コラム
教えない授業という"悪"
“教えない授業”というキーワードが、どうも教育界とは言いません、教育という巷間で、肩を威からせ一人歩きしているらしい。いびつなブームらしい。それは‘音読’という英語の授業に典型的に表れていると前回語りました。
音読とは、ある意味、禅宗の只管打座に近いものがあり、ひたすら、修行あるのみである。言うまでもなく、そうした傾向が強いものです。理屈・理論より実践あるのみです。ある英文が、文法などを通じて半分くらい了解できていれば、あとは音読のみで、“ネイティブ”の境地に達すると能書きを垂れたり、雄弁に喧伝する予備校講師すらいます。TハイスクールのI講師やY講師などであります。
こうした音読とは、数学的に言えば、小学生の少数・分数における足し算・引き算・掛け算・割り算の計算演習の如き、また、百マス計算のように、<習うより慣れろ>的学習に近い部類に属します。中学生の√(ルート)の計算や因数分解レベルの、演習の場数を踏めば能力が向上する、そろばん塾の如き自己との武芸上達上の鍛錬の如きものでもあります。
しかし、日常英会話・英検2級から準1級レベルの英作文ならぬ、“英借文”程度の英語を、それも、『基本英文300選』『基本英文700選』とかいう参考書に載っているものを、CDを頼りに音読するなら根気と意志さえあれば、自然と頭に入ってもくるでしょうが、高校生の教科書に載っている生徒自身が殆ど興味関心もない、湧かない英文をただ闇雲に音読することが、どれほど馬鹿らしく困難な“修行”であるのか、単に音読を奨励する世の英語教師は認識しているはずです。何を、どんな英文を音読せよと言うのでしょうか?私個人としては、生徒にお薦めしている教材はありますが……。
一般的な、標準レベルの高校生に、闇雲に音読を奨励するのは、年端もいかない、小学生や、中学生に、都会のワンルームマンションに一人住まいをさせて、身体にいいとされる、健康上栄養価の高い食生活を実践させるに等しいことと断言できるのです。彼らは、コンビで、好きな弁当やスーツ、スナック菓子を買い込んで、自身の部屋で自炊する意志、そして、栄養価を考えた食生活を思慮することなどなく、親御さんの期待を大いに裏切る結果となるのは、学校英語教師が、高校生に自宅で音読を行いなさいという指導を無視している現実と同じもの感じずにはいられません。
この<教えない授業>という理想論は、生徒に自主性・やる気があるという前提の上でのきれいごとでもあります。一昔前のゆとりの教育が、文科省の机上の空論から、現場にやる気のある教師・優秀な教師がいるという前提で、しかも、やる気のある生徒や地頭がいい生徒がいるという十分条件まで必要とするものでありました。ですから、ゆとりの教育が、真の意味で成功した事例は、公立の麹町中学校や番町小学校・泰明小学校など、公立の越境入学者が多い学校や地元であれこれ評判のいい学校に限られてもいたのです。
巷によくある塾というもの、公文式{※公文式は、小学校低学年が一番優秀な生徒、高学年になるとサピックスや日能研に鞍替えし、中学生徒ともなれば、まず、将来東大などに行く生徒は通わなくなります、つまり、公文式⇒サピックス⇒鉄緑会のルートが現に存在しているのです}でもいい、明光義塾でもいい、ある数学の問題集をその生徒にあてがい、指定の項目を課題としてやらせます。解答集で、答え合わせをして、どうしても、解答集の解説を見ても、自力で理解できない箇所がでてくるのが必定であります。地方の県立高校の標準的秀才が、『青チャート』の数学の数ⅡBの問題集や、『大学への数学』などで挫折するのと同じ現象が起きます。その自習形式の塾で、その問題集で分からない箇所があっても、教えてもらえない、適当な説明しかうけられなければ、その項目・単元の壁は破れません。英語とて同じことです。その大学入試レベルの英文を音読したとしても、その英文が弟、妹、学校の後輩を前にして、理路整然と説明ができて、初めて音読という行為が意味をなす、成立するのです。
生徒の<自主性>という言葉があります。これは、野球でいえば、練習前のランニング、自宅での素振り、また、個人での筋トレレベルに該当する領域であるように、強い意志と無心に反復練習する心的態度と同義でもあります。選手の<自主性>に任せて、スライダーを打つテクニックをバッティングで自ら習得するとか、盗塁の秘訣を自力で見出すとか、フォークボールの投げ方、握り方を自身で究めるなど、限界があるものです。こうした、技能、高等テクニックの領域にまで、自習性に任せ、音読で克服せよと、大方の英語教師がわめき散らしている雰囲気が今の学校・塾という“世間”に満ち溢れているように感じてならないのです。
<教えない授業>と生徒の<自主性>、これらが、悪い意味で、ミックスされている。きめ細かく教えようにも教える時間が足りない、教える独自の教材を作るだけの時間が足りない、こうした先生方もおられましょう、また、できの悪い生徒に教えるだけの力量不足の先生もおられましょう。彼らには、<教えない授業>は助けに船なのです。そうなのです、高校生より中学生、中学生より小学生に英語を教える方がどれほどの“英語の実力”がいるかは、鳥飼玖美子氏も日ごろから力説している点です。ですから、小学校からの英語の必修化は赤から黄色信号なのです。高校生や中学生に対しても同じであります。英語が出来ない・苦手な生徒に英語を教える方がどれほど難しいか。そうした<自主性>という真の動機をも持ち合わせていない種族に<教えない授業>など、非効率的授業の極致とさえ言えます。灘や開成に関しては、極論的に申し上げると、<教えない授業>は成立します。それに対して、中堅進学校{※桐蔭学園が典型であります}は<教えない授業>は、中途半端族{※一見して英語ができるようで、真の実力はない、所謂、名ばかり英検タイトルホルダーであります}を多数輩出します。日本全国の公立高校の生徒の質の、恐らく3分の2は、この桐蔭学園レベルの生徒であることを考慮せず、<教えない授業>、<アクティブ・ラーニング>などを盲信して、英数国理社などの知識が中途半端、あやふやのまま、推薦やAOで大学生になっているのが実態です。矛盾するようですが、基礎は知ってはいるが、根本が出来上がっていない。ファンダメンタルの認識の違いです。
灘から東大文Ⅲに進学した、『ドラゴン桜』『宇宙兄弟』をプロデュースした佐渡島庸平氏や桜蔭から東大理Ⅲに進み『東大脳の作り方』(平凡新書)で有名になった安川佳美氏など、また、脳科学者茂木健一郎氏や宗教学者島田裕己氏など、彼らの勉強原体験を辿ってみると、小学校時代の圧倒的読書量が、その後の数学や英語などの科目の“肥沃な勉学上の土壌”を作り上げ、その沃土が、様々な野菜(理Ⅲ)・生花(文Ⅲ)の栽培で見事に開花してきた事実を喝破しているのは、藤原正彦氏や斉藤孝氏くらいのものでしょう。彼らに共通する、今流行りの“東大脳”とは、小学校高学年までの絶対的読書量が決めていると断言できるのは、最小公倍数的真実であります。こうした地頭を有する少年少女に、“教えない授業”は有効です。また、“自主性”という教育上の“憲法”を与えても支障はありません。
大学生や社会人向けのハウツー本コーナーによく見かけられる本の題名、<独学のすすめ>なる文言も、“教えない授業”に適応できる能力・資質を持ち合わせている部族であります。スーパー自主性・本物の自主性というものを持ち合わせている種族だけが、当てはまる学習上のツールなのです。大方のサラリーマンが、ロシア語やスペイン語などを独学で、仕事で使える域にまでマスターするのがほぼ不可能に近い所以であるのは、大学生が、第2外国語のフランス語やドイツ語をただ単位をとるという浅はかな自主性{※自主性などとは到底言えない、むしろ動機}で、大学2年以降、全く身に付かず忘却の彼方へと雲散霧消するのは、まさしく、手抜き・教え方下手な大学語学講師{※語学そのものの実力がないのではない}が、実質、<教えない授業>を、<自主性>なき学生に、キャンパス内のオシャレな教室で行っているからです。この点、文科省や教育評論家が大学の語学講師を批判すると、「もう彼らは子供ではないのだから、授業の不明不能の箇所を自助努力で克服すべきです」と、彼らは手前勝手な反論をしてくるのが大勢です。彼らは、公には口には出さないが、「留学しなさい」「語学学校に通いなさい」と必ず、個人的に言います。「そうでもしなければ、外国語なんて身に付きはしないですよ」これが本音です。それを援用したものが、中学生、高校生に「音読しなさい」とアドヴァイスするのと同じ教育上の方針です。“狡猾な心根”が透けて見えてくるのです。ほとんどの“音読”奨励が、手抜き授業と私が主張する所以です。
デジタル社会の成れの果て、つまり、SNS社会の鬼っ子でもあるスマホなどの産物である<教えない授業>と教育界の従来の金科玉条とも言える<自主性>という言葉は、非常に相性がいい、ある意味、整合性があります。実は、こうした親和性は厄介で、老獪でもあります。ですから、それに対して、警戒しなければならのです。こうした親和性こそが、教師・生徒の両方に無能力・無責任の無臭性や中性化をもたらす‘悪’の効能を秘めている点を忘れないでいただきたい。強いては世の親御さんや一部の教育評論家すら蒙昧にさせ、思考停止状態にすらさせているのです。極端に言えば、その二つの言葉の組み合わせは、<理想の幻想>へと引きずり込む魔力があるのです。戦前の“大東亜共栄圏”のスローガンの如きに。
音読とは、ある意味、禅宗の只管打座に近いものがあり、ひたすら、修行あるのみである。言うまでもなく、そうした傾向が強いものです。理屈・理論より実践あるのみです。ある英文が、文法などを通じて半分くらい了解できていれば、あとは音読のみで、“ネイティブ”の境地に達すると能書きを垂れたり、雄弁に喧伝する予備校講師すらいます。TハイスクールのI講師やY講師などであります。
こうした音読とは、数学的に言えば、小学生の少数・分数における足し算・引き算・掛け算・割り算の計算演習の如き、また、百マス計算のように、<習うより慣れろ>的学習に近い部類に属します。中学生の√(ルート)の計算や因数分解レベルの、演習の場数を踏めば能力が向上する、そろばん塾の如き自己との武芸上達上の鍛錬の如きものでもあります。
しかし、日常英会話・英検2級から準1級レベルの英作文ならぬ、“英借文”程度の英語を、それも、『基本英文300選』『基本英文700選』とかいう参考書に載っているものを、CDを頼りに音読するなら根気と意志さえあれば、自然と頭に入ってもくるでしょうが、高校生の教科書に載っている生徒自身が殆ど興味関心もない、湧かない英文をただ闇雲に音読することが、どれほど馬鹿らしく困難な“修行”であるのか、単に音読を奨励する世の英語教師は認識しているはずです。何を、どんな英文を音読せよと言うのでしょうか?私個人としては、生徒にお薦めしている教材はありますが……。
一般的な、標準レベルの高校生に、闇雲に音読を奨励するのは、年端もいかない、小学生や、中学生に、都会のワンルームマンションに一人住まいをさせて、身体にいいとされる、健康上栄養価の高い食生活を実践させるに等しいことと断言できるのです。彼らは、コンビで、好きな弁当やスーツ、スナック菓子を買い込んで、自身の部屋で自炊する意志、そして、栄養価を考えた食生活を思慮することなどなく、親御さんの期待を大いに裏切る結果となるのは、学校英語教師が、高校生に自宅で音読を行いなさいという指導を無視している現実と同じもの感じずにはいられません。
この<教えない授業>という理想論は、生徒に自主性・やる気があるという前提の上でのきれいごとでもあります。一昔前のゆとりの教育が、文科省の机上の空論から、現場にやる気のある教師・優秀な教師がいるという前提で、しかも、やる気のある生徒や地頭がいい生徒がいるという十分条件まで必要とするものでありました。ですから、ゆとりの教育が、真の意味で成功した事例は、公立の麹町中学校や番町小学校・泰明小学校など、公立の越境入学者が多い学校や地元であれこれ評判のいい学校に限られてもいたのです。
巷によくある塾というもの、公文式{※公文式は、小学校低学年が一番優秀な生徒、高学年になるとサピックスや日能研に鞍替えし、中学生徒ともなれば、まず、将来東大などに行く生徒は通わなくなります、つまり、公文式⇒サピックス⇒鉄緑会のルートが現に存在しているのです}でもいい、明光義塾でもいい、ある数学の問題集をその生徒にあてがい、指定の項目を課題としてやらせます。解答集で、答え合わせをして、どうしても、解答集の解説を見ても、自力で理解できない箇所がでてくるのが必定であります。地方の県立高校の標準的秀才が、『青チャート』の数学の数ⅡBの問題集や、『大学への数学』などで挫折するのと同じ現象が起きます。その自習形式の塾で、その問題集で分からない箇所があっても、教えてもらえない、適当な説明しかうけられなければ、その項目・単元の壁は破れません。英語とて同じことです。その大学入試レベルの英文を音読したとしても、その英文が弟、妹、学校の後輩を前にして、理路整然と説明ができて、初めて音読という行為が意味をなす、成立するのです。
生徒の<自主性>という言葉があります。これは、野球でいえば、練習前のランニング、自宅での素振り、また、個人での筋トレレベルに該当する領域であるように、強い意志と無心に反復練習する心的態度と同義でもあります。選手の<自主性>に任せて、スライダーを打つテクニックをバッティングで自ら習得するとか、盗塁の秘訣を自力で見出すとか、フォークボールの投げ方、握り方を自身で究めるなど、限界があるものです。こうした、技能、高等テクニックの領域にまで、自習性に任せ、音読で克服せよと、大方の英語教師がわめき散らしている雰囲気が今の学校・塾という“世間”に満ち溢れているように感じてならないのです。
<教えない授業>と生徒の<自主性>、これらが、悪い意味で、ミックスされている。きめ細かく教えようにも教える時間が足りない、教える独自の教材を作るだけの時間が足りない、こうした先生方もおられましょう、また、できの悪い生徒に教えるだけの力量不足の先生もおられましょう。彼らには、<教えない授業>は助けに船なのです。そうなのです、高校生より中学生、中学生より小学生に英語を教える方がどれほどの“英語の実力”がいるかは、鳥飼玖美子氏も日ごろから力説している点です。ですから、小学校からの英語の必修化は赤から黄色信号なのです。高校生や中学生に対しても同じであります。英語が出来ない・苦手な生徒に英語を教える方がどれほど難しいか。そうした<自主性>という真の動機をも持ち合わせていない種族に<教えない授業>など、非効率的授業の極致とさえ言えます。灘や開成に関しては、極論的に申し上げると、<教えない授業>は成立します。それに対して、中堅進学校{※桐蔭学園が典型であります}は<教えない授業>は、中途半端族{※一見して英語ができるようで、真の実力はない、所謂、名ばかり英検タイトルホルダーであります}を多数輩出します。日本全国の公立高校の生徒の質の、恐らく3分の2は、この桐蔭学園レベルの生徒であることを考慮せず、<教えない授業>、<アクティブ・ラーニング>などを盲信して、英数国理社などの知識が中途半端、あやふやのまま、推薦やAOで大学生になっているのが実態です。矛盾するようですが、基礎は知ってはいるが、根本が出来上がっていない。ファンダメンタルの認識の違いです。
灘から東大文Ⅲに進学した、『ドラゴン桜』『宇宙兄弟』をプロデュースした佐渡島庸平氏や桜蔭から東大理Ⅲに進み『東大脳の作り方』(平凡新書)で有名になった安川佳美氏など、また、脳科学者茂木健一郎氏や宗教学者島田裕己氏など、彼らの勉強原体験を辿ってみると、小学校時代の圧倒的読書量が、その後の数学や英語などの科目の“肥沃な勉学上の土壌”を作り上げ、その沃土が、様々な野菜(理Ⅲ)・生花(文Ⅲ)の栽培で見事に開花してきた事実を喝破しているのは、藤原正彦氏や斉藤孝氏くらいのものでしょう。彼らに共通する、今流行りの“東大脳”とは、小学校高学年までの絶対的読書量が決めていると断言できるのは、最小公倍数的真実であります。こうした地頭を有する少年少女に、“教えない授業”は有効です。また、“自主性”という教育上の“憲法”を与えても支障はありません。
大学生や社会人向けのハウツー本コーナーによく見かけられる本の題名、<独学のすすめ>なる文言も、“教えない授業”に適応できる能力・資質を持ち合わせている部族であります。スーパー自主性・本物の自主性というものを持ち合わせている種族だけが、当てはまる学習上のツールなのです。大方のサラリーマンが、ロシア語やスペイン語などを独学で、仕事で使える域にまでマスターするのがほぼ不可能に近い所以であるのは、大学生が、第2外国語のフランス語やドイツ語をただ単位をとるという浅はかな自主性{※自主性などとは到底言えない、むしろ動機}で、大学2年以降、全く身に付かず忘却の彼方へと雲散霧消するのは、まさしく、手抜き・教え方下手な大学語学講師{※語学そのものの実力がないのではない}が、実質、<教えない授業>を、<自主性>なき学生に、キャンパス内のオシャレな教室で行っているからです。この点、文科省や教育評論家が大学の語学講師を批判すると、「もう彼らは子供ではないのだから、授業の不明不能の箇所を自助努力で克服すべきです」と、彼らは手前勝手な反論をしてくるのが大勢です。彼らは、公には口には出さないが、「留学しなさい」「語学学校に通いなさい」と必ず、個人的に言います。「そうでもしなければ、外国語なんて身に付きはしないですよ」これが本音です。それを援用したものが、中学生、高校生に「音読しなさい」とアドヴァイスするのと同じ教育上の方針です。“狡猾な心根”が透けて見えてくるのです。ほとんどの“音読”奨励が、手抜き授業と私が主張する所以です。
デジタル社会の成れの果て、つまり、SNS社会の鬼っ子でもあるスマホなどの産物である<教えない授業>と教育界の従来の金科玉条とも言える<自主性>という言葉は、非常に相性がいい、ある意味、整合性があります。実は、こうした親和性は厄介で、老獪でもあります。ですから、それに対して、警戒しなければならのです。こうした親和性こそが、教師・生徒の両方に無能力・無責任の無臭性や中性化をもたらす‘悪’の効能を秘めている点を忘れないでいただきたい。強いては世の親御さんや一部の教育評論家すら蒙昧にさせ、思考停止状態にすらさせているのです。極端に言えば、その二つの言葉の組み合わせは、<理想の幻想>へと引きずり込む魔力があるのです。戦前の“大東亜共栄圏”のスローガンの如きに。