コラム
新テストが大学勢力図を劇的に変える
2020年度の新テストの実施が、1年先に迫ってきています。その一部、英語民間試験の開始も、半年後に迫っています。数学や国語の記述形式の問題の導入など、その採点の公正性、様々な民間英語試験の公平性など、生徒や父兄はもちろん、高校の89%、大学の65%までもが問題ありと異議申し立てをしている。全国高校長協会よって、この英語の民間テストに導入延期の要望書が文科省にだされたほど、その問題点の根深さがうかがえます。
このまま、2020年度から、センター試験に変わる新テスト、いわゆる、大学入学共通テストなるものが数年、十年と続けられれば、これから大学難易度勢力図(偏差値分布)が劇的に変化してくるでしょう。これはあくまでの私の個人予測です。
1979年度から実施された共通一次試験は、旧来の国公立一期校、二期校の差別、エリート校、非エリート校の区別(差別)を解消することが目的で行われました。しかし、実際は、偏差値という尺度で、難易度カーストのような現実を招き、旧一期校と旧二期校の間に、早慶はもちろん、MARCHから日東駒専レベルに至るまでが、地方の国公立よりも偏差値という魔物で、上位にくる奇妙なる現象が起きたのです。それは、従来、数科目でも国公立に受験でき、合格できるルートがふさがれたからです。つまり、共通一次試験の5教科7科目1000点満点という第一関門をクリアしなければ、二次試験の志望する地方の国公立に入ることができなくなったからです。いわば早稲田タイプで国公立に入れた受験生の門が閉ざされ、狭められたわけです。そこで、従来の英数国理社の全能型タイプの学生であれば、まず旧7帝大へ入りやすくなり、数学や理科にへこみがある生徒は、それだったらと、昔だったら山形大や弘前大に進んだ高校生が、MARCHレベルの大学へ入学し、福島大や群馬大へ進んだ高校生が日東駒専へと流れ込んでくるようになったのが事の顛末です。よって、バブル前夜からバブル崩壊直後まで、次のような奇妙な偏差値ヒエラルキーが受験産業界で構築されてしまったのです。
東大・京大・一橋・東工大など旧7帝大
早慶上智
MARCH
一部の地方国公立大学
日東駒専
地方の国公立大学
この構図が、変わりかけてきたのが、ほぼバブル崩壊と期を同じくするセンター試験の登場の時機と一致します。
共通一次試験も、末期は5教科6科目、5教科5科目と、オールラウンドドプレーヤーである必要性がなくなり、ハードルが低くなってゆきました。そして、センター試験への名称変更と同時に、国公立でもアラカルト方式で、必須の科目が激減してゆきました。その後、東大でさえ、5教科5科目(800点満点)となる始末です。また、私大もこのセンター試験に参加し、自前で入試問題を作成する手間も省け、国公立志望の生徒のおこぼれ頂戴にもなる、ずる賢い戦略で、どしどし芋ずる式に受験生を増やしてゆきました。私大はもちろん旧二期校の地方の国大学までも、センター試験の科目のつまみ食い的アラカルト方式を取り入れ、学生の呼び込みに躍起となります。企業のまるで就活学生のぶんどり合いの如く、資質が私大向きの学生でさえも、最低限度の教養・知識がなくてもOKという流れになってゆきます。それにさらに拍車をかけたのが、1990年度からSFCで始まったAO入試とやらです。その後、燎原の火の如く、ピンからキリまでの、公立私立を問わず、大学で、猫も杓子も名ばかりAOを実施するようになってゆきます。こうした風潮を教育メディアは、「AO入試とはアホでもOK入試」「AO入試とは青田買い入試」と皮肉まじりに批判したほどです。
文科省も、グローバル化の波にけん引されたか、センター試験の賞味期限が切れたと判断したのか、英語における<話す>技能の重視、数学や国語における記述形式の必要性、こうした一見すると聞こえがいい方針で、時の文科大臣下村博文(井伊直弼大老)は、最悪の教育大改革を断行した模様です。教育の“安政の大獄”です。加計問題で、前川喜平文部次官を辞任へと追い込んだのは、まるで、吉田松陰や橋本左内を処刑したのと同じに見えてきます。国語の教科書「現代文B」も、わけのわからない「論理国語」「文学国語」に区別する愚策も同じです。この点は、別の機会にお話しします。
このセンター試験の末期は、次のような偏差値ヒエラルキーにプチ逆戻りです。少々、実態に見合うものになりました。雑駁な順位です。
東大・京大・一橋・東工大など
東北大・大阪大など旧7帝大
早慶・上智
地方の国公立大
MARCH
日東駒専
さて、センター試験が廃止され、それに代わる大学入学共通テストなるものが、2020年度以降実施されたならば、それも、英語の民間試験と数学・国語の記述形式を含む問題を存続したとしたならば、次のような大学偏差値ヒエラルキーに変化してゆくと予想されます。これは、あくまでも私の仮説です。
東大・京大・一橋・東工大{英語の民間試験を軽視・無視する大学という条件を満たす}
東北大・大阪大など旧7帝大{以上と同様です}
慶應{文科省の方針・政策を無視する、新テストから距離を置く試験制度を独自で行う}
※早慶の難易度・学生の質の開きがますます広がってゆく!
早稲田{文科省の政策を忠実に踏まえ、グローバル化路線で試験を行う}
※早稲田は、近い将来推薦・AO入学者の割合を6割以上にする方針=愚策!
上智{文科省の政策にほぼ順行し、TEAPなどグローバル化路線で試験を行う}
※上智も推薦や民家試験枠での入学者が6割を超える勢いです。附属・系列校のない悲しい宿命です
地方の国公立{英語民間試験を軽視、また、義務づけない}
MARCH{文科省の方針に沿って入試を行う大学と独自路線で行う大学に開きが}
一部の私大{英語の民間試験を採用せず、独自に入試を行う}
地方の国公立{英語の民間試験を重視、また義務付ける}
一部の私大{新テストで学生を選抜する}
人間とは、楽な方、楽な方へと流れる習性をもつ生き物です。英語試験で<話す>技能を試す試験を課したからといって、それに付随して彼らがそれ相応の努力をする、またその“努力=小手先だけのという枕詞がつく努力”に見合った実力が付くかははなはだ疑問です。現場で生徒の姿をつまびらかに見つめている教師はわかるはずです。記述形式の数学や国語の問題にしろ、同様です。ある程度以下の能力の高校生は、その記述問題は白紙のままです。こんな、理想先走りの入試問題を高校生に課しても、現実の高校生は、そんな関門・関所・ハードルは避けようとします。それが現代っ子の性質(さが)でもあるからです。
不安、疑心暗鬼の親御さんの中で、こんな‘不合理で理不尽な新テストは…’とも捉える種族は、もう、早慶はもちろん、MARCHに至るまで、附属中学、附属高校のある大学に中学生、いや、小学校から入れてしまう防衛戦略をとることが予想されます※{「附属・系列高も英語新試験導」という特集記事が2019年9月29日付朝日新聞に載っています=大学側の内部進学者の英語の防衛策?}
ここで留保しておきますが、附属校の高校生は、英語の民間試験など受けなくても{※課していたとしても、あくまでもハードルが低い!}、自身の大学に進めます。だからといって、新テストをかいくぐってきた国公立の大学生より<話す>技能が劣ると烙印でも押せば、学力差別以外の何ものでもないでしょう。何でもそうですが、強制され、義務化されればされるほど、逆説めきますが、語学などは伸び悩むものです。予言します。英語の民間試験の採用を実施すればするほど、大学生の英語の総合力(話すだけでなく、聞き・読み・書く能力も含め)は下降してゆくと断言しましょう。教育とはそんなものです。それは、「英検タイトルホルダーの実態」(2018年11月)・「大学共通テストのアンケートから見えてくるもの」(2018年10月)のコラムをお読みいただければ納得するはずです。
今般の<新テスト>を馬鹿々々しい、胡散臭いと考える親御さんは、我が子を、その関所を掻い潜る附属校へ、<新テスト>をうざい、面倒だと思う標準的(東大京大一橋東工大未満の学力の)高校生は、その関門を経ずして進める大学へ受験する賢明策をとると予想されます。小学生が受験する私立の中高一貫校などは、国からの、文科省からの、押し付けられた入試問題など実施せずとも、自校の求める、自校が欲する生徒を集めているではないか、国の一斉号令の入試システム{ダイバーシティ社会に逆行する入試システム}ほど、バカバカしく亡国へと導くものはないのです。政治経済だけでなく、教育も、独立自尊の路線が必要なのです。どれだけ、政府、文科省、グローバリゼーションに疑いの目線を持つ者だけが、“タイタニック号”から、脱出することができるのです。
このまま、2020年度から、センター試験に変わる新テスト、いわゆる、大学入学共通テストなるものが数年、十年と続けられれば、これから大学難易度勢力図(偏差値分布)が劇的に変化してくるでしょう。これはあくまでの私の個人予測です。
1979年度から実施された共通一次試験は、旧来の国公立一期校、二期校の差別、エリート校、非エリート校の区別(差別)を解消することが目的で行われました。しかし、実際は、偏差値という尺度で、難易度カーストのような現実を招き、旧一期校と旧二期校の間に、早慶はもちろん、MARCHから日東駒専レベルに至るまでが、地方の国公立よりも偏差値という魔物で、上位にくる奇妙なる現象が起きたのです。それは、従来、数科目でも国公立に受験でき、合格できるルートがふさがれたからです。つまり、共通一次試験の5教科7科目1000点満点という第一関門をクリアしなければ、二次試験の志望する地方の国公立に入ることができなくなったからです。いわば早稲田タイプで国公立に入れた受験生の門が閉ざされ、狭められたわけです。そこで、従来の英数国理社の全能型タイプの学生であれば、まず旧7帝大へ入りやすくなり、数学や理科にへこみがある生徒は、それだったらと、昔だったら山形大や弘前大に進んだ高校生が、MARCHレベルの大学へ入学し、福島大や群馬大へ進んだ高校生が日東駒専へと流れ込んでくるようになったのが事の顛末です。よって、バブル前夜からバブル崩壊直後まで、次のような奇妙な偏差値ヒエラルキーが受験産業界で構築されてしまったのです。
東大・京大・一橋・東工大など旧7帝大
早慶上智
MARCH
一部の地方国公立大学
日東駒専
地方の国公立大学
この構図が、変わりかけてきたのが、ほぼバブル崩壊と期を同じくするセンター試験の登場の時機と一致します。
共通一次試験も、末期は5教科6科目、5教科5科目と、オールラウンドドプレーヤーである必要性がなくなり、ハードルが低くなってゆきました。そして、センター試験への名称変更と同時に、国公立でもアラカルト方式で、必須の科目が激減してゆきました。その後、東大でさえ、5教科5科目(800点満点)となる始末です。また、私大もこのセンター試験に参加し、自前で入試問題を作成する手間も省け、国公立志望の生徒のおこぼれ頂戴にもなる、ずる賢い戦略で、どしどし芋ずる式に受験生を増やしてゆきました。私大はもちろん旧二期校の地方の国大学までも、センター試験の科目のつまみ食い的アラカルト方式を取り入れ、学生の呼び込みに躍起となります。企業のまるで就活学生のぶんどり合いの如く、資質が私大向きの学生でさえも、最低限度の教養・知識がなくてもOKという流れになってゆきます。それにさらに拍車をかけたのが、1990年度からSFCで始まったAO入試とやらです。その後、燎原の火の如く、ピンからキリまでの、公立私立を問わず、大学で、猫も杓子も名ばかりAOを実施するようになってゆきます。こうした風潮を教育メディアは、「AO入試とはアホでもOK入試」「AO入試とは青田買い入試」と皮肉まじりに批判したほどです。
文科省も、グローバル化の波にけん引されたか、センター試験の賞味期限が切れたと判断したのか、英語における<話す>技能の重視、数学や国語における記述形式の必要性、こうした一見すると聞こえがいい方針で、時の文科大臣下村博文(井伊直弼大老)は、最悪の教育大改革を断行した模様です。教育の“安政の大獄”です。加計問題で、前川喜平文部次官を辞任へと追い込んだのは、まるで、吉田松陰や橋本左内を処刑したのと同じに見えてきます。国語の教科書「現代文B」も、わけのわからない「論理国語」「文学国語」に区別する愚策も同じです。この点は、別の機会にお話しします。
このセンター試験の末期は、次のような偏差値ヒエラルキーにプチ逆戻りです。少々、実態に見合うものになりました。雑駁な順位です。
東大・京大・一橋・東工大など
東北大・大阪大など旧7帝大
早慶・上智
地方の国公立大
MARCH
日東駒専
さて、センター試験が廃止され、それに代わる大学入学共通テストなるものが、2020年度以降実施されたならば、それも、英語の民間試験と数学・国語の記述形式を含む問題を存続したとしたならば、次のような大学偏差値ヒエラルキーに変化してゆくと予想されます。これは、あくまでも私の仮説です。
東大・京大・一橋・東工大{英語の民間試験を軽視・無視する大学という条件を満たす}
東北大・大阪大など旧7帝大{以上と同様です}
慶應{文科省の方針・政策を無視する、新テストから距離を置く試験制度を独自で行う}
※早慶の難易度・学生の質の開きがますます広がってゆく!
早稲田{文科省の政策を忠実に踏まえ、グローバル化路線で試験を行う}
※早稲田は、近い将来推薦・AO入学者の割合を6割以上にする方針=愚策!
上智{文科省の政策にほぼ順行し、TEAPなどグローバル化路線で試験を行う}
※上智も推薦や民家試験枠での入学者が6割を超える勢いです。附属・系列校のない悲しい宿命です
地方の国公立{英語民間試験を軽視、また、義務づけない}
MARCH{文科省の方針に沿って入試を行う大学と独自路線で行う大学に開きが}
一部の私大{英語の民間試験を採用せず、独自に入試を行う}
地方の国公立{英語の民間試験を重視、また義務付ける}
一部の私大{新テストで学生を選抜する}
人間とは、楽な方、楽な方へと流れる習性をもつ生き物です。英語試験で<話す>技能を試す試験を課したからといって、それに付随して彼らがそれ相応の努力をする、またその“努力=小手先だけのという枕詞がつく努力”に見合った実力が付くかははなはだ疑問です。現場で生徒の姿をつまびらかに見つめている教師はわかるはずです。記述形式の数学や国語の問題にしろ、同様です。ある程度以下の能力の高校生は、その記述問題は白紙のままです。こんな、理想先走りの入試問題を高校生に課しても、現実の高校生は、そんな関門・関所・ハードルは避けようとします。それが現代っ子の性質(さが)でもあるからです。
不安、疑心暗鬼の親御さんの中で、こんな‘不合理で理不尽な新テストは…’とも捉える種族は、もう、早慶はもちろん、MARCHに至るまで、附属中学、附属高校のある大学に中学生、いや、小学校から入れてしまう防衛戦略をとることが予想されます※{「附属・系列高も英語新試験導」という特集記事が2019年9月29日付朝日新聞に載っています=大学側の内部進学者の英語の防衛策?}
ここで留保しておきますが、附属校の高校生は、英語の民間試験など受けなくても{※課していたとしても、あくまでもハードルが低い!}、自身の大学に進めます。だからといって、新テストをかいくぐってきた国公立の大学生より<話す>技能が劣ると烙印でも押せば、学力差別以外の何ものでもないでしょう。何でもそうですが、強制され、義務化されればされるほど、逆説めきますが、語学などは伸び悩むものです。予言します。英語の民間試験の採用を実施すればするほど、大学生の英語の総合力(話すだけでなく、聞き・読み・書く能力も含め)は下降してゆくと断言しましょう。教育とはそんなものです。それは、「英検タイトルホルダーの実態」(2018年11月)・「大学共通テストのアンケートから見えてくるもの」(2018年10月)のコラムをお読みいただければ納得するはずです。
今般の<新テスト>を馬鹿々々しい、胡散臭いと考える親御さんは、我が子を、その関所を掻い潜る附属校へ、<新テスト>をうざい、面倒だと思う標準的(東大京大一橋東工大未満の学力の)高校生は、その関門を経ずして進める大学へ受験する賢明策をとると予想されます。小学生が受験する私立の中高一貫校などは、国からの、文科省からの、押し付けられた入試問題など実施せずとも、自校の求める、自校が欲する生徒を集めているではないか、国の一斉号令の入試システム{ダイバーシティ社会に逆行する入試システム}ほど、バカバカしく亡国へと導くものはないのです。政治経済だけでなく、教育も、独立自尊の路線が必要なのです。どれだけ、政府、文科省、グローバリゼーションに疑いの目線を持つ者だけが、“タイタニック号”から、脱出することができるのです。