コラム
科目の多様化の害➁
以下の文章(論文)は中央公論(2019年3月号)に掲載されたものの抜粋です。表題は次のようなものです。
つまり、日米の大学の教育力の差は、個人の努力ではどうにもならない構造的要因に起因している。それを変えない限り、教師は頑張れば頑張るほど疲弊していく。では、問題の根本はどこにあるか。ここではそれを大きく三つに集約してみたい。
第一の要因は、一人の学生が一学期に履修する科目である。前述の学生の一人{※東大を蹴って米国の大学を選んだ学生}は、米国では学生が授業を「一学期に四つしかとらないのがミソで、これによって思い入れのある授業しか選ばなくなるため、勉強に楽しく集中することができ」ると答えていた。当然、授業選びは重要で、指導教員と相談しながら履修科目を決めていく。多くの場合、一つの科目につき週三回授業があり、その一回はTA(ティーチング・アシスタント)による少人数の討論授業である。その討論を通じ、各学年の理解度が確認され、また、それはリードするTAの訓練の場ともなっている。
このように米国の大学では科目を絞り込んで深く学ばせる仕組みが一般的だが、日本は「浅く広く」である。多くの場合、学部生は一学期に10から12の科目を履修している。それらの授業は大概週1回で、学生はとりあえず授業に出席するが、とても予習や復習の余裕はない。4年間では70科目近く履修することになる。科目が多すぎ、卒業する頃には、1、2年生でどんな科目を履修したかすら忘れてしまう。
科目の多さは、学生の履修行動を、スーパーでのショッピングに近いものにする。学生は、とりあえず関心のる科目をカートに入れるが、個々の科目の比重が相対的に軽いので、負担が重そうな科目があると、途中で簡単にカートから外に出す。だから教師も、あまり大きな負担を学生に課さないように気を遣う。この関係が、学生が何か深く学ぶことを構造的に困難にしていく。
不都合が明白なのに、「広く浅く」という体制が変わらないのは、日本の大学ではそもそも授業選択が大学教育の根底となっていないからである。日本では、学生たちがどの学部・学科に所属したかは重要だが、どの科目を履修したかはそれほどではない。学生の所属先は、入試等の結果で決まる。学生は、所属学科の指示に従って必修科目を選び、選択科目は無難なもので埋める。これに対して米国では、大学の学びの根本はあくまで授業である。各学期の履修する約4つの科目を何にするかが重要で、4年間では合計で30~35程度の科目になる。その組み合わせでカリキュラムが構造化される。(P63~64より)
「日本の大学は入るのが難しく、出るのが易しい。米国では、入るのが易しい(?)が、出るのが難しい」といった余りに有名な一般論の源は、実は高校でやることが余りにももハイレベルで、いや、高校球児の練習や規律が厳しいごとく、10代の少年少女を鍛え上げてもいるということです。その競いあう舞台が甲子園であるように、日本の2月の入試の場になっているわけです。これは必然的に、勝ち残りサバイバルゲーム、オリンピックの代表候補を決めるレースの如くに、大学入試合格がしんどくなるわけです。
でも、そうした彼らも、いざキャンパスに足を踏み入れてみると、高邁な向学心を抱いていた連中でさえも、生ぬるい現実に浸される。「楽勝科目は?えぐい科は?捨て科目は?」といったように科目登録の段階で“利敏く”なっていく、要領よく単位をとり、あとはアルバイトや就活へと意識が傾いてゆくのが日本の学生の<悲しくも滑稽な性>でもあるのです。その姿は、健気で、ひたむきな志を抱き、エリート官僚となった霞が関の新卒の若者も、悪い意味での政治家気質に染まってゆくのと同じ轍を踏む運命が待ち構えているのと同じことです。『大学はもう死んでいる?』(集英社新書)という本が、最近でましたが、この吉見氏はこの新書の筆者の一人です。この抜粋の主旨を改めない限り、日本社会を下支えしている大学という高等教育機関は、一種“脳死”状態のままと言わざるをえないと指摘しているように聞こえてきます。
さて、ここでであります。この日本の大学の“履修科目が米国の2倍以上”という指摘、それを、中等教育にも波及、汚染させようとするのが、今般の高大接続教育の病根であります。さらに、初等教育にも、科目の多種化による、「広く浅く」主義があてはめられようとしています。“「深く」は経済的余裕のある個人でやってくださいね”と言わんばかりの方針です。
大学の第二外国語(独仏西など)は、キャンパス内の授業だけでは到底、使える能力の域には至らないことは、私個人が、フランス語で体験済であります。公認会計士や弁護士とて同じであります。ダブルスクールとしてTACなり伊藤塾なりに通わなければなれないのが現実です。ロースクールとて同じことです。アメリカのそれとは趣を本質的に異にしています。グローバルスタンダードと称して文科省が猿真似をして一番の教育的失敗作が、日本の法科大学院なのです。法学部、商学部と称していながら、科目に重きを置かず、学部の建前で成り立っている実態を顕在化してもいる証左です。法学部や商学部で何を学んだかではなく、その学部を通過した、出た、それだけで日本社会は、評価判断されてしまうというのが吉見氏の指摘でもあります。
こうした日本の大学の悪しきカリキュラム的慣習を、中学や小学校にも波及させよとするのが、まさしく今の文科省、安倍政権の魂胆です。国語という高校の教科も、国語総合から、論理国語と文学国語とに分離する、股裂き状態にする、一種の多科目化も、亡国へと向かう一里塚の象徴です。個人的意見ですが、英語に関して、受験生や親御さんたちに4技能を強烈に意識させた{※共通一次は読み、センター試験は読み・聞く、そして、大学入学共通テスト(2020年度では、読み・聞く・書く・話す)}今般の頓挫した民間資格系試験の新テストの採用、数十万人対象のマークシート方式に論述形式の採用、公的マンモス試験においてさえ、悪しきダイバーシティー主義の台頭の側面を物語ってもいます。複雑怪奇にして、魑魅魍魎の、<鵺的化け物テスト>の出現です。本来なら、結構それなりにかわいい女子大生、個性的でどこか惹きつける顔立ちの30代女性、それを無理やり、数百万、数千万もかけて美容整形して、不自然な顔立ち、グロい美しさの容姿、異様な顔になってしまった女学生やOLを、安倍政権の教育改革から、想起せざるをえません。
デフレ、モノ余り社会で、量販店(スーパー)に客足が遠のいた一番の原因は、“何でもあるが欲しいものがない”、この1点に尽きます。それに対して、百貨店(デパート)は、“欲しいものがたくさんあるが、手が届かない(買えない)”ため、またライバルのファーストファッションの台頭とモノよりコト消費社会への移行、この2点がデパート業界を斜陽産業にもしている大きな原因です。
スーパー{※簡単に単位が取れる}が日本の大学、デパート{※単位を取るのが難しい}が、米国の大学とも準えなくもない。スーパーで買った衣服は、あまり愛着が湧かず、リサイクルショップはもちろん、メルカリでもほとんど売れない。しかし、デパートで購入したブランド服は、古着屋はもちろん、ネットでも買い手がつく現実は、日本の大学のMBAとハーバードのMBAの違いに思えて仕方がありません。
いわば、“日本の大学が何でも教えてくれるが、何も身につかない”現象を高等教育の段階でもたらしているという高見氏の指摘は、日本の大学のスーパー業界の姿と皮肉にもパラレルにもなっている様は悲劇的滑稽さを感じずにはいられません。このスーパー的日本の大学の悪しき教育的慣習を、小学校の段階にまで波及させるのが、小学校からの英語やプログラミングであると、つまり、シュウマイ弁当や焼き肉弁当といった専門性の高い弁当を本心では食べたいにもかかわらず、小学生に何でも入っている幕の内弁当を、大人目線で与えようとしているとしか思えないのです。
ヴァイオリニストで、毒舌家タレントでも有名な高嶋ちさ子は、ある番組で、自身の子供の習い事に関して次のように語っていたことが日本の小学校のカリキュラムの将来像を物語っているように思えて、ニヤリとさせられました。
「うちの子どもには、20くらいの習い事をやらせたけど、今では何一つものになっていない。金の無駄だったわ!ったくもう!」
これは、裕福な芸能人のレベルなので、洒落にもなりますが、ことが、国レベルの初等教育ともなれば、洒落では済まされなのです。
私が何度も引用する名言ですが、
「小学校で必要なのは、1に国語、2に国語、3,4がなくて、5に算数。英語、パソコン(プログラミング)、そんなのどうでもいい」(藤原正彦)
この言葉が、古いと観るか、真実と観るか、その答えは、数十年後の日本社会しか教えてはくれません。
米国トップ大学に劣る構造的要因
「蹴られない東大」を実現する方法
東京大学大学院情報学環教授 吉見俊哉
「蹴られない東大」を実現する方法
東京大学大学院情報学環教授 吉見俊哉
つまり、日米の大学の教育力の差は、個人の努力ではどうにもならない構造的要因に起因している。それを変えない限り、教師は頑張れば頑張るほど疲弊していく。では、問題の根本はどこにあるか。ここではそれを大きく三つに集約してみたい。
第一の要因は、一人の学生が一学期に履修する科目である。前述の学生の一人{※東大を蹴って米国の大学を選んだ学生}は、米国では学生が授業を「一学期に四つしかとらないのがミソで、これによって思い入れのある授業しか選ばなくなるため、勉強に楽しく集中することができ」ると答えていた。当然、授業選びは重要で、指導教員と相談しながら履修科目を決めていく。多くの場合、一つの科目につき週三回授業があり、その一回はTA(ティーチング・アシスタント)による少人数の討論授業である。その討論を通じ、各学年の理解度が確認され、また、それはリードするTAの訓練の場ともなっている。
このように米国の大学では科目を絞り込んで深く学ばせる仕組みが一般的だが、日本は「浅く広く」である。多くの場合、学部生は一学期に10から12の科目を履修している。それらの授業は大概週1回で、学生はとりあえず授業に出席するが、とても予習や復習の余裕はない。4年間では70科目近く履修することになる。科目が多すぎ、卒業する頃には、1、2年生でどんな科目を履修したかすら忘れてしまう。
科目の多さは、学生の履修行動を、スーパーでのショッピングに近いものにする。学生は、とりあえず関心のる科目をカートに入れるが、個々の科目の比重が相対的に軽いので、負担が重そうな科目があると、途中で簡単にカートから外に出す。だから教師も、あまり大きな負担を学生に課さないように気を遣う。この関係が、学生が何か深く学ぶことを構造的に困難にしていく。
不都合が明白なのに、「広く浅く」という体制が変わらないのは、日本の大学ではそもそも授業選択が大学教育の根底となっていないからである。日本では、学生たちがどの学部・学科に所属したかは重要だが、どの科目を履修したかはそれほどではない。学生の所属先は、入試等の結果で決まる。学生は、所属学科の指示に従って必修科目を選び、選択科目は無難なもので埋める。これに対して米国では、大学の学びの根本はあくまで授業である。各学期の履修する約4つの科目を何にするかが重要で、4年間では合計で30~35程度の科目になる。その組み合わせでカリキュラムが構造化される。(P63~64より)
「日本の大学は入るのが難しく、出るのが易しい。米国では、入るのが易しい(?)が、出るのが難しい」といった余りに有名な一般論の源は、実は高校でやることが余りにももハイレベルで、いや、高校球児の練習や規律が厳しいごとく、10代の少年少女を鍛え上げてもいるということです。その競いあう舞台が甲子園であるように、日本の2月の入試の場になっているわけです。これは必然的に、勝ち残りサバイバルゲーム、オリンピックの代表候補を決めるレースの如くに、大学入試合格がしんどくなるわけです。
でも、そうした彼らも、いざキャンパスに足を踏み入れてみると、高邁な向学心を抱いていた連中でさえも、生ぬるい現実に浸される。「楽勝科目は?えぐい科は?捨て科目は?」といったように科目登録の段階で“利敏く”なっていく、要領よく単位をとり、あとはアルバイトや就活へと意識が傾いてゆくのが日本の学生の<悲しくも滑稽な性>でもあるのです。その姿は、健気で、ひたむきな志を抱き、エリート官僚となった霞が関の新卒の若者も、悪い意味での政治家気質に染まってゆくのと同じ轍を踏む運命が待ち構えているのと同じことです。『大学はもう死んでいる?』(集英社新書)という本が、最近でましたが、この吉見氏はこの新書の筆者の一人です。この抜粋の主旨を改めない限り、日本社会を下支えしている大学という高等教育機関は、一種“脳死”状態のままと言わざるをえないと指摘しているように聞こえてきます。
さて、ここでであります。この日本の大学の“履修科目が米国の2倍以上”という指摘、それを、中等教育にも波及、汚染させようとするのが、今般の高大接続教育の病根であります。さらに、初等教育にも、科目の多種化による、「広く浅く」主義があてはめられようとしています。“「深く」は経済的余裕のある個人でやってくださいね”と言わんばかりの方針です。
大学の第二外国語(独仏西など)は、キャンパス内の授業だけでは到底、使える能力の域には至らないことは、私個人が、フランス語で体験済であります。公認会計士や弁護士とて同じであります。ダブルスクールとしてTACなり伊藤塾なりに通わなければなれないのが現実です。ロースクールとて同じことです。アメリカのそれとは趣を本質的に異にしています。グローバルスタンダードと称して文科省が猿真似をして一番の教育的失敗作が、日本の法科大学院なのです。法学部、商学部と称していながら、科目に重きを置かず、学部の建前で成り立っている実態を顕在化してもいる証左です。法学部や商学部で何を学んだかではなく、その学部を通過した、出た、それだけで日本社会は、評価判断されてしまうというのが吉見氏の指摘でもあります。
こうした日本の大学の悪しきカリキュラム的慣習を、中学や小学校にも波及させよとするのが、まさしく今の文科省、安倍政権の魂胆です。国語という高校の教科も、国語総合から、論理国語と文学国語とに分離する、股裂き状態にする、一種の多科目化も、亡国へと向かう一里塚の象徴です。個人的意見ですが、英語に関して、受験生や親御さんたちに4技能を強烈に意識させた{※共通一次は読み、センター試験は読み・聞く、そして、大学入学共通テスト(2020年度では、読み・聞く・書く・話す)}今般の頓挫した民間資格系試験の新テストの採用、数十万人対象のマークシート方式に論述形式の採用、公的マンモス試験においてさえ、悪しきダイバーシティー主義の台頭の側面を物語ってもいます。複雑怪奇にして、魑魅魍魎の、<鵺的化け物テスト>の出現です。本来なら、結構それなりにかわいい女子大生、個性的でどこか惹きつける顔立ちの30代女性、それを無理やり、数百万、数千万もかけて美容整形して、不自然な顔立ち、グロい美しさの容姿、異様な顔になってしまった女学生やOLを、安倍政権の教育改革から、想起せざるをえません。
デフレ、モノ余り社会で、量販店(スーパー)に客足が遠のいた一番の原因は、“何でもあるが欲しいものがない”、この1点に尽きます。それに対して、百貨店(デパート)は、“欲しいものがたくさんあるが、手が届かない(買えない)”ため、またライバルのファーストファッションの台頭とモノよりコト消費社会への移行、この2点がデパート業界を斜陽産業にもしている大きな原因です。
スーパー{※簡単に単位が取れる}が日本の大学、デパート{※単位を取るのが難しい}が、米国の大学とも準えなくもない。スーパーで買った衣服は、あまり愛着が湧かず、リサイクルショップはもちろん、メルカリでもほとんど売れない。しかし、デパートで購入したブランド服は、古着屋はもちろん、ネットでも買い手がつく現実は、日本の大学のMBAとハーバードのMBAの違いに思えて仕方がありません。
いわば、“日本の大学が何でも教えてくれるが、何も身につかない”現象を高等教育の段階でもたらしているという高見氏の指摘は、日本の大学のスーパー業界の姿と皮肉にもパラレルにもなっている様は悲劇的滑稽さを感じずにはいられません。このスーパー的日本の大学の悪しき教育的慣習を、小学校の段階にまで波及させるのが、小学校からの英語やプログラミングであると、つまり、シュウマイ弁当や焼き肉弁当といった専門性の高い弁当を本心では食べたいにもかかわらず、小学生に何でも入っている幕の内弁当を、大人目線で与えようとしているとしか思えないのです。
ヴァイオリニストで、毒舌家タレントでも有名な高嶋ちさ子は、ある番組で、自身の子供の習い事に関して次のように語っていたことが日本の小学校のカリキュラムの将来像を物語っているように思えて、ニヤリとさせられました。
「うちの子どもには、20くらいの習い事をやらせたけど、今では何一つものになっていない。金の無駄だったわ!ったくもう!」
これは、裕福な芸能人のレベルなので、洒落にもなりますが、ことが、国レベルの初等教育ともなれば、洒落では済まされなのです。
私が何度も引用する名言ですが、
「小学校で必要なのは、1に国語、2に国語、3,4がなくて、5に算数。英語、パソコン(プログラミング)、そんなのどうでもいい」(藤原正彦)
この言葉が、古いと観るか、真実と観るか、その答えは、数十年後の日本社会しか教えてはくれません。