コラム
病床の母の枕元では数学は手につかない
病弱な母を持つ少年、母子家庭である。その息子は、理系が得意な中三生でもある。将来、医師になり、我が母を健康にしてやろうと、強い意志を有し、特に、数学に日々励んでもいる。しかし、その母がある日、入院し、重篤な状態ともなり、毎日、放課後母のいる病院で、遅くまで、母の傍らのテーブルで、学校の科目の勉強をする。その心理たるや、だん問題を解く意志、気力、関心が薄らいでもゆく、その問題に集中できない、「もし母が死んだら、この状況がいつまでも続くとしたら、と、僕の将来はどうなってしまうのだろうか?」と、苦悶する日々へと変貌する。学校の数学の教科書は勿論、他の教科の英語や理科、社会なども、まったく意識外の状況に置かれることは、想像に難くないであろう。病で苦しむ母親の脇で、数学という、一種、集中力を要する世界に没入することは、困難である。雑念が入る、妄念が邪魔をする。今自身の置かれている状況、そして、将来への展望といったもの、それだけが、気になって気になった仕方がない。しかし、その少年は、学校の教科は一切頭には入ってはこないものの、自身の、思春期の悩み、苦悩を癒やしてくれる、かき消してもくれる、文学、ちょっとした哲学というものに、食指が伸びることは、容易に想像がつく。想像できない人がいれば、それは、幸福のみの人生行路を歩んできた“おめでたき部族”でもあろう。この、真実は、あのゲーテの言葉、「人生の味は、パンを涙で飲み込んだ者しかわからない」というものに集約さてもいよう。
この病弱の母と、お勉強が少々できる少年の関係は、まさしく、両親が離婚し、その心の傷に苦悶している母親と、私の関係でもあったように思われる。
石巻での、中学浪人時代が、まさしく、この少年の心境でもあった。16才が、人生最高の数学的勉学への意欲マックスの時(ピーク)、17才をほぼ宅浪生で、伯父宅で居候の身として過ごす最中に、特に、小説を読みはじめてもゆく心的態度とやらに傾いてもいった。数学には、はっきりとした、数字による正解というものがあり、その、正解というものが、“幸せなる”環境の中では、まるでゲーム感覚で面白い、やる気も湧いてきた。この文脈でいえば、大学に理系に進む者は、ある意味、“人生上の悩みなき人”でもあるともいいうる。彼らは、人生上の、学校内、家庭内の不如意というものが存在せず、ただ、正解の典型、数学や物理、化学といったお勉強にまい進すれば足りるのである。勉強を邪魔する要素がない、幸福族である。もちろん、本人の理系資質は撥ねるとして、能力面(学校の授業や先生、塾が合わないといった面)で、理系を離れてもゆく種族もあると思われるが、そうしたタイプは、この文脈では除外する。
こうした事例は、特に文学者、とりわけ、詩人に見かけられる。中原中也・佐藤春夫・萩原朔太郎{この三人は医師の家系である}、フランスの詩人ランボーなど、彼らは、旧制中学の半ば、今でいう中学3年くらいまで、勉強のできる神童でもあった。それが、それ以降、文学や何やらに目覚めると学業が下がりはじめ、落ちこぼれの問題児、精神的不良児へと変貌する事例は余りに有名である。この点で、一番わかりやすい例は、伝説の歌手尾崎豊でもあろう。彼は、勉学優秀で、青山学院高等部へと進む。しかし、様々な理由もあり、高校を中退し、ミュージシャンの道へ踏み入る。勿論、彼の来歴は、有名すぎて、ここでは、割愛して、敢えて触れない。もし、彼に天性の歌唱力と音楽の素養(楽器が弾けるなど)がなかりせば、若くして芥川賞受賞の俊英となっていたやに思われる。その文脈でも、芥川賞作家柳美里の、横浜共立学園中退から、劇団を経て、中堅作家となった人生のルートは納得できもしょう。
これも京都人文研の桑原武夫が語ってもいたことだが、「戦時下のゼロ戦などの特攻隊員は、死を目前にして、宗教書や哲学書ではなく、吉川英治の『宮本武蔵』に、自身の風波の立つ心境に、癒し、平静さ、救いといったものを求めていた」といった鋭い指摘も、病床の母の枕頭にいる勉強好きの少年にも敷衍できる真実ではないかと思う。
自身の先が見えない運命の中、解けた、不正解だった、解けない、そういった単純明快な結果が待ちうけている数学や理科といった世界、計算がともなう理系科目への虚しさ、やりがいの衰え、そういった暗雲が立ち込めるのと反比例して、文系科目、いや、文学という世界、人間の、ある意味宇宙以上に、答えのない、謎の心の内面への関心が湧き始めてきた、また、それへの“正解”を出そうともがき始めたのが、中学浪人時代の私である。
具体的には、川端康成や太宰治である。東京の高校時代に、配布された国語便覧が、大きなきっかけともなった。その簡略な評伝を読むと、父、母、姉、そして、16歳で唯一の身内の祖父まで失う、天涯孤独となった文豪の少年期、ああ、私より不幸なる青年がいたのか!また、青春時代から、人生で4度も自殺未遂をした作家、どういう人生だったのだろか?こうした小説家に、自身の不幸以上のものをダブらせ、それを作品・名作として昇華した芸術家という部族に惹かれてもいった。ボードレール風に言えば、自身の人生上の不如意、いわゆる、《悪》というものを、名作という古典ともいえる芸術という《華》にしていった文学者の人生というものに、17才の不遇の環境を何とかしたい葛藤のようなもの、そのレールから外れた人生に反抗する、いや、落とし前をつけてやりたい、また、それを何か、自身のプラスに転化できはしないか?そうした人生の精神的不具といったものへの復讐心ともいうようなマグマが沸々と湧き上がってもきていた。当然、その後、高校一年からは、理系科目は下降線を辿ることにもなる。一方、文学に癒しを求め始めた少年は、文学青年へと脱皮しかけてもいた。
少年少女時代に、交通事故や病などで、脚や片腕など不自由な身となり、その後、パラリンピックで、なにくそ根性の末、金メダリストとなったアスリートの精神遍歴、また、明治維新後、武士の身分を奪われながらも、北海道の屯田兵として北の大地を耕してもいった元会津藩の武士の心境、こうした者たちの、人生のコペルニクス的転換といったものは、異端者の一系譜として、一種、《疎外者》にとっての忘れてはならない人生の導(しるべ)にして海図(チャート)でもあろうか。
この病弱の母と、お勉強が少々できる少年の関係は、まさしく、両親が離婚し、その心の傷に苦悶している母親と、私の関係でもあったように思われる。
石巻での、中学浪人時代が、まさしく、この少年の心境でもあった。16才が、人生最高の数学的勉学への意欲マックスの時(ピーク)、17才をほぼ宅浪生で、伯父宅で居候の身として過ごす最中に、特に、小説を読みはじめてもゆく心的態度とやらに傾いてもいった。数学には、はっきりとした、数字による正解というものがあり、その、正解というものが、“幸せなる”環境の中では、まるでゲーム感覚で面白い、やる気も湧いてきた。この文脈でいえば、大学に理系に進む者は、ある意味、“人生上の悩みなき人”でもあるともいいうる。彼らは、人生上の、学校内、家庭内の不如意というものが存在せず、ただ、正解の典型、数学や物理、化学といったお勉強にまい進すれば足りるのである。勉強を邪魔する要素がない、幸福族である。もちろん、本人の理系資質は撥ねるとして、能力面(学校の授業や先生、塾が合わないといった面)で、理系を離れてもゆく種族もあると思われるが、そうしたタイプは、この文脈では除外する。
こうした事例は、特に文学者、とりわけ、詩人に見かけられる。中原中也・佐藤春夫・萩原朔太郎{この三人は医師の家系である}、フランスの詩人ランボーなど、彼らは、旧制中学の半ば、今でいう中学3年くらいまで、勉強のできる神童でもあった。それが、それ以降、文学や何やらに目覚めると学業が下がりはじめ、落ちこぼれの問題児、精神的不良児へと変貌する事例は余りに有名である。この点で、一番わかりやすい例は、伝説の歌手尾崎豊でもあろう。彼は、勉学優秀で、青山学院高等部へと進む。しかし、様々な理由もあり、高校を中退し、ミュージシャンの道へ踏み入る。勿論、彼の来歴は、有名すぎて、ここでは、割愛して、敢えて触れない。もし、彼に天性の歌唱力と音楽の素養(楽器が弾けるなど)がなかりせば、若くして芥川賞受賞の俊英となっていたやに思われる。その文脈でも、芥川賞作家柳美里の、横浜共立学園中退から、劇団を経て、中堅作家となった人生のルートは納得できもしょう。
これも京都人文研の桑原武夫が語ってもいたことだが、「戦時下のゼロ戦などの特攻隊員は、死を目前にして、宗教書や哲学書ではなく、吉川英治の『宮本武蔵』に、自身の風波の立つ心境に、癒し、平静さ、救いといったものを求めていた」といった鋭い指摘も、病床の母の枕頭にいる勉強好きの少年にも敷衍できる真実ではないかと思う。
自身の先が見えない運命の中、解けた、不正解だった、解けない、そういった単純明快な結果が待ちうけている数学や理科といった世界、計算がともなう理系科目への虚しさ、やりがいの衰え、そういった暗雲が立ち込めるのと反比例して、文系科目、いや、文学という世界、人間の、ある意味宇宙以上に、答えのない、謎の心の内面への関心が湧き始めてきた、また、それへの“正解”を出そうともがき始めたのが、中学浪人時代の私である。
具体的には、川端康成や太宰治である。東京の高校時代に、配布された国語便覧が、大きなきっかけともなった。その簡略な評伝を読むと、父、母、姉、そして、16歳で唯一の身内の祖父まで失う、天涯孤独となった文豪の少年期、ああ、私より不幸なる青年がいたのか!また、青春時代から、人生で4度も自殺未遂をした作家、どういう人生だったのだろか?こうした小説家に、自身の不幸以上のものをダブらせ、それを作品・名作として昇華した芸術家という部族に惹かれてもいった。ボードレール風に言えば、自身の人生上の不如意、いわゆる、《悪》というものを、名作という古典ともいえる芸術という《華》にしていった文学者の人生というものに、17才の不遇の環境を何とかしたい葛藤のようなもの、そのレールから外れた人生に反抗する、いや、落とし前をつけてやりたい、また、それを何か、自身のプラスに転化できはしないか?そうした人生の精神的不具といったものへの復讐心ともいうようなマグマが沸々と湧き上がってもきていた。当然、その後、高校一年からは、理系科目は下降線を辿ることにもなる。一方、文学に癒しを求め始めた少年は、文学青年へと脱皮しかけてもいた。
少年少女時代に、交通事故や病などで、脚や片腕など不自由な身となり、その後、パラリンピックで、なにくそ根性の末、金メダリストとなったアスリートの精神遍歴、また、明治維新後、武士の身分を奪われながらも、北海道の屯田兵として北の大地を耕してもいった元会津藩の武士の心境、こうした者たちの、人生のコペルニクス的転換といったものは、異端者の一系譜として、一種、《疎外者》にとっての忘れてはならない人生の導(しるべ)にして海図(チャート)でもあろうか。