コラム
大学生の知的劣化の近道
日本を代表する社会学者、故・清水幾太郎氏の孫で、明治大学商学部の清水真木教授は、「個人的な意見」とした上で次のような実体験を明かす。
「明治大学もSGU(スーパーグローバル大学)に選ばれていて、それ以前からグローバル化に積極的でした。そのため私の専門である哲学の授業も、英語で行われなければならない日がいずれ来るかもしれないと考え、実験的に半期(半年)だけ、フランス現代思想をテーマにした講義を英語でやってみることにしたんです。授業が英語のみで行われることは学生も承知していましたが、話題が少しでも抽象的なものになった途端、私には学生の顔色が冴えなくなるように見えました。そこで、授業後にある学生に訊いてみたところ、何ひとつ理解できていないようでした」(同)
また、
「私の英語のみを理解できなかった学生に、同じ内容を日本語で解説したこともあったんですが、日本語での授業も『分からなかった』と答えた。そこで私は、至極当然の事実に気が付きました。日本語で分からないことは英語でも分からないと。つまり英語での授業は、日本語での授業よりもレベルを落とさざるを得ないのです。日本語の授業と同じ内容を英語で教えて、学生の理解が増すことはあり得ないわけでからね」(同)
グローバル人材を育てるために講義の質を落とす……。これぞまさに本末転倒である。
以上の引用記事は、『週刊新潮』の2016年4月21日号
~「グローバル教育」を掲げて「東大」世界ランキングを下げた「文科省」の大矛盾~
と題された特集からのものです。
この事例を鑑みると、早稲田大学の国際教養学部における純ジャパの立ち位置が想像できましょう。<早稲田の国際教養>といっても、ほとんどが、日本語の翻訳書で読め、理解できる内容をわざわざ、サウナ風呂に入っているかのように、純ジャパにとっては英語で痩せ我慢的に学ぶといういかに非効率的な方針であることか!「すべての講義を英語で行う」というキャッチフレーズにまやかされ、その知識・思想やら、学問やらを、中途半端に習得する学生が三割前後は少なく見積もって輩出されるという現実に、早稲田の上層部は、まるで文科省の連中が小中高の現場を知らずに、‘英語の授業は英語ですべき論’をまき散らしている愚策と同根のものを感じずにはいられなのです。教育におけるファッショ的グローバル化の負の側面です。
理系の研究者は、ある発見、独創的な説を思いつくとき、ぼーっとした時間、何もしていない時、全く研究とは関係のない作業をしている際、こうした知的余暇に母語(日本語)で無意識に浸っている瞬間に間欠泉のように湧いてくるものであるといいます。
文系の研究とて、文学から思想・哲学に至るまで、母語以上で、深い思索は望めません。海外の文学にしても、哲学にしても、半分以上は、翻訳という日本語に頼り、富士山の五合目まで到達しているものなのです。この点、大正から昭和にかけて岩波文庫がどれほどの知的役割を日本人の学生にしてきてくれたことか!ちょうど、車やバスという交通手段が、翻訳書籍でもあります。この知の五合目からさらに頂上まで進むには、まだ日本人には未知なる領域でもあり、即ち、翻訳という知の交通手段がない場合が多いものです。しかし、我が国は世界一の翻訳大国で、7合目から8合目あたりまで、幸いなるかな、母国語で学べるのです。私流に言わせてもらえば、こうした知の便利なツールがあるにも関わらず、早稲田の国際教養学部では、富士山の一合目から、英語でわざわざてくてく歩いて登頂を目指すという非効率的な暗愚教育を行ってもいると言っても過言ではない。いや、知的領域制覇は4合目からせいぜい5合目までしか行き着けない、無駄な徒労講義を英語で行っているのです。ある意味、純ジャパに該当しますが、<英語優先し、知識・知性・教養教育は二の次>という高等教育の使命の放棄ですらあります。
昔のことであります。知の巨人吉本隆明とフランスの哲学者で世界最高の知性とも呼ばれたM・フーコーの対談集『世界認識の方法』(中公文庫)というものがありました。今は絶版かと思われます。吉本氏は、恐らく、英語や仏語など原書では読めなかったことでしょう。しかし彼は、日本にある哲学や思想系の書籍を余すことなく読破していたものと思われます。日本語で、知の8~9合目に到達していたものと思われます。残りの1~2割は彼自身の知的想像力と創造的感性が埋めていたものと思われます。これこそ日本語思考の面目躍如の側面でもあります。ですから、吉本氏はフーコーに通訳を交えながらも、負けず劣らず知的やりとりができたものと思われます。
ICUや上智といったミッション系大学ならまだしも、リベラルアーツの伝統もありましょうが、たかだか、平成の後半になってまで、‘知の鹿鳴館’というSILSという学部いや“館”をキャンパス内に設けて、それで、日本人の知的エリートを輩出するなどとは、妄想以外のなにものでもないと申し上げておきます。
この『週刊新潮』の記事の表題ではありませんが、グローバルスタンダードに日本の教育を合わせれば合わせるほど、実は、「日本の常識は世界の非常識、世界の非常識は日本の常識」という<非常識の正(※益)の側面>を失うことになるパラドクシカルな真実に気づかない輩が、「英語の授業は英語で行え!」「使える英語だ!話す能力だ!」「TOEFLだ!TOEICだ!」とわめき散らしてもいるのです。この路線が、大学入学共通テストにおける英語民間試験採用という方針に典型的に表れてもいるのです。
但し、現代の大学生は1か月に一冊も本を読まないという傾向からして、英語と“教養”を大学の授業でセットで学べるという安楽さが、一挙両得とも感じられて、授業には無欠席・レポートもしっかり提出、しかし、プライベートでは、一切知的鍛錬、自身を高める読書をせずに‘お利口’になったと錯覚している当世学生気質が透けて見えてくる悲しさも感じずにはいられません。
「明治大学もSGU(スーパーグローバル大学)に選ばれていて、それ以前からグローバル化に積極的でした。そのため私の専門である哲学の授業も、英語で行われなければならない日がいずれ来るかもしれないと考え、実験的に半期(半年)だけ、フランス現代思想をテーマにした講義を英語でやってみることにしたんです。授業が英語のみで行われることは学生も承知していましたが、話題が少しでも抽象的なものになった途端、私には学生の顔色が冴えなくなるように見えました。そこで、授業後にある学生に訊いてみたところ、何ひとつ理解できていないようでした」(同)
また、
「私の英語のみを理解できなかった学生に、同じ内容を日本語で解説したこともあったんですが、日本語での授業も『分からなかった』と答えた。そこで私は、至極当然の事実に気が付きました。日本語で分からないことは英語でも分からないと。つまり英語での授業は、日本語での授業よりもレベルを落とさざるを得ないのです。日本語の授業と同じ内容を英語で教えて、学生の理解が増すことはあり得ないわけでからね」(同)
グローバル人材を育てるために講義の質を落とす……。これぞまさに本末転倒である。
以上の引用記事は、『週刊新潮』の2016年4月21日号
~「グローバル教育」を掲げて「東大」世界ランキングを下げた「文科省」の大矛盾~
と題された特集からのものです。
この事例を鑑みると、早稲田大学の国際教養学部における純ジャパの立ち位置が想像できましょう。<早稲田の国際教養>といっても、ほとんどが、日本語の翻訳書で読め、理解できる内容をわざわざ、サウナ風呂に入っているかのように、純ジャパにとっては英語で痩せ我慢的に学ぶといういかに非効率的な方針であることか!「すべての講義を英語で行う」というキャッチフレーズにまやかされ、その知識・思想やら、学問やらを、中途半端に習得する学生が三割前後は少なく見積もって輩出されるという現実に、早稲田の上層部は、まるで文科省の連中が小中高の現場を知らずに、‘英語の授業は英語ですべき論’をまき散らしている愚策と同根のものを感じずにはいられなのです。教育におけるファッショ的グローバル化の負の側面です。
理系の研究者は、ある発見、独創的な説を思いつくとき、ぼーっとした時間、何もしていない時、全く研究とは関係のない作業をしている際、こうした知的余暇に母語(日本語)で無意識に浸っている瞬間に間欠泉のように湧いてくるものであるといいます。
文系の研究とて、文学から思想・哲学に至るまで、母語以上で、深い思索は望めません。海外の文学にしても、哲学にしても、半分以上は、翻訳という日本語に頼り、富士山の五合目まで到達しているものなのです。この点、大正から昭和にかけて岩波文庫がどれほどの知的役割を日本人の学生にしてきてくれたことか!ちょうど、車やバスという交通手段が、翻訳書籍でもあります。この知の五合目からさらに頂上まで進むには、まだ日本人には未知なる領域でもあり、即ち、翻訳という知の交通手段がない場合が多いものです。しかし、我が国は世界一の翻訳大国で、7合目から8合目あたりまで、幸いなるかな、母国語で学べるのです。私流に言わせてもらえば、こうした知の便利なツールがあるにも関わらず、早稲田の国際教養学部では、富士山の一合目から、英語でわざわざてくてく歩いて登頂を目指すという非効率的な暗愚教育を行ってもいると言っても過言ではない。いや、知的領域制覇は4合目からせいぜい5合目までしか行き着けない、無駄な徒労講義を英語で行っているのです。ある意味、純ジャパに該当しますが、<英語優先し、知識・知性・教養教育は二の次>という高等教育の使命の放棄ですらあります。
昔のことであります。知の巨人吉本隆明とフランスの哲学者で世界最高の知性とも呼ばれたM・フーコーの対談集『世界認識の方法』(中公文庫)というものがありました。今は絶版かと思われます。吉本氏は、恐らく、英語や仏語など原書では読めなかったことでしょう。しかし彼は、日本にある哲学や思想系の書籍を余すことなく読破していたものと思われます。日本語で、知の8~9合目に到達していたものと思われます。残りの1~2割は彼自身の知的想像力と創造的感性が埋めていたものと思われます。これこそ日本語思考の面目躍如の側面でもあります。ですから、吉本氏はフーコーに通訳を交えながらも、負けず劣らず知的やりとりができたものと思われます。
ICUや上智といったミッション系大学ならまだしも、リベラルアーツの伝統もありましょうが、たかだか、平成の後半になってまで、‘知の鹿鳴館’というSILSという学部いや“館”をキャンパス内に設けて、それで、日本人の知的エリートを輩出するなどとは、妄想以外のなにものでもないと申し上げておきます。
この『週刊新潮』の記事の表題ではありませんが、グローバルスタンダードに日本の教育を合わせれば合わせるほど、実は、「日本の常識は世界の非常識、世界の非常識は日本の常識」という<非常識の正(※益)の側面>を失うことになるパラドクシカルな真実に気づかない輩が、「英語の授業は英語で行え!」「使える英語だ!話す能力だ!」「TOEFLだ!TOEICだ!」とわめき散らしてもいるのです。この路線が、大学入学共通テストにおける英語民間試験採用という方針に典型的に表れてもいるのです。
但し、現代の大学生は1か月に一冊も本を読まないという傾向からして、英語と“教養”を大学の授業でセットで学べるという安楽さが、一挙両得とも感じられて、授業には無欠席・レポートもしっかり提出、しかし、プライベートでは、一切知的鍛錬、自身を高める読書をせずに‘お利口’になったと錯覚している当世学生気質が透けて見えてくる悲しさも感じずにはいられません。