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コラム
共通テストは学校や参考書からどんどん乖離してゆく!
2021年度の共通テストの数ⅠAの点数が共通一次試験、そしてセンター試験を通して最低の点数であったことが先日報じられた。
センター試験の初期から、私の記憶では、NHKの夜7時のニュース番組などで試験会場から出てくる高校3年生などにアンケートしたその回答は、次のようなものが多い。
「全くダメでした」「難しかった」「時間が足りなかった」「全く傾向が変わった」などなどで、まずもって、「思った以上にできた」「易しかった」「余裕だった」「予想どおりだった」こうした、勝ち組、余裕派、幸運派といった生徒の声は、放送局の意図なのか、悲劇的声の方が、同調圧力的に報道番組に共感されるのか、予定調和的受験報道が毎年の如く画面に映し出されてもくる。やはり、そうした<試験負け組の声>というものが、信憑性が高いと踏んだ前提で、これからまだ2回しか行われていない大学入学共通テストなるものを評してみたい。
まず単刀直入に、結論を申しあげれば、昭和の共通一次試験、平成のセンター試験、そして、令和の大学入学共通テストの決定的な違いとは、学校で学んだこと、生徒が自身で参考書なりで学んできたこと、これが、共通一次から、センター試験、そして共通テストと変化するに従い、その教えてもらった、努力して覚えた内容が、全く反映されないシステムといいおうか、問題構成となっている点にある。これは、昭和の時代、2次試験の前段階で、基礎を試す第一関門となっていた試験が、平成となるや、私大の参入もあり、その基礎に作問上プラスα{※学校の授業だけ6割前後しかとれないからくり:この作為が悪趣味的になってきている}の応用といおうか、駆け引きといおうか、生徒自身のプラスαが求められる領域に入っていった。その典型が、センター試験の英語におけるリスニング50点の導入である。このリスニングテストなるものは、学校の週5~6時間の授業の中で高得点が得られる代物ではない。生徒各自が、自宅やスタバなどでスマホやウォークマン、またCDラジカセなどで日々努力しなければ身につかない領域のものである。ここに、学校の授業の限界がある、リスニングの要諦を指導くらいはできるが、そのトレーニングは個人で行わねばならない。
センター試験にリスニングが導入され始めた初期のことだが、「どうすればリスニング対策できますか?」「どうすればリスニングで点数がとれますか?」といった質問をよくされたものである。これに対して、私は、「リスニングなるものは、日々の英語学習における生活習慣病のように、毎日、音読と音声学習の努力を怠らないか否かで命運が分かれるますよ」と応じてもきた。「学校で週一、二回外国人の授業を受けたくらいでは、伸びませんよ」と、突き放すように応じてもきた。
今や、令和に改悪された入学共通テストの英語の配点が、リーディング100点、そして、リスニング100点と、まさしく学校、塾・予備校、また、参考書などがフォローしてあげる領域の限界、そして無益さという実態が露わになってきた。もはや、この共通テストの正体は、論理力・表現力・思考力などを謳いい文句としていながらも、学校や塾予備校の効力を無化する、まるで、習近平が行った塾禁止令に等しい代物になれ下がった感が否めない。英語にしろ、数学にしろ、国語にしろ、教室や参考書で勤勉に努力した、それを、文科省は、無機質な丸暗記と批判してもいるのだが、そうした生徒の努力を全面否定する作問コンセプトの正体見たりと指摘したい。実は、このコンセプトから中高の学校当局は、それに対応する授業をしてくださいというメッセージも発しているようだが、その上意下達の方針が学校の学びの授業を、英検対策やTOEIC対策へと駆り立てる悪循環を呼び込む事態を文科省などは予見できていないらしい。入試を変えれば教育が変わる、教育が変われば現場の学校が変わる、その現場の授業が改悪へと向かう事態に気づいていないらしい。
今般の数ⅠAの問題にしろ、思考力を試す問題とは、数学門外漢ながら、とても言えない。現代文の知識・解き方{※それをお上目線では、論理力・思考力とすり替える}や、IQテスト{※努力以前の先天的要因・資質を試す}の形式が混ざり合っている変質問題、それを私は、このコラムでも、そこそこに可愛い顔立ちの少女が、何回も美容整形し、異様な“かわいらしさ”の美的サイボーグ美少女に変わり果てたようなものだと指摘してきた。一種、鵺(ぬえ)的、正体も判明しない化け物的試験問題になれ下がったとだけは言っておこう。
この50万人も受験する、大学生になるための関所、これを通りたくない高校生は、中学生は、そして小学生(これは親が案じてのことだが)は、附属校や、その系列校へ進学する。また、公立の中学生も、同様である。高校生になって、この<化け物共通テスト>の正体{学校や塾予備校では力にならない}を知った者は、私大の一般入試に、また、国公立の二次試験で一発逆転できる大学を目指すことにあいなるのである。更には、AOやら推薦ルートで大学に滑り込もうとする。私から言わせれば、昨年コロナ禍で二次試験を中止して、第一回大学入学共通テストの点数だけで学生を篩にかけた横浜国立大学などは、“クソ大学”と烙印すら押してもいい。その横国の幹部は、コロナ禍で、蔓延防止法で、飲食店にターゲットを絞る、飲食店だけをスケープゴートにするバカ政策しかできない思考停止の政府連中と同じお頭(つむ)の連中でもある。
昭和、平成、令和と政治家の質が低下してきているとも言われます。また、それに比例するかのように、経済界も劣化してきている。デフレ不況で、国民には、コスパ思想{=最小の努力で最大の効果を求めるという学習態度}がはびこってもいる。政治家の質の低下は民度の顕れともいう。その悪循環が、教育、特に、この共通一次、センター試験、入学共通テストといった変遷の中にリアルに反映されてもいる。役人劣化の象徴が、かの文科省でもある。その文科省が、吝嗇なる財務省に御されてもいる。
試験制度だけではない。教科書も同様である。国語が、文学国語と論理国語とに股裂き改革が断行された事実も、効率性・有用性・便宜性などといった<役に立つ信仰>が、教育の場にはびこってもいる事実は、一部の賢人しか憂いの声を上げてはいない。
センター試験の初期から、私の記憶では、NHKの夜7時のニュース番組などで試験会場から出てくる高校3年生などにアンケートしたその回答は、次のようなものが多い。
「全くダメでした」「難しかった」「時間が足りなかった」「全く傾向が変わった」などなどで、まずもって、「思った以上にできた」「易しかった」「余裕だった」「予想どおりだった」こうした、勝ち組、余裕派、幸運派といった生徒の声は、放送局の意図なのか、悲劇的声の方が、同調圧力的に報道番組に共感されるのか、予定調和的受験報道が毎年の如く画面に映し出されてもくる。やはり、そうした<試験負け組の声>というものが、信憑性が高いと踏んだ前提で、これからまだ2回しか行われていない大学入学共通テストなるものを評してみたい。
まず単刀直入に、結論を申しあげれば、昭和の共通一次試験、平成のセンター試験、そして、令和の大学入学共通テストの決定的な違いとは、学校で学んだこと、生徒が自身で参考書なりで学んできたこと、これが、共通一次から、センター試験、そして共通テストと変化するに従い、その教えてもらった、努力して覚えた内容が、全く反映されないシステムといいおうか、問題構成となっている点にある。これは、昭和の時代、2次試験の前段階で、基礎を試す第一関門となっていた試験が、平成となるや、私大の参入もあり、その基礎に作問上プラスα{※学校の授業だけ6割前後しかとれないからくり:この作為が悪趣味的になってきている}の応用といおうか、駆け引きといおうか、生徒自身のプラスαが求められる領域に入っていった。その典型が、センター試験の英語におけるリスニング50点の導入である。このリスニングテストなるものは、学校の週5~6時間の授業の中で高得点が得られる代物ではない。生徒各自が、自宅やスタバなどでスマホやウォークマン、またCDラジカセなどで日々努力しなければ身につかない領域のものである。ここに、学校の授業の限界がある、リスニングの要諦を指導くらいはできるが、そのトレーニングは個人で行わねばならない。
センター試験にリスニングが導入され始めた初期のことだが、「どうすればリスニング対策できますか?」「どうすればリスニングで点数がとれますか?」といった質問をよくされたものである。これに対して、私は、「リスニングなるものは、日々の英語学習における生活習慣病のように、毎日、音読と音声学習の努力を怠らないか否かで命運が分かれるますよ」と応じてもきた。「学校で週一、二回外国人の授業を受けたくらいでは、伸びませんよ」と、突き放すように応じてもきた。
今や、令和に改悪された入学共通テストの英語の配点が、リーディング100点、そして、リスニング100点と、まさしく学校、塾・予備校、また、参考書などがフォローしてあげる領域の限界、そして無益さという実態が露わになってきた。もはや、この共通テストの正体は、論理力・表現力・思考力などを謳いい文句としていながらも、学校や塾予備校の効力を無化する、まるで、習近平が行った塾禁止令に等しい代物になれ下がった感が否めない。英語にしろ、数学にしろ、国語にしろ、教室や参考書で勤勉に努力した、それを、文科省は、無機質な丸暗記と批判してもいるのだが、そうした生徒の努力を全面否定する作問コンセプトの正体見たりと指摘したい。実は、このコンセプトから中高の学校当局は、それに対応する授業をしてくださいというメッセージも発しているようだが、その上意下達の方針が学校の学びの授業を、英検対策やTOEIC対策へと駆り立てる悪循環を呼び込む事態を文科省などは予見できていないらしい。入試を変えれば教育が変わる、教育が変われば現場の学校が変わる、その現場の授業が改悪へと向かう事態に気づいていないらしい。
今般の数ⅠAの問題にしろ、思考力を試す問題とは、数学門外漢ながら、とても言えない。現代文の知識・解き方{※それをお上目線では、論理力・思考力とすり替える}や、IQテスト{※努力以前の先天的要因・資質を試す}の形式が混ざり合っている変質問題、それを私は、このコラムでも、そこそこに可愛い顔立ちの少女が、何回も美容整形し、異様な“かわいらしさ”の美的サイボーグ美少女に変わり果てたようなものだと指摘してきた。一種、鵺(ぬえ)的、正体も判明しない化け物的試験問題になれ下がったとだけは言っておこう。
この50万人も受験する、大学生になるための関所、これを通りたくない高校生は、中学生は、そして小学生(これは親が案じてのことだが)は、附属校や、その系列校へ進学する。また、公立の中学生も、同様である。高校生になって、この<化け物共通テスト>の正体{学校や塾予備校では力にならない}を知った者は、私大の一般入試に、また、国公立の二次試験で一発逆転できる大学を目指すことにあいなるのである。更には、AOやら推薦ルートで大学に滑り込もうとする。私から言わせれば、昨年コロナ禍で二次試験を中止して、第一回大学入学共通テストの点数だけで学生を篩にかけた横浜国立大学などは、“クソ大学”と烙印すら押してもいい。その横国の幹部は、コロナ禍で、蔓延防止法で、飲食店にターゲットを絞る、飲食店だけをスケープゴートにするバカ政策しかできない思考停止の政府連中と同じお頭(つむ)の連中でもある。
昭和、平成、令和と政治家の質が低下してきているとも言われます。また、それに比例するかのように、経済界も劣化してきている。デフレ不況で、国民には、コスパ思想{=最小の努力で最大の効果を求めるという学習態度}がはびこってもいる。政治家の質の低下は民度の顕れともいう。その悪循環が、教育、特に、この共通一次、センター試験、入学共通テストといった変遷の中にリアルに反映されてもいる。役人劣化の象徴が、かの文科省でもある。その文科省が、吝嗇なる財務省に御されてもいる。
試験制度だけではない。教科書も同様である。国語が、文学国語と論理国語とに股裂き改革が断行された事実も、効率性・有用性・便宜性などといった<役に立つ信仰>が、教育の場にはびこってもいる事実は、一部の賢人しか憂いの声を上げてはいない。
2022年1月24日 17:17