コラム
三島由紀夫の筋トレと私の読書
三島由紀夫、彼は、完璧を求めた。30代までは、青白き秀才、早熟の天才として名を馳せた。しかし、唯一、自身の欠点、コンプレックスは、自らの肉体にあった。恐らく、ギリシャ彫刻の、その肉体美であろう、また、武士の系統に由来する武道といったものへの憧憬もあったであろう、自宅の建築にも随所に散見される物質的様式美とやらを追い求めた後半生でもあった。三島の写真のほとんどは、この後半生のイメージが付きまとう。
30代で肉体改造を始めた当時、ベンチプレス10キロも持ちえ上げられなかったという。虚弱体質でもあったという。有名な、十代は、徴兵検査で、不合格(?)の判定のため、友人たちと、太平洋戦争へ赴くことが叶わなかった。こうした、身体上の劣等感といったものが、自身の文才と、余りに対照的なものとして、克服すべき対象として、自身の内面に湧き上がってもきたというのは当然といえば、必然の帰結ともいえよう。それが、身辺、時代、国家へと遡及するに従い、自衛隊体験入隊、盾の会の設立へと彼を誘ってもいった。
ここにいう、コンプレックスが強い人間であればあるほど、プライドが高いという、人性論的定理を逆転換すれば、優越感のかたまりの人間であればあるほど、自身の欠点、つまり、コンプレックスを克服したい、解消したい、許しがたい、そうした妄念にとらわれるものである。前者の例は、豊臣秀吉であり、田中角栄でもあろうか?秀吉は、美的価値観で、利休には叶わぬと気づき、彼に切腹を命じたとする説もある。天下統一をしたものの、明朝皇帝への劣等感(?)から、朝鮮出兵を命じたともされる。秀吉が、天下を取るまでは素晴らしいとされる最大の理由である。一方、田中は、学閥なし、閨閥なし、ないもの尽くしながら、自身の知能(IQ)と人たらし(EQ)で、総理大臣にまで昇りつめるが、「細い弊の上をよろよろ歩く危うさ」(吉田茂評)でもあろうか、立花隆(金権政治)と堀田力(ロッキード事件)により、足元をすくわれた。秀吉にしろ、角栄にしろ、時のヒーローは晩節を汚した。百姓上がり、尋常小学校出身、太閤、今太閤、類似している点でもある。
三島は、超近眼で、低身長、虚弱な肉体、これらが、唯一のコンプレクスであったともいう。その克服可能な領域として、自身の肉体改造を、文名の極みに登り詰めた段階で、文壇の寵児として、意識し始めたともいう。ボディービル、剣道や空手への精進である。晩年の三島は、こうした筋骨たくましい肉体美を披露し、『薔薇刑』などの写真集まで出すにいたる。また、剣道着姿や空手着姿の写真もとみに有名である。
しかし、彼の身近にいた人々は、異口同音に、彼のそうした肉体的修行、鍛錬といったものに冷笑的な発言をする者が少なくない。
三島に愛された美輪明宏などは、「あの三島さんの、見た目の筋肉美は、意外にも、張り子の虎みたいで、見た目ほど、強くなかったのよ」と皮肉まじりに証言もしている。また、ある武道家は、「三島さんの剣道は、有段者でも、実践には弱く、たいした実力者ではなかったよ」などとも証言している。更に、「三島さんの、プールで泳いでいる姿を見ましたが、フォームはいいだけど、まったく進まない、スピードがない、筋骨逞しい肉体なんですけど、運動音痴丸出しだったよ」とまで語っているのを、某テレビ番組で証言しているのを観たことがある。東京オリンピックにまで出場したスイマーの弁である。つまり、三島には、天来の運動神経のなさ、肉体の貧弱さ(体幹の脆弱性)、そうしたものを、内面では無理でも、外見上で、いかに解消、克服するか、それが、文壇界以外での、課題、命題でもあったのだろう。
この三島とは、対照的な事例が、名監督でならし、恐らく、元アスリートで最も多くの本を出した野村克也でもあろう。彼は、南海時代、監督(プレーイング)兼任(マネー)選手(ジャー)として活躍し、終生愛した沙知代夫人と出会った頃、練習や技能といた面以外で、さらに伸びしろのある精神面、つまり、アスリートにおける精神面の領域に気づかされたことと真逆でもあろう。まるで、吉川英治の宮本武蔵が、姫路城の座敷牢での数年間で、書物により、荒くれ者の武蔵(たけぞう)から求道者の武蔵(むさし)へと変貌した経緯と似てもいる。この点で、野球というスポーツ、プレイでは、勝てなかった長嶋や王に、監督時代、また、その野球理論で克つ、凌駕することにもなる。そこには、文化人草柳大蔵という知識人がいた。丁度、戦国大名今川義元における雪斎のような策士的存在でもある。自身の野球というものの領域の周辺に広がる、あらゆるスポーツから教育、そしてビジネスにまで遡及する真理を吸収し、見出だすのである。これは、武から文への大転換でもある。一方、三島は、文から武へそれを行使して、恐らくは、晩年の悲劇へレールを敷いてしまった。
ここで、レーダーチャート図における様々な要素における、肉体、運動、武道などの自身の唯一の欠点、低得点事項、それを、無理やり(才能がないなりの必死の努力)伸ばそうとした三島の試みといったものは、私自身の、国語という科目にダブって見えて仕方がないのである。
私自身の、国語の点数という、見た目ではっきりとわかる弱点、コンプレックスを何が何でも、克服したい、得意にしたい欲望{ある意味、見栄っ張り根性}に駆り立てられ、自身の環境の大変化も加味して、私を、活字の世界、そして、言葉というものへの自覚、そして、文章という形式美への覚醒、最終的に、小説という世界へ、結果的に、国語が少々ましになるのではないかといった幻想まがいの“夢”、そういった淡い現実的希望もない混ぜとなり、本という世界に、17才の夏から、それは、夏への扉と同時に、文学への扉というものを開いてゆくのである。
次回に、詳細に語るが、私の国語、私の読書というものは、まさしく、文豪三島由紀夫の筋トレ、武道への鍛錬と似たものがあったとだけは述べておくことにしよう。
ここで、断ってもおくが、読書という活字の世界といったものは、何も、好きで、好きで堪らず本を読み始めた者だけが住まうのが本道である。そうした、部族が、書店や図書館の貴族(主役)でもある。
ところが、一方で、まるで、英国のピューリタン革命によって、しぶしぶ新大陸に移民した新教徒のように、嫌いで、嫌いでたまらないながらも、そうせざるを得ない動機、名状しがたい衝動で、読書の世界という未知なる大陸へと踏み入った部族もいるということである。
「恋愛から嫉妬が生まれる。しかし、嫉妬から生まれる恋愛もある。」(三島由紀夫)
30代で肉体改造を始めた当時、ベンチプレス10キロも持ちえ上げられなかったという。虚弱体質でもあったという。有名な、十代は、徴兵検査で、不合格(?)の判定のため、友人たちと、太平洋戦争へ赴くことが叶わなかった。こうした、身体上の劣等感といったものが、自身の文才と、余りに対照的なものとして、克服すべき対象として、自身の内面に湧き上がってもきたというのは当然といえば、必然の帰結ともいえよう。それが、身辺、時代、国家へと遡及するに従い、自衛隊体験入隊、盾の会の設立へと彼を誘ってもいった。
ここにいう、コンプレックスが強い人間であればあるほど、プライドが高いという、人性論的定理を逆転換すれば、優越感のかたまりの人間であればあるほど、自身の欠点、つまり、コンプレックスを克服したい、解消したい、許しがたい、そうした妄念にとらわれるものである。前者の例は、豊臣秀吉であり、田中角栄でもあろうか?秀吉は、美的価値観で、利休には叶わぬと気づき、彼に切腹を命じたとする説もある。天下統一をしたものの、明朝皇帝への劣等感(?)から、朝鮮出兵を命じたともされる。秀吉が、天下を取るまでは素晴らしいとされる最大の理由である。一方、田中は、学閥なし、閨閥なし、ないもの尽くしながら、自身の知能(IQ)と人たらし(EQ)で、総理大臣にまで昇りつめるが、「細い弊の上をよろよろ歩く危うさ」(吉田茂評)でもあろうか、立花隆(金権政治)と堀田力(ロッキード事件)により、足元をすくわれた。秀吉にしろ、角栄にしろ、時のヒーローは晩節を汚した。百姓上がり、尋常小学校出身、太閤、今太閤、類似している点でもある。
三島は、超近眼で、低身長、虚弱な肉体、これらが、唯一のコンプレクスであったともいう。その克服可能な領域として、自身の肉体改造を、文名の極みに登り詰めた段階で、文壇の寵児として、意識し始めたともいう。ボディービル、剣道や空手への精進である。晩年の三島は、こうした筋骨たくましい肉体美を披露し、『薔薇刑』などの写真集まで出すにいたる。また、剣道着姿や空手着姿の写真もとみに有名である。
しかし、彼の身近にいた人々は、異口同音に、彼のそうした肉体的修行、鍛錬といったものに冷笑的な発言をする者が少なくない。
三島に愛された美輪明宏などは、「あの三島さんの、見た目の筋肉美は、意外にも、張り子の虎みたいで、見た目ほど、強くなかったのよ」と皮肉まじりに証言もしている。また、ある武道家は、「三島さんの剣道は、有段者でも、実践には弱く、たいした実力者ではなかったよ」などとも証言している。更に、「三島さんの、プールで泳いでいる姿を見ましたが、フォームはいいだけど、まったく進まない、スピードがない、筋骨逞しい肉体なんですけど、運動音痴丸出しだったよ」とまで語っているのを、某テレビ番組で証言しているのを観たことがある。東京オリンピックにまで出場したスイマーの弁である。つまり、三島には、天来の運動神経のなさ、肉体の貧弱さ(体幹の脆弱性)、そうしたものを、内面では無理でも、外見上で、いかに解消、克服するか、それが、文壇界以外での、課題、命題でもあったのだろう。
この三島とは、対照的な事例が、名監督でならし、恐らく、元アスリートで最も多くの本を出した野村克也でもあろう。彼は、南海時代、監督(プレーイング)兼任(マネー)選手(ジャー)として活躍し、終生愛した沙知代夫人と出会った頃、練習や技能といた面以外で、さらに伸びしろのある精神面、つまり、アスリートにおける精神面の領域に気づかされたことと真逆でもあろう。まるで、吉川英治の宮本武蔵が、姫路城の座敷牢での数年間で、書物により、荒くれ者の武蔵(たけぞう)から求道者の武蔵(むさし)へと変貌した経緯と似てもいる。この点で、野球というスポーツ、プレイでは、勝てなかった長嶋や王に、監督時代、また、その野球理論で克つ、凌駕することにもなる。そこには、文化人草柳大蔵という知識人がいた。丁度、戦国大名今川義元における雪斎のような策士的存在でもある。自身の野球というものの領域の周辺に広がる、あらゆるスポーツから教育、そしてビジネスにまで遡及する真理を吸収し、見出だすのである。これは、武から文への大転換でもある。一方、三島は、文から武へそれを行使して、恐らくは、晩年の悲劇へレールを敷いてしまった。
ここで、レーダーチャート図における様々な要素における、肉体、運動、武道などの自身の唯一の欠点、低得点事項、それを、無理やり(才能がないなりの必死の努力)伸ばそうとした三島の試みといったものは、私自身の、国語という科目にダブって見えて仕方がないのである。
私自身の、国語の点数という、見た目ではっきりとわかる弱点、コンプレックスを何が何でも、克服したい、得意にしたい欲望{ある意味、見栄っ張り根性}に駆り立てられ、自身の環境の大変化も加味して、私を、活字の世界、そして、言葉というものへの自覚、そして、文章という形式美への覚醒、最終的に、小説という世界へ、結果的に、国語が少々ましになるのではないかといった幻想まがいの“夢”、そういった淡い現実的希望もない混ぜとなり、本という世界に、17才の夏から、それは、夏への扉と同時に、文学への扉というものを開いてゆくのである。
次回に、詳細に語るが、私の国語、私の読書というものは、まさしく、文豪三島由紀夫の筋トレ、武道への鍛錬と似たものがあったとだけは述べておくことにしよう。
ここで、断ってもおくが、読書という活字の世界といったものは、何も、好きで、好きで堪らず本を読み始めた者だけが住まうのが本道である。そうした、部族が、書店や図書館の貴族(主役)でもある。
ところが、一方で、まるで、英国のピューリタン革命によって、しぶしぶ新大陸に移民した新教徒のように、嫌いで、嫌いでたまらないながらも、そうせざるを得ない動機、名状しがたい衝動で、読書の世界という未知なる大陸へと踏み入った部族もいるということである。
「恋愛から嫉妬が生まれる。しかし、嫉妬から生まれる恋愛もある。」(三島由紀夫)