コラム

電子辞書支持者への一諫言

 新聞の発行部数{※実は販売数ですが}が激減し、書籍の売り上げも右肩さがり、それに反比例して、スマホの新聞電子記事の購読者数、また、電子書籍の売り上げが急上昇しているかと思いきや、さほどでもない。これは、活字離れが最大の原因でありましょう。少年ジャンプの漫画雑誌も部数を相当減らしている。それに対して、スマホで漫画を読む(見る?)読者数は、値段のせいもあるでしょうが、現状維持、活字は人気なし、劇画(アニメ)は、人気温存、こうした現象から、世の人々の活字業界への立ち位置が分かるというものです。では、電子辞書と紙の辞書との関係は今どうなっているでしょうか?
 中学高校生に日ごろ接していて、感じることは、十数年前、スマホが登場する以前では、「電子辞書はやめなさい」と生徒に注意しても、半数以上は素直に従っていましたが、スマホの登場により、ガラ携(帯電話)が駆逐される時代の流れの中で、電子辞書は、当然のもの、生徒は言うことを聞かなくなってきています。今では、電子辞書すら使わず、スマホの辞書機能で、英単語を検索する生徒すら登場してきた始末です。そういう生徒に限って、私の塾に関してですが、英語ができません。
これから電子辞書に関して私見を述べてみたいと思います。これは、時代の趨勢で、劣勢の意見であることを承知の上で、敢えて申し述べてみたいと思います。
 これは、一部の学校になりかけてきている、いや、学校によると多数派の所もあるかもしれませんが、その学校の英語教師は、生徒に紙の辞書を薦めていると思います。様々な電子辞書への批判や、電子辞書の長所など、新聞や雑誌、また英語のハウツー本などで強調されてもいるので、この場を借りて、誰も指摘してはこなかった側面を語ってみたいと思います。
 極論ですが、中学生は勿論のこと、現在の日本の7割の高校生には、電子辞書はお勧めできません。まず、画面が限られている上、その単語の全体項目を概観し、比較検討する頭の作業ができなくなるからです。大学生や社会人になり、その品詞が認識でき、その語彙の意味だけを調べる域に達している人は、一昔前のコンサイス英和辞典のように、携帯向けに持っていることは一向に構いません。それは、小学校低学年で、当用漢字もろくすっぽ覚えていない2年生に、広辞苑の電子辞書を使うように指示するようなものになるからです。その言葉、英語でもフランス語でも、その発展途上の生徒には、紙の辞書が適切なのです。12歳から英語を学び、即、英和電子辞書を使いこなせないのと同義であります。発音が飛び出してくるメリットだけは否定しません。はっきり断言しますが、英検2級をぎりぎりで合格した程度の英語力では、電子辞書はまだ早いと言わざるをえないでしょう。英検2級の問題を8割以上ゲットできる実力のある高校生が、電子辞書を使用して始めて、使いこなせるといえるのです。だから、世の高校生の3割も英検2級問題を8割以上ゲットできる生徒がいない現状で申し上げているわけです。
 まだ、基本単語もろくすっぽ覚えていない上に、文脈から適切な意味を選び取る能力にも欠けている生徒が、電子辞書を使用することは、“百害あって一利なし”とさえ言いたいくらいです。敢えて利点を言うならば、頭の中で‘ABC~♪’の歌を歌わずに済むというくらいでしょうか?実は、生徒は、この便利さに惹かれるのです。‘ABC~♪’という順繰りにアルファベットを調べるという時間・手間が不要になるという魅力が電子辞書が支持される最大の理由です。学校側が生徒に一括購入させている話をよく耳にしますが、その学校の英語科の先生方の気が知れません。業者から何らかのリベートを貰っているのかと穿った見方をしたくなってしまいます。
 電子辞書と紙の辞書の決定的な違いは、デジタル時計とアナログ時計の差と考えてもよいものです。前者は、ただ、その時刻を知らせるだけのものであり、その時刻と、来たり来る節目の時刻との長さの感覚~例えば、10時48分と11時の時間の長さを空間軸(角度)で感じとる意識~が芽生えてはきません。まさに、それは、その単語を一語のみ示してくれているのと同義です。それに対して、後者は、時間を、空間軸の中で[文字盤という空間の中で]示してくれています。そのため、約束の時間とか電車の時刻とかを、「この長針があと25度傾いたら…」という意識で時間を捉えるために、時間という目に見えない抽象的な概念を具体的なイメージで把握することができるのです。デジタル時計という‘人’は、現在しかない人間、それに対して、アナログ時計という‘人’は、過去・現在・未来という重層的イメージを抱ける人間、どちらが、人間らしい思考する人間でしょうか?従って、人は、その長針の動きと自分の行動を並列軸に比較ができ、時間というものを実体(はっきりした存在)として感じ取れているのです。譬えは、極端ですが、中世において聖書も読めない庶民に、キリスト教の世界観をわからせるために、宗教画というものが発展した所以とも、似て非ではない。<デジタル時計:アナログ時計=聖書:宗教画=源氏物語:源氏物語絵巻>、このように、‘遠回り’だが、非常にわかいやすい利点があるのです。ここに、アナログ時計の長所があり、まったく廃れず、いや、むしろ、支持者が減らない根本的な理由があるのです。デジタル腕時計の需要は減っていて、アナログ腕時計は不滅なのです。因みに、ロレックスなどの高級腕時計で、デジタルなど聞いたことがありません。何も、超絶技巧による、神業的職人技による機械仕掛けの希少価値だけが、その理由ではないのです。
 このアナログ時計の利点と同じことが紙の辞書にも言えるのです。紙の辞書は、その調べる単語だけでなく、その前後やそのページを鳥瞰し、自分が調べている単語の形容詞形や副詞形が目に入ってきたり、動詞を調べていても、その名詞形が目に留まったりして、その余計な単語までも目にすることになるのです。実は、この道草的行為こそが、とても勉強のなるのです。何気なくそうしていること{語彙を複数目にすること}で、その辞書の特徴や解説や例文、時に挿絵などを学習していることにもなるのです。電子辞書では、その意識がその単語しか標的になっていなので、辞書を読むとか、辞書に馴染むとか、辞書から学ぶとかいう行為は、語学の発展途上人には、生まれてはきません。これでは、語彙を基盤においた語学(英語)の向上はおぼつかない。これは、辞書の中を散策している行為でもある。『思考の整理学』(ちくま文庫)で有名になった外山滋比古氏の言葉でありますが、“頭脳(あたま)の散歩”をしているようなものなのです。この“頭脳(あたま)の散歩”、とは、実は様々な発想・着想の淵源ともなるもので、非常に大切なのです。
 ここで、紙の辞書と電子辞書との関係に似た事例をお話しましょう。
 これは、以前、あるラジオ番組で、英文学者の渡部昇一氏が語っていたことですが、インターネットによって得た知識と、自らが書物で得た知識の決定的な違いというものを、見事に譬えておられたので、はっきと記憶しています。それは、次のようなことです。
 インターネットの、ウィキペディアなども同様ですが、そうしたSNSで得た知識とは、ある意味、栄養剤、またサプリメントのようなものだというのです。それに対して、書物で、数百ページ、それも数冊を読んで得た知識とは、肉や野菜や果物、穀物などを咀嚼してえた栄養素だというのです。どういうことかと言えば、生まれた立ての赤ん坊を小学校に上がるまで、これはあり得ないことですが、身体に必要とされる栄養素からなるサプリメントだけで育てたとします。宇宙飛行士などの流動食レベルのものと考えてもいいでしょう。それで育った6歳児は、がりがりで、顎も、内臓も発達せず、人間ならぬ宇宙人のような姿になってしまうことでしょう。それに対して、お米やパン、そして肉や魚、野菜や果物を、自身が噛み、咀嚼し、内臓を経て、糞尿として排出する行為を通して、人間は顎や味覚、内臓、身体全体が大きく、普通の人間のいで立ちへと変貌するのです。自身が噛み砕き、唾液などを混ぜ、内臓で、必要な栄養素を吸収し、無駄なものを肛門から排出して、生物は成長してゆくのです。その行為は、半分以上、或る意味で無駄な行為とも思われます。しかし、この無駄な行為こそ、読書という行為と似ていると渡部氏は強調しているのです。「ああ、こんな本買わなきゃよかった!」「こんな本読んで、時間の無駄だった!」「うむ、なるほど、この箇所はいただきだ!」「いい本に巡り遇った!」など、損もすれば得もする、これこそ、本という食物を脳という機関が咀嚼{取捨選択}し、栄養素として摂取している真実でもある。インターネットによる検索による知識は、まさしく、皆が当然だと思う知の最小公倍数的なものに過ぎません本からの知とは、最大公約数的で、自身の経験値と他人の経験値を天秤にかけたり、思考しながら、しかも知の応用範囲また表現の学習の広さで、勝るのです。ですから、中学1年から、せめて高校2年くらいの、英語の発展途上人{人間の6歳児くらいまで}は、何が何でも、紙の辞書でなくてはならないのです。こうした見解・見地で、電子辞書を批判している言説を今まで、私は見たことがありません。どこかしらの大学教授あたりが、研究してもいいジャンルだと思うのですが、浅学の私の知の範囲内では情報が入ってはきません。最近まで、話題になった、大学生のコピペ問題など典型です。教授があるレポートの課題を学生に出すと、7割前後、同じ内容、同じ表現のレポートが提出されてくるというものです。これは、学生が、自ら図書館で本を借りて、新聞・雑誌など調べ、レポートを書くのではなく、インターネットの検索機能で、その問題・内容・事実を調べ、それを適当に自身で切り貼りなどして、編集し、教授に提出するから、そうした現象を生むのです。こうした学生の悪しき慣習は、電子辞書に馴染んで、紙の辞書を億劫がる、また、本を読まない現代の若者気質、時代の趨勢{※電車内で異様なくらいほとんどの人がスマホとにらめっこをしている光景など、その典型です}など複数の要因が重なり合い生まれているものでしょう。
あるディベロッパーやコンビニ店舗開発者、魅力的店舗を探す不動産業者・ビジネスマンは、その土地を車ではなく、足で歩いて、良き物件を探す行為がよく知れ渡っていると思います。新幹線や特急での旅行より、各駅停車やローカル線での旅の方が、その土地の魅力がわかる、また、毎日車通勤していた人が自転車通勤にしたら、町の景色や四季の移ろいを肌で感じるのと、紙の辞書の魅力は似ています。現在、様々なタレントによる路線バスによるプチ旅番組が人気を博し、‘アド街ック天国’という長寿番組が存在する所以も、そこにあるのでしょう。まあ、手っ取り早く言えば、ファーストフードとスローフードの関係に似ていなくもない。救急車・消防車で働く人から、宅配便、そして新聞配達をする人々が重宝しているゼンリンの地図などは、その作成者は、現場を足で一軒一軒つぶさに調べて作成されたものだそうです。また、辞書の職人として有名な飯間浩明氏などは、新しく載せる言葉を、街を歩き回り、‘採集’する姿を、NHKの‘プロフェッショナル’という番組で目にしたものです。世の中の見えないところは、実は、アナログが根底にある、支えてもいるものです。S・ジョブスの発明なるスマホも、機能を‘アナログ・人間’に近づけようという理念に基づいていたものだと聞いています。
 これは、あくまでも狭い範囲、私の塾でのことですが、電子辞書を高校2年以前に使用している生徒に限って、英語は駄目です(出来が悪いです)。英語の成績がよい生徒は、高校2年生以前で電子辞書を使ってはいません。「いや、Aさんは、高校1年なのに、電子辞書を使っているよ!」と反論されるやもしれません。しかし、その生徒の実力は、大学生並み、つまり、英検準1級をもう少しのところで落ちた生徒です。単語の意味さえ分かれば、英字新聞や英語の雑誌くらいは読める域に達しているのです。そこを勘違いしないようにとその生徒を諭すのです。因みに、慶應大学文学部の入試問題は英和辞典と和英辞典の持ち込みが可ではありますが、試験会場で、何度も何度も辞書を引く生徒は、恐らく、不合格、数回程度あっさり調べる生徒は合格するというジンクスもまんざらではないと思われます。つまり、そのできる教え子の生徒は、電子辞書を使用する域に達するまで、こまめに紙の辞書を引いた裏付けがあったればこそなのです。ですから、「まだ文法や構文も青臭い段階で電子辞書などもっての外です」と、その発展途上の生徒に注意するのです。
 語学の修行期間は、面倒でもこまめにページをめくることです。そして、一度引いた単語や熟語、気になった解説などを、赤鉛筆で線を引くことをお勧めします。人生80年のうちで、数十秒その単語に時間を費やした証を残しておくのです。そうすれば、一度引いた単語を再度引いたとき、「まだ、この単語を覚えていなかったのか!」と自己反省の契機にもなるからです。できれば、その辞書を2年くらい使用して、赤線のないページにまでしてしまう位の気概をもって、是非実行してみるように、生徒に推奨してもいます。辞書を引く行為が苦痛ではなく、一種、塗り絵のように、楽しくなります。私の中学時代の赤線だらけの辞書{ライトハウス英和辞典の前身ユニオン英和辞典}をよく生徒に見せたりもしています。
 更に、装丁ですが、辞書は革製のものをお勧めします。なぜかと言えば、使えば使うほど手に馴染んできて、自分がどれだけその辞書を使っているのかが、年季といいますか、現れてきます。1000円以上値段が張りますが、少々大人の気分になれて、他の生徒はほとんど持ってはいないでしょうから、それだけちょっぴり「いいものを持っているんだ」という優越感にも浸れます。自分の辞書に愛着が湧いてきます。電子辞書に愛着など湧くどころか、むしろ、新機種の登場で、捨てたくさえなります
 「名人道具を選ばず」とは言いますが、やはり、よいものは持っているべきです。あるミュージシャンの言葉ですが、「名人道具にこだわる」とも語っていたことが印象に残っています。ヴァイオリニストで、自身一人でコンサートやCDなどで十分食べて行けるようなセレブのミュージシャンは、次に、数億円もするストラディヴァリウスの名器が欲しくなる、また、手に入れるメンタルにも似ているかもしれません。さりげない身の回りのものの品に対して、こだわりを持つようすると、実は、その人の趣味・感性・趣向といったものが洗練されてきて、いっぱしの大人になった時に、「ああ、あの人はセンスがいいわね!」と言われるようになるものです。この点に関しては、別の機会に、話題を変えて深くお話したいので、深入りはしませんが、何気ない文房具にしてもそうです。時代が古いですが、万年筆なら、モンブランやウォーターマン、パーカーのように、辞書なら、装丁も本格的にこだわりをもって、革製のものを常に使用していると、その革の本当のよさが実感されてきます。あのぐにゅっとやわらか過ぎて、手ごたえがなく、いつまでも同じままで、ただ汚れてゆくビニールの辞書に対して、ほどよく固く、手に年月とともに馴染んでくる、そして、人間の顔と同様に、使用した分だけ、しわやひびが出てくるといったらいいのですか、カバーに独特の表情・風合いがでてきます。この感触は何ともいえません。ロボットのアイボーと本物の柴犬との違いでもあります。
 2018年11月28日、ついに、あの諸橋轍次著{※本辞典の功績により文化勲章}の、ある意味、本家の中国最大の『康熙字典』をも凌ぐ、世界最大の漢和辞典、『大漢和辞典』(大修館書店){※中国政府から500セットの一括発注を受けた}がデジタル化さる運びとなった。USBメモリ1本で発売されるまでの時代になった。本当に時代の趨勢です。この大辞典は、中等教育の中学高校生が使用する代物ではありません。大学生、教師、研究者など、高等教育以上の人対象の辞書です。私があくまでも主張しているのは、初等中等教育の段階で、英検2級の問題を8割以上ゲットできる、また、センター試験の英語の問題を8割以上ゲットできる生徒には、電子辞書使用のゴーサインを出しているまでなのです。

過去の記事

全て見る

ホームへ

ページトップへ