コラム
"中退者の人生"とは厳粛なる趣味である
ドロップアウトの生き方、いや、中退者の流儀というものを、異端の系譜で語ってみたいと思う。それこそが、そうした者たちの、成功した声なき声の代弁ともなるからだ。異端者の成功は、言葉ではなく、仕事で、行動で雄弁に物語ってもいるからだ。
イラストレーター、といわけ、蛭子能収などは、ヘタウマと呼ばれる、その典型でもあろう。下手に見えて、誰にでも描けそうなイラストを描く、しかし、独特の魅力が、彼の絵の持ち味である。一般的な漫画家にも、ときたまいるタイプである。これを芸術に引き上げると、後期印象派として、素朴派と目される、フランスの画家アンリー・ルソーがいる。税関吏で、日曜画家であっても、ピカソをも惹きつける何かがあった。
私の好きな言葉として、「通俗が、通俗を突き抜けると、それは、もう通俗ではなく、芸術なってしまう」というものがある。私が最も敬愛してやまない山下達郎{弊著『ポップスの規矩』参照}の弁である。これなんぞは、あの20世紀最高の音楽グループ“ビートルズ”を指してのものである。これを映画になぞらえれば、黒澤明の映画にも適用できる。『七人の侍』などは、超娯楽作品として東宝で作られながらも、黒澤の完璧主義により、芸術映画ともなり、ハイウッド映画の本場にどれほどの影響を与えたであろうか?達郎の作品定理に当てはまる例である。
以上のような用例は、一人間、一人の人生になぞれるならば、外的評価、客観的通念といったものに、どれほど背いて生きてきたか、それが異端者の美学、中退者の矜持ともいえるものである。アントニオ猪木の余りに有名なことば、実は、一休宗純のことばだそうだが、
「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となりその一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」
これを、迷える中高生、また、大学生、若き社会人に贈ろう。
「良心とは、厳粛なる趣味である」という『侏儒の言葉』にでてくる、芥川龍之介のアフォリズムがあるが、これを曲解して、「人生とは、厳粛なる趣味である」ということばが、実は、前回に引用した、世の著名なる中退者の、無意識なる、深層心理の実体でもあろうか。これは、飽くまでも、一般論のことである。高校球児のグラウンドでの炎天下での練習と教室内での授業、音大をめざす少年少女と放課後ピアノやヴァイオリンを放課後特訓と英数国理社の勉強、藝大をめざすギフティッドにとってのデッサンという行為と毎日の6時間の授業、こうした者たちいとっては、ある意味、野球であれ、音楽であれ、美術であれ、月並みな趣味ではない、いわゆる、厳粛なる趣味なのである。この厳粛なる趣味が、その後、大学時代、社会人時代に、天職となるかは、神のみぞ知るであるが、それに賭けてもいるわけである。「もし音楽でダメだったら、二人で屋台でも引いてラーメン屋でもやろう」と、音楽で生きてゆく方針を決めた時、相棒(恋人で、妻にもなる原由子)に桑田佳祐が語ったセリフが、中退者の心意気、その勇猛さを物語ってもいよう。これを、決意とは呼ばない、覚悟ともいう。「覚悟に勝る決断なし」(野村克也)が、この言葉から、中退者の背水の陣の心意気が脳裏にも蘇ってもくる。中退者には、覚悟へと通じる、厳粛なる趣味という十代までの、傍流の経験が自身の原野を耕していた、彷徨ってもいた真実があった根拠でもありうるということだ。ここにも、我が子の好きなことをやらせるか否かの決断が浮上してもくる。親の賭けである。ここで成功の確率が高いのは、オリンピックのアスリートである。親が大方、卓球選手、柔道家、レスリング選手だった者が、どれほど多いかである。いやいや、大きく道がそれてしまったようだ、本題に戻るとしよう。
では、中退者、異端者、傍流の成功事例、それとは真逆の、中途半端な成功者、人生のグレイ的成功者、極端ながら、「あの時、もし、ああしていたならば!」と述懐する、軽い後悔に念にとらわれる者は、“人生とは、浮(ふ)汎(はん)なる仕事である”ということに覚醒したのが、人生後半になって気づいた人間でもある。
中退者とは、少年期、青年期に、人生とは、<浮汎なる仕事>か、<厳粛なる趣味>かに天秤を掛けた時、後者に賭ける種族なのである。この生き様は、東大総長大河内一男の「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という、東京オリンピックが開催された1964年の卒業式の弁でもあり、スタンフォード大学での2005年の卒業式の余りに有名なスティーブ・ジョブスの「Stay foolish Stay hungry」とも一脈通じるものがある。そのアウトロー的人生、アカデミックなる草莽の精神への訓戒でもある。
中退者というものは、少々古い謂いでもあるが、実存主義者でもあるということである。高校の倫理などで当然学ぶ、あのサルトルの有名な二つの名言「実存は本質に先立つ」{=学び歴は学歴に先立つ}・「人間はみずからつくるところのもの」{=独創とは、学問のみならず人生にも言い得ることである}を知りながら、それを実行に移す高校生が、大学生が如何に少ないか、とりわけ、令和のZ世代とされる連中には、中退や浪人といった、ある意味“異端者根性”が希薄になってきていることは、この平成不況と少子化といったものが、ますますそうした蛮勇という人生行路を、超マイナー派へと追いやってもいる。少々蛇足ながら単純軽快なる例を持ち出せば、坂本龍馬の脱藩、これぞ、学校中退の模範的先達でもある。この雄姿に、『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)の読者が最も惹かれるのである。(つづく)
イラストレーター、といわけ、蛭子能収などは、ヘタウマと呼ばれる、その典型でもあろう。下手に見えて、誰にでも描けそうなイラストを描く、しかし、独特の魅力が、彼の絵の持ち味である。一般的な漫画家にも、ときたまいるタイプである。これを芸術に引き上げると、後期印象派として、素朴派と目される、フランスの画家アンリー・ルソーがいる。税関吏で、日曜画家であっても、ピカソをも惹きつける何かがあった。
私の好きな言葉として、「通俗が、通俗を突き抜けると、それは、もう通俗ではなく、芸術なってしまう」というものがある。私が最も敬愛してやまない山下達郎{弊著『ポップスの規矩』参照}の弁である。これなんぞは、あの20世紀最高の音楽グループ“ビートルズ”を指してのものである。これを映画になぞらえれば、黒澤明の映画にも適用できる。『七人の侍』などは、超娯楽作品として東宝で作られながらも、黒澤の完璧主義により、芸術映画ともなり、ハイウッド映画の本場にどれほどの影響を与えたであろうか?達郎の作品定理に当てはまる例である。
以上のような用例は、一人間、一人の人生になぞれるならば、外的評価、客観的通念といったものに、どれほど背いて生きてきたか、それが異端者の美学、中退者の矜持ともいえるものである。アントニオ猪木の余りに有名なことば、実は、一休宗純のことばだそうだが、
「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となりその一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」
これを、迷える中高生、また、大学生、若き社会人に贈ろう。
「良心とは、厳粛なる趣味である」という『侏儒の言葉』にでてくる、芥川龍之介のアフォリズムがあるが、これを曲解して、「人生とは、厳粛なる趣味である」ということばが、実は、前回に引用した、世の著名なる中退者の、無意識なる、深層心理の実体でもあろうか。これは、飽くまでも、一般論のことである。高校球児のグラウンドでの炎天下での練習と教室内での授業、音大をめざす少年少女と放課後ピアノやヴァイオリンを放課後特訓と英数国理社の勉強、藝大をめざすギフティッドにとってのデッサンという行為と毎日の6時間の授業、こうした者たちいとっては、ある意味、野球であれ、音楽であれ、美術であれ、月並みな趣味ではない、いわゆる、厳粛なる趣味なのである。この厳粛なる趣味が、その後、大学時代、社会人時代に、天職となるかは、神のみぞ知るであるが、それに賭けてもいるわけである。「もし音楽でダメだったら、二人で屋台でも引いてラーメン屋でもやろう」と、音楽で生きてゆく方針を決めた時、相棒(恋人で、妻にもなる原由子)に桑田佳祐が語ったセリフが、中退者の心意気、その勇猛さを物語ってもいよう。これを、決意とは呼ばない、覚悟ともいう。「覚悟に勝る決断なし」(野村克也)が、この言葉から、中退者の背水の陣の心意気が脳裏にも蘇ってもくる。中退者には、覚悟へと通じる、厳粛なる趣味という十代までの、傍流の経験が自身の原野を耕していた、彷徨ってもいた真実があった根拠でもありうるということだ。ここにも、我が子の好きなことをやらせるか否かの決断が浮上してもくる。親の賭けである。ここで成功の確率が高いのは、オリンピックのアスリートである。親が大方、卓球選手、柔道家、レスリング選手だった者が、どれほど多いかである。いやいや、大きく道がそれてしまったようだ、本題に戻るとしよう。
では、中退者、異端者、傍流の成功事例、それとは真逆の、中途半端な成功者、人生のグレイ的成功者、極端ながら、「あの時、もし、ああしていたならば!」と述懐する、軽い後悔に念にとらわれる者は、“人生とは、浮(ふ)汎(はん)なる仕事である”ということに覚醒したのが、人生後半になって気づいた人間でもある。
中退者とは、少年期、青年期に、人生とは、<浮汎なる仕事>か、<厳粛なる趣味>かに天秤を掛けた時、後者に賭ける種族なのである。この生き様は、東大総長大河内一男の「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という、東京オリンピックが開催された1964年の卒業式の弁でもあり、スタンフォード大学での2005年の卒業式の余りに有名なスティーブ・ジョブスの「Stay foolish Stay hungry」とも一脈通じるものがある。そのアウトロー的人生、アカデミックなる草莽の精神への訓戒でもある。
中退者というものは、少々古い謂いでもあるが、実存主義者でもあるということである。高校の倫理などで当然学ぶ、あのサルトルの有名な二つの名言「実存は本質に先立つ」{=学び歴は学歴に先立つ}・「人間はみずからつくるところのもの」{=独創とは、学問のみならず人生にも言い得ることである}を知りながら、それを実行に移す高校生が、大学生が如何に少ないか、とりわけ、令和のZ世代とされる連中には、中退や浪人といった、ある意味“異端者根性”が希薄になってきていることは、この平成不況と少子化といったものが、ますますそうした蛮勇という人生行路を、超マイナー派へと追いやってもいる。少々蛇足ながら単純軽快なる例を持ち出せば、坂本龍馬の脱藩、これぞ、学校中退の模範的先達でもある。この雄姿に、『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)の読者が最も惹かれるのである。(つづく)