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HOME > コラム > 大学共通テストのアンケート調査から見えてくるもの
コラム
大学共通テストのアンケート調査から見えてくるもの
2018年10月4日の朝日新聞の一面の特集のです。
大学共通テスト「利用したい」7割{昨年のアンケート9割に比べ‘7割しか’といったニュアンスです!減少したということです。}
この見出しは、国公立・私立を含め、日本の大学に、朝日新聞・河合塾共同でアンケート調査した数字です。
これから、意地悪な見方、斜に見た観点、穿った見方、言い方は色々ですが、今般の2020年を境目とする、入試の方法に関して、一般の親御さんにもわかるようにご説明したいと思います。
この7割の数字に除外された、「利用しない」の3割は、いかなる大学でありましょうか?それは、恐らく、大方は、従来のセンター試験というマークシートから記述方式に切り替わることによる、受験生の激減を懸念し、一種、敵前逃亡ならぬ、難問による受験生逃亡回避策として、利用しない。つまり、こんな形式の入試問題では、ただでさえ、理系離れに端を発した、数学回避、受験科目1~2科目でも可大学が激増している受験御時世で、レベルの低い大学の、大学共通テスト敵前逃亡とも呼んでいい現象でありましょう。言い換えれば、ずる賢い、受験商機に長ける大学関係者が、馬鹿な高校生を、呼び込む、囲い込む方策ともいっていい姿勢が透けて見えるのです。「うちの大学では、あの記述形式の難しい、頭に汗をかく問題をしなくも入れますよ!」の大看板を掲げたようなものなのです。
それでは、この7割の「利用する」と答えた大学の2~3割が、実は、このテストの結果予想ができず、楽観的観測でいる、おめでたい大学とも言えるグループです。予備校・塾などの教育産業の中枢にいる方なら、存じ上げているはずです。恐らく、レベルが国公立の中堅校やMARCH以下で、センター試験を取り入れてきた私立大学においては、その受験する高校生は、記述形式の問題であれば、ほとんど白紙状態で提出する羽目となるということを。大学入試問題の、英語に関してですが、最後の設問でよくある形式で、100字以内での自由作文の問題でよく起こる現象です。それは、時間の足りなさも当然ありましょうが、実力のなさが主な原因で、いい加減、また、ほぼ白紙で提出、そして、落ちるという、到って明白な受験現象と同じことが、数学や国語にも必然的に起こるということを。この「利用する」と答えた大学関係者は、その受験生のうち、1~2割程度は、きちっと記述問題に取り組み、結果的に60~70点くらいの点数を取り合格はするが、一方で、8割以上の受験生は、記述問題には手を付けず、その連中の平均点は、20~30点になるといういびつな得点分布現象を生むことになるということを、まさに、現代の世の中が格差社会{1割の金持ち層、3割の中間層、6割の貧困層}であることを、受験生の得点分布にも映し出されてしまうという皮肉です。そして、そのできない受験生の、本来なら、ミドルゾーンも底辺ゾーンも、見分けられたセンター試験{優秀層3割、比較的できる層2割、標準層2割、お試し受験層3割}から、むしろ、瑕疵学生が多数入学しかねない現象すら生みかねないということを予測できていないのです。
このたびの安倍政権の入試改革は、英語にしてもそうですが、大学入試を変えなければ、日本の中等教育、そして、初等教育も変えることができないといった論理で、一種、質や理念は、申し分ないのだが、理想に走り過ぎ、現場・現実が目に入らぬ、将軍様のご威光にそった改革、殿様大名の思い描く庶民改革、こうしたものと同じ、理想と現実の乖離といった悪しき方向へと人々を導くような愚策なのです。道徳教育にしろ、教科書検定にしろ、いじめ撲滅を担当する第三者委員会、また教育委員会など、その大元締めの文科省は、盲腸のような存在、安倍首相の忠犬になりかけてもいる。大学などへの、補助金・助成金・交付金を武器にして、今般の大学共通テストや英語の資格系試験の採用にしても、「採用しなければ、金を出さないぞ」と脅してもいる実態は、国民にも想像に難くない。東大が、2021年に英語の資格系試験を採用しないと英断を下しました。この国から一番補助金をもらっている、しかも、日本の最先端技術の命運をも担っている大学には、脅しがきかないジレンマに今、文科省がいるのは小気味いい次第です。
この記述形式の大学共通テストは、理想に走りすぎてもいる。例えば、PISAの基準で日本の学生の学力を計るとか、CEFRによる基準で、英検やTOEICなどの得点を評価するとか、欧米人の身体に合う服を、その基準で日本人にも当てはめて作るくらい不自然なのです。この点は、相当批判もあるでしょう。今は、それに対して、字数もなく、横道に逸れるので、言及しません。では、その根拠をこれからお話してみようかと思います。
中学受験でいう、超進学校、例えば、灘や開成、麻布といった学校の入試問題は、ある意味、非常によく練られ、良質な12歳の少年を選別し、掬い取るには“良問”とされています。しかし、見方を変えると、こうした中学の問題は、標準的な小学生は勿論のこと、ちょっと勉強が出来る、プチ秀才のサピックスや日能研に通う少年には、超難問に映るのです。東大や京大の2次の英語の問題が、MARCHが第一志望で勉強している高校生には、難問に思われるのと同じであります。文科省、いや、政府の連中は、この灘や開成の“良問”を一斉に、中学受験の際、全国の中高一貫校に課すように制度化したものが、粗削りの譬えながら、このたびの記述形式をも取りいれた数学や国語などの問題なのです。
神奈川県を例に挙げます。聖光学院や栄光学園の入試問題がいい、素晴らしい、だから、いい生徒(優秀な勉強ができる生徒)が沢山入学してくる。だから、この‘良質’の問題を、浅野、逗子開成、サレジオ、そして、桐蔭学園以下すべてで採用せよと命じる論理と同じものが、この大学入試共通テストの採用なのです。この、聖光・栄光の“良問”ではあるが、“難問”でもある入試問題は、地頭・IQの高低で、レベルの低い中学では、得点の余りの低さの母集団で、生徒セレクトの手段でもある中学入試問題足りえない。機能不全に陥り、入試問題の体を成さない事態とあいなる現実というものが文科省の連中は予見できないのであろうか?これも、私が常日頃、国の教育政策の批判の根拠にもなっている、無責任な理想主義・先を読めない楽観主義、そこそこ可愛くて、見方によれば、美人の部類にいる女子が、わざわざ、美容整形して、不自然な顔、見方によると、一種、異様な顔にしてしまうバカな、浅はかな、同じ行為が国の政策なのです。様々な可愛い顔があり、多様な美人顔というものがあって然るべきです。そこそこ可愛い少女、美しい女性が、十人十色なように、基準・レベルの高い理想的な試験で一斉選別をやったからといって、それだけ、玉突き現象的に、受験生は、それだけの努力・精進をするかといえば、実は、そうではない、楽で、いい加減な方向へと靡くメンタルを有しているのが、“コスパ”中心思想の現代っ子です。これは、ビジネス感覚をも有する、教育産業関係者また、賢明な,、一部の、いや大方の教師なら、とっくに了解している、現代の真実でもある。
以上が、2020年大改革のテストの質的側面に関してです。では、量的側面の問題点をこれから語ってみようかと思います。この点では、様々なメディア(新聞・雑誌)や書籍(様々な新書)などで、色々な学者や評論家、また学校関係者が、指摘していることを、一般の親御さんにも具体性が強く、分かりやすくイメージできる観点から述べてみたいと思います。
まず、国語に関してですが~これは数学や英語の一部の問題にも当てはまる~、一番典型的に、その記述形式の問題点を、大学入試の、それもセンター試験規模(数十万規模)で実施する欠点を指摘したいのです。つまり、その客観性の担保です。
例えば、麻布中学の国語の問題を、受験者1000名の中、合格者300名を採点するには、当校の国語科の教師10名前後で、それぞれ、曖昧な解答例を、話し合い、客観的に採点する可能性が高いと想像されます。それは、同じ職場で、気心の知れた者同士が、ある採点基準なりに基づいて、点数をつけるからである。教師同士の基準や判断にばらつきが生じる可能性が非常に少ないケースと言えます。
これが、私立の高校入試や県立高校のテストにおいても、ほぼ同様の記述テストにおける客観性の担保は、問題ではないだろうと思われます。
これが、こと、大学入試、それも東大の二次試験の記述のように、足切りで、受験者をセンター試験の点数で相当絞り込み、それを、一部の講師以上教授以下あたりが採点するなら問題もないであろうが、センター試験の代替テスト、それも母集団が数十万人規模、それも、日ごろ、顔も合わせたことがない講師や教授が、雑駁な{※答案用紙と一個人の採点官の主観性という魔物が介在しかねない状況での}採点基準に基づき、中学受験や高校受験の数倍から数十倍の数の受験生の答案用紙を捌く、処理する、その労力・知力・好みの偏在など、どうしてその客観性を担保することができましょうや?その保証とやらの根拠はどこにあると言えるのでしょうか?この点を曖昧にしたままの見切り発車であるのは、小学校英語の必修化と同じものであるとさえ言えます。不安な小学校の教師が、大方英語を初等教育で教えることを考慮せず、しかも、これらの、初等教育における教師の英語の教え方のスキルやカリキュラムなど考えもせず、現場におっぽり投げの無責任体質と同様のものを感じざるをえないのです。ちょうど、ゆとり教育が無責任な理想主義が根底にあったのと同じ病巣でもあります。前向きで、有能な教師が大勢いるという前提で、しかも、やる気のある、勉強にはやり方次第でみな興味を持つものだといった、学習上の“性善説”に立った浅薄な理念が、現実に不適応、失敗した事例と同じものであると言わざるをえないのです。今般の記述形式の大学共通テストは、現場を混乱させるだけであるとさえ言えるのです。再度いいます。中学入試と高校入試は、出題者と採点官がほぼ同じであります。大学入試に関しては、出題者と採点官が完全に違ってきます。この点に、問題の本質が、記述問題に関しては、浮かび上がってくるのです。
更に、受験生も、記述形式の大学共通テストともなれば、翌日の自己採点が、不安・曖昧、不明と相成り、結果的に、二次試験への出願の見通しも立たなくなる、及び腰にもなるという、高校生にとっても、最悪の心理状況に追いやられてもしまうのです。
ここで何度も言います。繰り返して主張します。中学入試、高校入試の記述形式の問題の出題と採点、それと、大学入試におけるそれとの本質的・決定的な違いは、その問題作成者(開成学園)とその問題採点官(開成学園)が同じであるか、また、担当者(開成学園)が、客観的基準で採点できるか否か、それが、大学入試になると、出題者の意図と基準となる模範解答と、その採点官が、どれほどの開きがでてくるか、それは、前者の比ではない点が、評論家、学者、大学当事者も一番懸念している点なのです。従来のマークシートで、最低限、その実力をふるいにかけて、二次試験の記述問題で、その生徒の資質・能力を判別するという方式を、どうして破棄する決断をしたのか、結果の読めない理想主義、安倍政権で何か実績(教育的“レガシー”)を残そう{※森友・加計問題がまさしく安倍晋三の勇み足で、足をすくわれてしまったのです}、安倍政権のうちに、なんとか憲法改正の“レガシー”を残そうという目立とう精神・偉功が先にありき根性で、従来のよき、せいぜい‘まし’と言える共通一次・センター試験といった“レガシー”をも破壊しようとしている。もはや、保守ではなく、悪しき革新政治の被害者が、教育ジャンルの、それも中等教育の中高生なのです。
現在、「保守、保守」と、やたら、声高に叫ばれていて、野党でも、“保守”を否定しない今の日本で、恐らく一番、保守という概念を深く思索・哲学し、その本質を突き詰めている学者、東京工業大学教授中島岳志氏の弁です。神奈川新聞、2018年9月9日の記事からのものです。
「“保守”という言葉は今、インフレーションを起こして本質が見失われている。保守の中核は<人間は不完全だ>という考えであり、急進的な変化を避けて<永遠の微調整>を目指す思想、それが“保守”である」
「保守本来の懐疑主義的な人間観と革新的な理想主義は矛盾する。人間は間違えやすく、不完全な社会を生きなければならない」
「保守が大切にすべきなのは、歴史に分厚く蓄積された集合的な経験知です」
これらの言葉を、今般の安倍政権に突きつけてみよう、安倍政権は、一応、この場では教育問題に関してのみに言わせてもらいますが、似非保守、無責任革新政権と言わざるをえないのです。
大学共通テスト「利用したい」7割{昨年のアンケート9割に比べ‘7割しか’といったニュアンスです!減少したということです。}
この見出しは、国公立・私立を含め、日本の大学に、朝日新聞・河合塾共同でアンケート調査した数字です。
これから、意地悪な見方、斜に見た観点、穿った見方、言い方は色々ですが、今般の2020年を境目とする、入試の方法に関して、一般の親御さんにもわかるようにご説明したいと思います。
この7割の数字に除外された、「利用しない」の3割は、いかなる大学でありましょうか?それは、恐らく、大方は、従来のセンター試験というマークシートから記述方式に切り替わることによる、受験生の激減を懸念し、一種、敵前逃亡ならぬ、難問による受験生逃亡回避策として、利用しない。つまり、こんな形式の入試問題では、ただでさえ、理系離れに端を発した、数学回避、受験科目1~2科目でも可大学が激増している受験御時世で、レベルの低い大学の、大学共通テスト敵前逃亡とも呼んでいい現象でありましょう。言い換えれば、ずる賢い、受験商機に長ける大学関係者が、馬鹿な高校生を、呼び込む、囲い込む方策ともいっていい姿勢が透けて見えるのです。「うちの大学では、あの記述形式の難しい、頭に汗をかく問題をしなくも入れますよ!」の大看板を掲げたようなものなのです。
それでは、この7割の「利用する」と答えた大学の2~3割が、実は、このテストの結果予想ができず、楽観的観測でいる、おめでたい大学とも言えるグループです。予備校・塾などの教育産業の中枢にいる方なら、存じ上げているはずです。恐らく、レベルが国公立の中堅校やMARCH以下で、センター試験を取り入れてきた私立大学においては、その受験する高校生は、記述形式の問題であれば、ほとんど白紙状態で提出する羽目となるということを。大学入試問題の、英語に関してですが、最後の設問でよくある形式で、100字以内での自由作文の問題でよく起こる現象です。それは、時間の足りなさも当然ありましょうが、実力のなさが主な原因で、いい加減、また、ほぼ白紙で提出、そして、落ちるという、到って明白な受験現象と同じことが、数学や国語にも必然的に起こるということを。この「利用する」と答えた大学関係者は、その受験生のうち、1~2割程度は、きちっと記述問題に取り組み、結果的に60~70点くらいの点数を取り合格はするが、一方で、8割以上の受験生は、記述問題には手を付けず、その連中の平均点は、20~30点になるといういびつな得点分布現象を生むことになるということを、まさに、現代の世の中が格差社会{1割の金持ち層、3割の中間層、6割の貧困層}であることを、受験生の得点分布にも映し出されてしまうという皮肉です。そして、そのできない受験生の、本来なら、ミドルゾーンも底辺ゾーンも、見分けられたセンター試験{優秀層3割、比較的できる層2割、標準層2割、お試し受験層3割}から、むしろ、瑕疵学生が多数入学しかねない現象すら生みかねないということを予測できていないのです。
このたびの安倍政権の入試改革は、英語にしてもそうですが、大学入試を変えなければ、日本の中等教育、そして、初等教育も変えることができないといった論理で、一種、質や理念は、申し分ないのだが、理想に走り過ぎ、現場・現実が目に入らぬ、将軍様のご威光にそった改革、殿様大名の思い描く庶民改革、こうしたものと同じ、理想と現実の乖離といった悪しき方向へと人々を導くような愚策なのです。道徳教育にしろ、教科書検定にしろ、いじめ撲滅を担当する第三者委員会、また教育委員会など、その大元締めの文科省は、盲腸のような存在、安倍首相の忠犬になりかけてもいる。大学などへの、補助金・助成金・交付金を武器にして、今般の大学共通テストや英語の資格系試験の採用にしても、「採用しなければ、金を出さないぞ」と脅してもいる実態は、国民にも想像に難くない。東大が、2021年に英語の資格系試験を採用しないと英断を下しました。この国から一番補助金をもらっている、しかも、日本の最先端技術の命運をも担っている大学には、脅しがきかないジレンマに今、文科省がいるのは小気味いい次第です。
この記述形式の大学共通テストは、理想に走りすぎてもいる。例えば、PISAの基準で日本の学生の学力を計るとか、CEFRによる基準で、英検やTOEICなどの得点を評価するとか、欧米人の身体に合う服を、その基準で日本人にも当てはめて作るくらい不自然なのです。この点は、相当批判もあるでしょう。今は、それに対して、字数もなく、横道に逸れるので、言及しません。では、その根拠をこれからお話してみようかと思います。
中学受験でいう、超進学校、例えば、灘や開成、麻布といった学校の入試問題は、ある意味、非常によく練られ、良質な12歳の少年を選別し、掬い取るには“良問”とされています。しかし、見方を変えると、こうした中学の問題は、標準的な小学生は勿論のこと、ちょっと勉強が出来る、プチ秀才のサピックスや日能研に通う少年には、超難問に映るのです。東大や京大の2次の英語の問題が、MARCHが第一志望で勉強している高校生には、難問に思われるのと同じであります。文科省、いや、政府の連中は、この灘や開成の“良問”を一斉に、中学受験の際、全国の中高一貫校に課すように制度化したものが、粗削りの譬えながら、このたびの記述形式をも取りいれた数学や国語などの問題なのです。
神奈川県を例に挙げます。聖光学院や栄光学園の入試問題がいい、素晴らしい、だから、いい生徒(優秀な勉強ができる生徒)が沢山入学してくる。だから、この‘良質’の問題を、浅野、逗子開成、サレジオ、そして、桐蔭学園以下すべてで採用せよと命じる論理と同じものが、この大学入試共通テストの採用なのです。この、聖光・栄光の“良問”ではあるが、“難問”でもある入試問題は、地頭・IQの高低で、レベルの低い中学では、得点の余りの低さの母集団で、生徒セレクトの手段でもある中学入試問題足りえない。機能不全に陥り、入試問題の体を成さない事態とあいなる現実というものが文科省の連中は予見できないのであろうか?これも、私が常日頃、国の教育政策の批判の根拠にもなっている、無責任な理想主義・先を読めない楽観主義、そこそこ可愛くて、見方によれば、美人の部類にいる女子が、わざわざ、美容整形して、不自然な顔、見方によると、一種、異様な顔にしてしまうバカな、浅はかな、同じ行為が国の政策なのです。様々な可愛い顔があり、多様な美人顔というものがあって然るべきです。そこそこ可愛い少女、美しい女性が、十人十色なように、基準・レベルの高い理想的な試験で一斉選別をやったからといって、それだけ、玉突き現象的に、受験生は、それだけの努力・精進をするかといえば、実は、そうではない、楽で、いい加減な方向へと靡くメンタルを有しているのが、“コスパ”中心思想の現代っ子です。これは、ビジネス感覚をも有する、教育産業関係者また、賢明な,、一部の、いや大方の教師なら、とっくに了解している、現代の真実でもある。
以上が、2020年大改革のテストの質的側面に関してです。では、量的側面の問題点をこれから語ってみようかと思います。この点では、様々なメディア(新聞・雑誌)や書籍(様々な新書)などで、色々な学者や評論家、また学校関係者が、指摘していることを、一般の親御さんにも具体性が強く、分かりやすくイメージできる観点から述べてみたいと思います。
まず、国語に関してですが~これは数学や英語の一部の問題にも当てはまる~、一番典型的に、その記述形式の問題点を、大学入試の、それもセンター試験規模(数十万規模)で実施する欠点を指摘したいのです。つまり、その客観性の担保です。
例えば、麻布中学の国語の問題を、受験者1000名の中、合格者300名を採点するには、当校の国語科の教師10名前後で、それぞれ、曖昧な解答例を、話し合い、客観的に採点する可能性が高いと想像されます。それは、同じ職場で、気心の知れた者同士が、ある採点基準なりに基づいて、点数をつけるからである。教師同士の基準や判断にばらつきが生じる可能性が非常に少ないケースと言えます。
これが、私立の高校入試や県立高校のテストにおいても、ほぼ同様の記述テストにおける客観性の担保は、問題ではないだろうと思われます。
これが、こと、大学入試、それも東大の二次試験の記述のように、足切りで、受験者をセンター試験の点数で相当絞り込み、それを、一部の講師以上教授以下あたりが採点するなら問題もないであろうが、センター試験の代替テスト、それも母集団が数十万人規模、それも、日ごろ、顔も合わせたことがない講師や教授が、雑駁な{※答案用紙と一個人の採点官の主観性という魔物が介在しかねない状況での}採点基準に基づき、中学受験や高校受験の数倍から数十倍の数の受験生の答案用紙を捌く、処理する、その労力・知力・好みの偏在など、どうしてその客観性を担保することができましょうや?その保証とやらの根拠はどこにあると言えるのでしょうか?この点を曖昧にしたままの見切り発車であるのは、小学校英語の必修化と同じものであるとさえ言えます。不安な小学校の教師が、大方英語を初等教育で教えることを考慮せず、しかも、これらの、初等教育における教師の英語の教え方のスキルやカリキュラムなど考えもせず、現場におっぽり投げの無責任体質と同様のものを感じざるをえないのです。ちょうど、ゆとり教育が無責任な理想主義が根底にあったのと同じ病巣でもあります。前向きで、有能な教師が大勢いるという前提で、しかも、やる気のある、勉強にはやり方次第でみな興味を持つものだといった、学習上の“性善説”に立った浅薄な理念が、現実に不適応、失敗した事例と同じものであると言わざるをえないのです。今般の記述形式の大学共通テストは、現場を混乱させるだけであるとさえ言えるのです。再度いいます。中学入試と高校入試は、出題者と採点官がほぼ同じであります。大学入試に関しては、出題者と採点官が完全に違ってきます。この点に、問題の本質が、記述問題に関しては、浮かび上がってくるのです。
更に、受験生も、記述形式の大学共通テストともなれば、翌日の自己採点が、不安・曖昧、不明と相成り、結果的に、二次試験への出願の見通しも立たなくなる、及び腰にもなるという、高校生にとっても、最悪の心理状況に追いやられてもしまうのです。
ここで何度も言います。繰り返して主張します。中学入試、高校入試の記述形式の問題の出題と採点、それと、大学入試におけるそれとの本質的・決定的な違いは、その問題作成者(開成学園)とその問題採点官(開成学園)が同じであるか、また、担当者(開成学園)が、客観的基準で採点できるか否か、それが、大学入試になると、出題者の意図と基準となる模範解答と、その採点官が、どれほどの開きがでてくるか、それは、前者の比ではない点が、評論家、学者、大学当事者も一番懸念している点なのです。従来のマークシートで、最低限、その実力をふるいにかけて、二次試験の記述問題で、その生徒の資質・能力を判別するという方式を、どうして破棄する決断をしたのか、結果の読めない理想主義、安倍政権で何か実績(教育的“レガシー”)を残そう{※森友・加計問題がまさしく安倍晋三の勇み足で、足をすくわれてしまったのです}、安倍政権のうちに、なんとか憲法改正の“レガシー”を残そうという目立とう精神・偉功が先にありき根性で、従来のよき、せいぜい‘まし’と言える共通一次・センター試験といった“レガシー”をも破壊しようとしている。もはや、保守ではなく、悪しき革新政治の被害者が、教育ジャンルの、それも中等教育の中高生なのです。
現在、「保守、保守」と、やたら、声高に叫ばれていて、野党でも、“保守”を否定しない今の日本で、恐らく一番、保守という概念を深く思索・哲学し、その本質を突き詰めている学者、東京工業大学教授中島岳志氏の弁です。神奈川新聞、2018年9月9日の記事からのものです。
「“保守”という言葉は今、インフレーションを起こして本質が見失われている。保守の中核は<人間は不完全だ>という考えであり、急進的な変化を避けて<永遠の微調整>を目指す思想、それが“保守”である」
「保守本来の懐疑主義的な人間観と革新的な理想主義は矛盾する。人間は間違えやすく、不完全な社会を生きなければならない」
「保守が大切にすべきなのは、歴史に分厚く蓄積された集合的な経験知です」
これらの言葉を、今般の安倍政権に突きつけてみよう、安倍政権は、一応、この場では教育問題に関してのみに言わせてもらいますが、似非保守、無責任革新政権と言わざるをえないのです。
2018年10月29日 20:05