しない勤め人根性は、超ブランド企業、安定した公務員など、その“暖簾”の力で、自己満足もでき、ある意味、終身雇用で、別名“組織内の安定性”で、その疎外感を、麻痺させる、忘れさせれば、また、穴埋めしてもいよう。人生の生き甲斐は、プライベートで、趣味や家庭で実現できると考えてもいる人間でもあろう。丁度、美男美女といった、俳優や歌手同士で結婚しながらも、世間体や仕事の観点で、一種、見栄を張っている仮面夫婦を演じているカップルのようなものである。
現代サラリーマンにおける、仕事におけるやりがいとやらが、実は、現今の、あの有名な書籍の題名『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書)の根本要因であるのはうなずける。
平成初期、バブルが崩壊し、失われし10年、20年、30年と平成不況が慢性化する中で、こうしたサラリーマン独特の、不安・不満症候群とやらが蔓延し、その不安とリンクし、ネット時代とマッチし、令和の日本では、転職サイトが隆盛を極めてもいる。そうしたメンタルに付け込む、メンタルを利用する、いわば、サラリーマンのもやもや感を解消するビジネスとして、今や、様々な転職サイトが花盛りなのだ。おそらく、転職の要因は、ステップアップの動機より、ステップアウトのもの方が多数派のような気がする。皮肉なことに、そのステップアウト派は、ほとんどが、ステップダウンと相成るのが現実でもある。
そうである、現代の若き社会人は、自身の仕事に、やりがいを求めている比重が、昭和から平成へと移行し、バブルが弾け、年功序列・終身雇用・非雇用社員など、失われし30年の間に、加速してもゆき、集団という会社、組織が信用できなくもなってゆく、その過程で、仕事のやりがいという概念が、生まれた、いや、無意識から意識の閾へと急浮上した感が否めない。社員旅行、社内運動会、社内レクレーションなど消滅した現象から、帰属する会社というものの中の、非家族的一員と認識されてもきた趨勢ともリンクしてこよう。つまり、会社は家族であるという幻想が潰えた段階で、帰属する組織から放逐された孤独感、そこから、会社という組織ではなく、自身のする仕事への執着心、仕事こそ自身の生命線、会社ではないと覚醒されもしてきたといいうる。アメリカ化したビジネス界の、殺伐として、荒涼とした職場への、一種、自己防衛本能というものが、自身の仕事へのやりがいという姿・形で存在理由をこしらえないと焦る、そういう焦燥感というものが自身を駆り立ててもいる象徴が、こうしたニュー番組のアンケート調査報告でもあろう。
以前、このコラムのどこかで語ってことでもあるのだが、「サラリーマン、つまり、4年生大学を卒業して、就活を経て、一般企業に勤めている人間は、高校生までで、また、大学時代に、自身のやりたいことが見つからなかった部族である」といった皮肉まじりの真実を述べたことがあった。
そうである、21、22歳までに、自身のやりたいこととは、即ち、生き甲斐ともいえるもの、天職ともいいうるものである。大学を中退した、ミュージシャン、芸人、俳優などいとまがない、また、ボランティアなどNGOやNPOを立ち上げたり、飲食業を企業したり、孫正義や堀江貴文のような、日本版“ジョブスやゲイツ”もいよう。彼らは、自身の仕事に対して、やりがいなどという一次元低い“生活の手段とわりきる庶民根性”とやらは眼中にない、意識にもなかろう。それは、仕事へのやりがいというよりいきがいという、それより、次元の高い崇高なる精神に浸ってもいる人々である。サラリーマン族で、「自身の仕事がいきがいである」などとほざいている輩に限り、定年退職後、家庭内の濡れ落ち葉になりはてるのである。人生の多くの時間、長い年月を会社に提供し、首都圏に一戸建てすら建てられない給料をもらい、老いても行くサラリーマンの身の上にとっての、“働きがい・やいがい”とは、そうした部族の、自己欺瞞、“間違っていたかもしれない(と晩年後悔するやもしれない)人生行路”への免罪符のようなもの、人生の“たら・れば人生”への贖宥状である。自己、即ち、強烈なる<孤>を数十年忘れさせる“ドラッグ”のような代物、それが、多くの勤め人にとっての、“仕事へのやりがい”といったもの正体でもある。そういう人は、皮肉交じりに言わせてもらえば、家族が生き甲斐、子どもが生き甲斐、そうした、今風の表現でいえば、マイルドヤンキーの幸福感に近いものだ。彼らは、高卒ながら、アナログの仕事にも不満はないが、家族が生き甲斐でもある。軸足は、マイホームである。一方、高学歴エリートサラリーマンは、デジタル系の仕事をしながら、タワマンに住み、無機質な日常を送る、比較的仕事に軸足を置く人々である。このコントラストは、令和の経済低迷の日本では、幸せの濃淡のコントラスト、幸せの心象風景として印象深い。この範疇から逸脱する部族は、パワーカップルで子供は一人っ子である、そして、我が子が、慶應幼稚舎などに通う夫婦でもあろうか?
ここでまとめるとしよう。ある、人もうらやむ大企業へ入社しても、そこでの、仕事に<やりがい>が湧かなければ、それは、丁度、大恋愛の末、結婚したカップルが、お互いに幻滅して、愛情がさめてゆくに等しいメンタル現象でもある。ここに、自身の希望の会社・仕事に就くという夢かないし後の、<いきがい>という、社会人として人生の第二ステージが問題となることを言いたいのである。不本意な会社に入っても、そこで任される仕事に<やりがい>を感じれば、その会社とその人の“結婚”ともいえる就職は正解であったとも言えよう。しかし、人生とは、不思議なもので、大学を出ても、大中小と一般企業なんぞに就職せず、料理人や菓子職人、また、様々なアプリを独自で開発をする事業を手掛けるなど、そこに、自身の<やりがい>を越えたところに、<いきがい>を見つけた人が、“人生の成功者”ともいえるのではないだろうか。その証拠に、平成から令和にかけて、どれほど多くのお笑い芸人が出現しているか、そして、彼らが、バブリーながらも、テレビを賑やかなものにしているか、彼らの生き様が証明してもいよう。他人を笑わせること、それに、芸人としての仕事への<やりがい>、そして、<いきがい>の両面の一致をみている種族である。
まず、小林の謂う“己”という言意は、成功した己、失敗した己でもある。「勝っておごらず、負けて腐らず」から「成功と書いて“退化”と読む、失敗と書いて“成長”と読む」(野村克也)という文言を掛け合わせた文脈の中での“己”を言う。
また、本田の謂う“失敗”とは、受験や就職、また、仕事での失敗を言う。それゆえ、この批評家と経営者の弁は、相乗効果を意図して挙げたまでである。それぞれ通底している名言でもある。
よくニュース番組などで、サラリーマンの仕事への重要度として、給料、待遇、職種などをアンケート調査でランクインする要因の第一位は、やりがいが断トツにあがる。やりがい、はたらきがい、これが、令和の社会人の第一要因であると報じていた。
このやりがいの実感度とは、具体的にどういうものだろうか?
その番組{フジテレビの夜のニュース番組『ニュースα』}でも指摘説明されてもいたが、まず、その仕事をしていて自身が成長しているかどうかその実感が湧くかどうか、それを重視するという。次は、自身の会社で任されている仕事のスキルが、他社でも通用するものかどうか、そういった実感が大切として挙げてもいた。更に、自身の仕事が他の人間にもできる仕事を、ルーティーンとして日々こなしているだけの日常は嫌悪されもするという。だれでもできる仕事を自身がやっていないかどうかである。こうしたしょくば環境では仕事人としてのやりがいは芽生えはしない。これらは、根底でつながってもいる要因であろう。現代の、とりわけ、平成の失われた30年の間に勤め人の内面に沸々と湧き上がってもきた退職・退社のトリガーともなっている、大きな点である。これは、私個人として、セブン&アイを2年足らずで退社したから、非常に納得できる。こうした、サラリーマンの現代的疎外感というものに遭遇しながらも、退社しない勤め人根性は、超ブランド企業、安定した公務員など、その“暖簾”の力で、自己満足もでき、ある意味、終身雇用で、別名“組織内の安定性”で、その疎外感を、麻痺させる、忘れさせれば、また、穴埋めしてもいよう。人生の生き甲斐は、プライベートで、趣味や家庭で実現できると考えてもいる人間でもあろう。丁度、美男美女といった、俳優や歌手同士で結婚しながらも、世間体や仕事の観点で、一種、見栄を張っている仮面夫婦を演じているカップルのようなものである。
現代サラリーマンにおける、仕事におけるやりがいとやらが、実は、現今の、あの有名な書籍の題名『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書)の根本要因であるのはうなずける。
平成初期、バブルが崩壊し、失われし10年、20年、30年と平成不況が慢性化する中で、こうしたサラリーマン独特の、不安・不満症候群とやらが蔓延し、その不安とリンクし、ネット時代とマッチし、令和の日本では、転職サイトが隆盛を極めてもいる。そうしたメンタルに付け込む、メンタルを利用する、いわば、サラリーマンのもやもや感を解消するビジネスとして、今や、様々な転職サイトが花盛りなのだ。おそらく、転職の要因は、ステップアップの動機より、ステップアウトのもの方が多数派のような気がする。皮肉なことに、そのステップアウト派は、ほとんどが、ステップダウンと相成るのが現実でもある。
そうである、現代の若き社会人は、自身の仕事に、やりがいを求めている比重が、昭和から平成へと移行し、バブルが弾け、年功序列・終身雇用・非雇用社員など、失われし30年の間に、加速してもゆき、集団という会社、組織が信用できなくもなってゆく、その過程で、仕事のやりがいという概念が、生まれた、いや、無意識から意識の閾へと急浮上した感が否めない。社員旅行、社内運動会、社内レクレーションなど消滅した現象から、帰属する会社というものの中の、非家族的一員と認識されてもきた趨勢ともリンクしてこよう。つまり、会社は家族であるという幻想が潰えた段階で、帰属する組織から放逐された孤独感、そこから、会社という組織ではなく、自身のする仕事への執着心、仕事こそ自身の生命線、会社ではないと覚醒されもしてきたといいうる。アメリカ化したビジネス界の、殺伐として、荒涼とした職場への、一種、自己防衛本能というものが、自身の仕事へのやりがいという姿・形で存在理由をこしらえないと焦る、そういう焦燥感というものが自身を駆り立ててもいる象徴が、こうしたニュー番組のアンケート調査報告でもあろう。
以前、このコラムのどこかで語ってことでもあるのだが、「サラリーマン、つまり、4年生大学を卒業して、就活を経て、一般企業に勤めている人間は、高校生までで、また、大学時代に、自身のやりたいことが見つからなかった部族である」といった皮肉まじりの真実を述べたことがあった。
そうである、21、22歳までに、自身のやりたいこととは、即ち、生き甲斐ともいえるもの、天職ともいいうるものである。大学を中退した、ミュージシャン、芸人、俳優などいとまがない、また、ボランティアなどNGOやNPOを立ち上げたり、飲食業を企業したり、孫正義や堀江貴文のような、日本版“ジョブスやゲイツ”もいよう。彼らは、自身の仕事に対して、やりがいなどという一次元低い“生活の手段とわりきる庶民根性”とやらは眼中にない、意識にもなかろう。それは、仕事へのやりがいというよりいきがいという、それより、次元の高い崇高なる精神に浸ってもいる人々である。サラリーマン族で、「自身の仕事がいきがいである」などとほざいている輩に限り、定年退職後、家庭内の濡れ落ち葉になりはてるのである。人生の多くの時間、長い年月を会社に提供し、首都圏に一戸建てすら建てられない給料をもらい、老いても行くサラリーマンの身の上にとっての、“働きがい・やいがい”とは、そうした部族の、自己欺瞞、“間違っていたかもしれない(と晩年後悔するやもしれない)人生行路”への免罪符のようなもの、人生の“たら・れば人生”への贖宥状である。自己、即ち、強烈なる<孤>を数十年忘れさせる“ドラッグ”のような代物、それが、多くの勤め人にとっての、“仕事へのやりがい”といったもの正体でもある。そういう人は、皮肉交じりに言わせてもらえば、家族が生き甲斐、子どもが生き甲斐、そうした、今風の表現でいえば、マイルドヤンキーの幸福感に近いものだ。彼らは、高卒ながら、アナログの仕事にも不満はないが、家族が生き甲斐でもある。軸足は、マイホームである。一方、高学歴エリートサラリーマンは、デジタル系の仕事をしながら、タワマンに住み、無機質な日常を送る、比較的仕事に軸足を置く人々である。このコントラストは、令和の経済低迷の日本では、幸せの濃淡のコントラスト、幸せの心象風景として印象深い。この範疇から逸脱する部族は、パワーカップルで子供は一人っ子である、そして、我が子が、慶應幼稚舎などに通う夫婦でもあろうか?
ここでまとめるとしよう。ある、人もうらやむ大企業へ入社しても、そこでの、仕事に<やりがい>が湧かなければ、それは、丁度、大恋愛の末、結婚したカップルが、お互いに幻滅して、愛情がさめてゆくに等しいメンタル現象でもある。ここに、自身の希望の会社・仕事に就くという夢かないし後の、<いきがい>という、社会人として人生の第二ステージが問題となることを言いたいのである。不本意な会社に入っても、そこで任される仕事に<やりがい>を感じれば、その会社とその人の“結婚”ともいえる就職は正解であったとも言えよう。しかし、人生とは、不思議なもので、大学を出ても、大中小と一般企業なんぞに就職せず、料理人や菓子職人、また、様々なアプリを独自で開発をする事業を手掛けるなど、そこに、自身の<やりがい>を越えたところに、<いきがい>を見つけた人が、“人生の成功者”ともいえるのではないだろうか。その証拠に、平成から令和にかけて、どれほど多くのお笑い芸人が出現しているか、そして、彼らが、バブリーながらも、テレビを賑やかなものにしているか、彼らの生き様が証明してもいよう。他人を笑わせること、それに、芸人としての仕事への<やりがい>、そして、<いきがい>の両面の一致をみている種族である。