コラム
私の高校中退は"明治維新"のようなもの
これまで長々と、中退という語の周辺を語ってもきたわけですが、岡目八目といいますが、「じゃあ、わかった、お前の中退というものは、一体どういうものなんだ?どういう動機で中退したんだ?」というご質問が出ないわけでもありませんが、その個人的理由とやらを語ってみたいと思います。
その深層はもちろん、中層部分すら言及することは、このコラム欄では、語り切れませんし、また、語るとなると、一種、短編小説の赴きを呈するエッセイ風のものにならざるを得ないので、表面的に、そのさわり的動機について申し上げるとしましょう。
私の家庭は、東京下町で、祖父が大正時代に和菓子屋を始め、父が、戦後パン製造小売業と洋菓子製造販売を手掛けるまでなった中小企業であります。そこに、お見合いで宮城県の石巻から母が嫁いでもきた環境の中で、私は、育ってもゆき、将来的には、その三代目を継ぐ家の長男でもありました。ここからの事情、家庭環境は、詳細に述べたいところですが、割愛させていただきます。
ちょうど、高校1年生の一学期のことです、両親が離婚する羽目となりました。6月初旬頃だったと記憶しています。両家の親族が、1カ月、離婚調停などをする、ごたごたの中に立たされました。どちらに就くか、悩みました、いや、6対4、7対3の正邪の自己判定で、母方につく決意をしました。こうなると、東京の父がいる自宅ではなく、母の出戻った、実家のある石巻に私も同行せざるを得ない、そうなれば、東京の高校を中退して、石巻の高校へ行くことになる。当時の私は、母同様に、転校という選択肢など脳裏になく、フライング同然で、東京の高校を自主退学すれば、あとはどうにかなるだろうくらいの、軽い、ある意味で軽率な気持ちで、母と退学願いを出し、石巻に引き込みました、勉学的“下野”でもあります。その後、地元の県立石巻高校へ、転校する手続きをしにいったのですが、これが門前払い、つまり、東京の高校で何か問題でも起こして、こちらに来たのだろう、そういったゲスの勘繰りで見られてもいたのでしょう。当然です。公的手続きが、正規に踏んでもいなかったことが、最大の原因でもあったのでありましょう。実は、東京の高校を、辞める時、実は、中学浪人もあるやもしれないな?といったかすかな懸念覚悟での中退でもありました。私の生来の気質、よく言えば楽天的、悪くいえば、少々、ドン・キホーテ的“おめでたい人”でもあったのであろうかと思います。
その動機とやらは、家庭上の理由などは、脇に置くとして、勉学上、将来的、そして、自照面での、考慮といった動機とやらをあげてみたいと思います。
私は、理系人間でありました。具体的には、試験における点数を言えば、数学は常に90点台、英語も90点前後、理科は、80点後半、社会は、歴史や地理など若干は興味もあり、80点台は維持していました。国語は、常に、50点台、60点台を取ろうものなら、超ウキウキ気分で、やった!と自己満足するような生徒でありました。それもそのはず、生まれてから、高校1年になるまで、漫画以外、活字の本は、全く読まない、国語嫌い、漢字も苦手なタイプでした。そいう意味あいもあり、中3の頃は、将来、医師にでもなるか、パン屋を継がずに!そう漠然と考えてもいました。中学から、少々勉強もできるようになり{※小学校5年生から1年習った算盤が画期的でした!}、父親も将来、我が息子を、3代目の菓子職人にはと、思わなくなってもきていた、その矢先の離婚です。当然、国公立などの医学部は、無理で、私立の医学部なら、その費用を工面してもやろう、そういった、家庭内の、私の将来設計風向きが変わり始めた頃でもあります。
墨田区立錦糸中学校{※その当時越境入学してくる下町の“麹町中学校”のような存在でした}から、私立の進学校へ進んだ矢先、高校の授業やその科目というものが、難しくなってきた、得意の数学も、何か壁にぶつかったな!という気配、また、英語にしても、学力評定試験を4月に行った時点でも、自身より、点数がいい、つまり、できる奴がわんさかといる。それもそのはず、高校1年の一学期から、お茶の水の駿台予備校の高校クラスに通っている者がぞろぞろいるという実体にも気づき始めていた。できる奴は、手回しが早いもんだ!と惨敗感が湧きあがってきていた。それもそのはず、その私立校は、都立{日比谷など}や県立{千葉など}のナンバー校の不合格者がわんさかとクラスにいる進学校でもあった。彼らは、当然、国語も私より、上位にいた、国語なんぞは、はなから捨て科目、眼中にもない教科だった、当然ながら、中一からの苦手でもあったから、彼らに勝てるはずもない。私は、数英理社以外、国語や音楽・美術・体育などが悪く、5段階評定で、内申点を引っ張ってもいたので、最初から公立高校など視野にもなく、あきらめて受験しなかった経緯がある。
高校1年を2カ月ほどすぎ、自慢だった数学にも限界のような気配を感じ、英語も周囲には、受験テンションの高い奴らがいること、それに、これから、理科も化学や物理など難しくなると、何となく感じもしていた。社会は、高一で、地理の科目があったが、面白くもなく、ある意味、高校生活の勉学上の限界、壁のようなものを感じ始めてもいた矢先、両親の離婚という現実が私の前に立ちはだかった。そこでの選択である。
このまま、東京にいて、経済的には、何不自由なく、東京の私立の高校へ通えばいい、そういう生活、いや、人生というのものが、どこか、生温い、何の変化もない、勉学上は、じり貧になってもゆく、また、離婚したという、個人商店の暖簾に傷がついたパン・洋菓子店の三代目の父子家庭の倅として、これから生き続ける人生といったものに、漠然とした不安、暗澹とした将来像しか思い描けなくなってもいた。一方、母方について、石巻での母子家庭で、見ず知らぬ土地や全く知らな人ばかりが多い、友人もいない、これからの人生というもの、それには、漠然とはしているが、渺茫とした希望のようなもの、しかし、光は見えない、そうした暗雲たる空模様にも似た将来像を感じてもいた。来月、再来月と毎月1000円のお小遣いをあげるという生活か、一年後30000円もらえるか、0円か、そうした選択肢を17才で迫られてもいる状況でもあったにやに思う。
17才の人生の分岐点の選択とは、丁度、幕末、佐幕派が、将軍慶喜を中心とした諸藩の大名からなる公儀政体を確立するか、薩長を中心として、天皇を頂く君主国へ変革するか、その葛藤ともいいうるのが、私の高校中退の心境ともいっていいかと思う。約600年以上続いてきた武士社会をガラガラポンするか、それとも、封建主義の残滓を残しながらも従来の社会システムを維持していくのか、その胸突き八丁を迫られたのが、私の高校1年での、両親の離婚がトリガーともなった、高校中退である。両親の離婚というものは、黒船のペリーの来航にも該当するといえよう。これなかりせば、今の自分はないともえる。違った自分になっていて、現在このコラムを書くこともなければ、塾を経営していることもなかったであろう。それが、正解であったは、棺桶のふたを閉じたときにしかわからない。この人生の分岐点でも、判断、迷った時は、狭き門を選べ、困難な道を選べ、それを恐らく本能的にしていたやも知れない。実は、この私の気質は、どうも、その後にも、我が人生で、2度ほど繰り返すことにもなる。
一つは、大学2年次に進む際の、英文科か仏文科の、選択肢である。もう一つは、セブン&アイホールディングズの会社員の生活か、それとも脱サラしてフランス文学の研究者としてしての道か、それも、私の高校中退の淵源ともなる、自身の気質があったように思われる。それを次回に語ってみたい。(つづく)
その深層はもちろん、中層部分すら言及することは、このコラム欄では、語り切れませんし、また、語るとなると、一種、短編小説の赴きを呈するエッセイ風のものにならざるを得ないので、表面的に、そのさわり的動機について申し上げるとしましょう。
私の家庭は、東京下町で、祖父が大正時代に和菓子屋を始め、父が、戦後パン製造小売業と洋菓子製造販売を手掛けるまでなった中小企業であります。そこに、お見合いで宮城県の石巻から母が嫁いでもきた環境の中で、私は、育ってもゆき、将来的には、その三代目を継ぐ家の長男でもありました。ここからの事情、家庭環境は、詳細に述べたいところですが、割愛させていただきます。
ちょうど、高校1年生の一学期のことです、両親が離婚する羽目となりました。6月初旬頃だったと記憶しています。両家の親族が、1カ月、離婚調停などをする、ごたごたの中に立たされました。どちらに就くか、悩みました、いや、6対4、7対3の正邪の自己判定で、母方につく決意をしました。こうなると、東京の父がいる自宅ではなく、母の出戻った、実家のある石巻に私も同行せざるを得ない、そうなれば、東京の高校を中退して、石巻の高校へ行くことになる。当時の私は、母同様に、転校という選択肢など脳裏になく、フライング同然で、東京の高校を自主退学すれば、あとはどうにかなるだろうくらいの、軽い、ある意味で軽率な気持ちで、母と退学願いを出し、石巻に引き込みました、勉学的“下野”でもあります。その後、地元の県立石巻高校へ、転校する手続きをしにいったのですが、これが門前払い、つまり、東京の高校で何か問題でも起こして、こちらに来たのだろう、そういったゲスの勘繰りで見られてもいたのでしょう。当然です。公的手続きが、正規に踏んでもいなかったことが、最大の原因でもあったのでありましょう。実は、東京の高校を、辞める時、実は、中学浪人もあるやもしれないな?といったかすかな懸念覚悟での中退でもありました。私の生来の気質、よく言えば楽天的、悪くいえば、少々、ドン・キホーテ的“おめでたい人”でもあったのであろうかと思います。
その動機とやらは、家庭上の理由などは、脇に置くとして、勉学上、将来的、そして、自照面での、考慮といった動機とやらをあげてみたいと思います。
私は、理系人間でありました。具体的には、試験における点数を言えば、数学は常に90点台、英語も90点前後、理科は、80点後半、社会は、歴史や地理など若干は興味もあり、80点台は維持していました。国語は、常に、50点台、60点台を取ろうものなら、超ウキウキ気分で、やった!と自己満足するような生徒でありました。それもそのはず、生まれてから、高校1年になるまで、漫画以外、活字の本は、全く読まない、国語嫌い、漢字も苦手なタイプでした。そいう意味あいもあり、中3の頃は、将来、医師にでもなるか、パン屋を継がずに!そう漠然と考えてもいました。中学から、少々勉強もできるようになり{※小学校5年生から1年習った算盤が画期的でした!}、父親も将来、我が息子を、3代目の菓子職人にはと、思わなくなってもきていた、その矢先の離婚です。当然、国公立などの医学部は、無理で、私立の医学部なら、その費用を工面してもやろう、そういった、家庭内の、私の将来設計風向きが変わり始めた頃でもあります。
墨田区立錦糸中学校{※その当時越境入学してくる下町の“麹町中学校”のような存在でした}から、私立の進学校へ進んだ矢先、高校の授業やその科目というものが、難しくなってきた、得意の数学も、何か壁にぶつかったな!という気配、また、英語にしても、学力評定試験を4月に行った時点でも、自身より、点数がいい、つまり、できる奴がわんさかといる。それもそのはず、高校1年の一学期から、お茶の水の駿台予備校の高校クラスに通っている者がぞろぞろいるという実体にも気づき始めていた。できる奴は、手回しが早いもんだ!と惨敗感が湧きあがってきていた。それもそのはず、その私立校は、都立{日比谷など}や県立{千葉など}のナンバー校の不合格者がわんさかとクラスにいる進学校でもあった。彼らは、当然、国語も私より、上位にいた、国語なんぞは、はなから捨て科目、眼中にもない教科だった、当然ながら、中一からの苦手でもあったから、彼らに勝てるはずもない。私は、数英理社以外、国語や音楽・美術・体育などが悪く、5段階評定で、内申点を引っ張ってもいたので、最初から公立高校など視野にもなく、あきらめて受験しなかった経緯がある。
高校1年を2カ月ほどすぎ、自慢だった数学にも限界のような気配を感じ、英語も周囲には、受験テンションの高い奴らがいること、それに、これから、理科も化学や物理など難しくなると、何となく感じもしていた。社会は、高一で、地理の科目があったが、面白くもなく、ある意味、高校生活の勉学上の限界、壁のようなものを感じ始めてもいた矢先、両親の離婚という現実が私の前に立ちはだかった。そこでの選択である。
このまま、東京にいて、経済的には、何不自由なく、東京の私立の高校へ通えばいい、そういう生活、いや、人生というのものが、どこか、生温い、何の変化もない、勉学上は、じり貧になってもゆく、また、離婚したという、個人商店の暖簾に傷がついたパン・洋菓子店の三代目の父子家庭の倅として、これから生き続ける人生といったものに、漠然とした不安、暗澹とした将来像しか思い描けなくなってもいた。一方、母方について、石巻での母子家庭で、見ず知らぬ土地や全く知らな人ばかりが多い、友人もいない、これからの人生というもの、それには、漠然とはしているが、渺茫とした希望のようなもの、しかし、光は見えない、そうした暗雲たる空模様にも似た将来像を感じてもいた。来月、再来月と毎月1000円のお小遣いをあげるという生活か、一年後30000円もらえるか、0円か、そうした選択肢を17才で迫られてもいる状況でもあったにやに思う。
17才の人生の分岐点の選択とは、丁度、幕末、佐幕派が、将軍慶喜を中心とした諸藩の大名からなる公儀政体を確立するか、薩長を中心として、天皇を頂く君主国へ変革するか、その葛藤ともいいうるのが、私の高校中退の心境ともいっていいかと思う。約600年以上続いてきた武士社会をガラガラポンするか、それとも、封建主義の残滓を残しながらも従来の社会システムを維持していくのか、その胸突き八丁を迫られたのが、私の高校1年での、両親の離婚がトリガーともなった、高校中退である。両親の離婚というものは、黒船のペリーの来航にも該当するといえよう。これなかりせば、今の自分はないともえる。違った自分になっていて、現在このコラムを書くこともなければ、塾を経営していることもなかったであろう。それが、正解であったは、棺桶のふたを閉じたときにしかわからない。この人生の分岐点でも、判断、迷った時は、狭き門を選べ、困難な道を選べ、それを恐らく本能的にしていたやも知れない。実は、この私の気質は、どうも、その後にも、我が人生で、2度ほど繰り返すことにもなる。
一つは、大学2年次に進む際の、英文科か仏文科の、選択肢である。もう一つは、セブン&アイホールディングズの会社員の生活か、それとも脱サラしてフランス文学の研究者としてしての道か、それも、私の高校中退の淵源ともなる、自身の気質があったように思われる。それを次回に語ってみたい。(つづく)