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HOME > コラム > アナログでいることは禅僧であることだ!
コラム
アナログでいることは禅僧であることだ!
「怪我の功名」「人間万事塞翁が馬」という人生訓がありますが、その“智慧”をちょいとばかり拝借して、吉田兼好ばりの天邪鬼論を、つまりデジタルに適応できない、またデジタルに乗り遅れた、乗り遅れかかっている方々へのエールをこれから語ってみます。
デジタル風速40メートルの“台風”{※これからますますグローバル化と並行して風速が増してくるでしょう!}の中、アナログの家に籠っていることは、<禅僧の如き修行>でもあります。むしろ、自身の人生の“智慧”が芽生える格好のチャンスと考えるもの一つの処世術的算段とも言えそうです。
安倍内閣で一番の手つかずの課題、役所の縦割行政改革と公務のデジタル化、また脱ハンコ文化などが菅内閣でいよいよ始まろうとしています。
ツイッターやフェイスブック、またユーチューブはもちろん知ってはいましたが、TikTokなるものまであることを最近まで知らなかったアナログ人間の私としては、ガラケー部族でもある。別に、様々なアプリや機能など一切必要とは感じてはいない人間でもあるからです。
近年ドコモから「ガラケーからスマホに切り替えませんか?今ならお得で、様々な特典がありますよ!」との営業勧誘が余りにもうるさいので、ドコモショップとやらに足を運び、話し合ったところ、既存のガラケー料金とアンドロイドという一種アイパットと似ている機種と二刀流でもスマホ一機の料金に1000円強加算するだけで利用可能と知り、それ以来ドコモのガラケーとアイパットのやや小型の携帯パソコンともいっていいいアンドロイドの二刀流の生活を送ってもいる。
以前テレビ番組で元TBSの吉川美代子アナウンサーが、出演タレント達がスマホで何かと写メをとり、スマホに無数の写真を撮りためている様を観て、「私は旅行をしても、どこかに行っても全く写真を撮りません。ましてや、何か食事のたびにスマホで写真を撮り、誰かに送信したりする心根が分かりません。旅行をしても、その光景を脳裏に焼き付けておく習慣にしています」と語っていたことが非常に印象的であったし、共感も覚えた。
そうです。何かとその場でスマホ写真を取り、即刻誰かメールを送るのが世の大勢です。インスタ映えという言葉が、何かと今ではファッションらしい。その感動的な場面に出くわしても、見事な料理を目にしても、まずはその場で写メしておこうという安易、安直な行為は、むしろその本当の景色や料理の見た目を上っ面にしか経験してはいないことに多くのスマホ族は気づいていないものです。
ツイッターで思ったことをつぶやくデジタル族や、短時間、TikTokで自身の行動をインフルエンスさせたり、ユーチューブで娯楽を味わったり、サブスクで何かを勉強しようとする高校生にしても、世の中を軽く、表層的に、サーフィンしているだけで、現実の令和という時代の実相をとらえていないものです。京都の街を車だけで、その道路だけから、車窓から眺めて、京都見物、京都観光した気分になっているのと同義であります。
この文明の利器でもあるスマホという便利な道具は、政治はもちろん、文化から個人のライフスタイルまで無意識に、<軽いもの>にしているようである。人生の濃密さをそぎ落としてもいる。
デジタル庁の発足で、「ああ、世の中はアナログじゃあ駄目なのね!」と思い、プライベートも“ペイペイ現象に同調”、“スマホ決済やんなきゃ根性”、“アマゾン生活どっぷり中毒”などなどに面舵いっぱい、私生活を大旋回しようとお考えの40代以上の方がいれば、それもまたよしとしましょう。人生いろいろ、個人もいろいろである。
私は、世のデジタルの大きな波に流されず、アナログを貫くことを、一種、大衆の<禅的生活>と呼びたいのです。
日本中の、禅宗の寺で修行されている僧たちは、寺にスマホはもちろん、テレビすら疎遠な生活を送っている。もちろん、一般庶民は、社会とのつながりが必須の会社員や公務員、また、アスリートや研究者など、文明の利器は必要である。むしろなくてはならないものです。コロナ禍でむしろデジタル化は一層加速してもゆく様相である。つまり必然です。
しかし、いったん足を止めて、世の時空の流れ・趨勢からわきに逸れるという、週一回の禅寺修行、今流行りの言葉でいえばマインドフルネスとでも申しましょうか、若者にはゲーム断食・スマホ断食、即ち、デジタルデトックスとでも申せましょうか、それこそが、<日常の禅的生活>というものです。そうした、時代や社会のデジタル旋風猛威の中で“負傷”しないよう、また負傷した際の心のメンテナンスを予備していなくてはならない。それは、法学部や経済学を出て、一流企業に就職し、その後2~30年後に思わぬ人生の壁(リストラや重い病、また離婚など)にぶちあった時、学部とは、また自身のスキルとは関係なしに、プライベートで、時に趣味として学んでいた哲学や思想、また、宗教、芸術などでもいい、それが、思わぬ救いとなることに似ているやもしれない。
そうした人文科学系というものは、このご時世流行りません。若いころ、誰も仏教や骨太の思想など意識が向かない、興味の対象すらならない。その手の書籍に関与すらしない生活を送っているものです。
新進気鋭の哲学者千葉雅也氏は、「動きすぎてはいけない」という一語で、世の若者に警鐘をならしています。スマホ中毒症こそ、動きすぎる部族であります。コラムニスト小田嶋隆氏は、インフルエンサーに扇動される群衆行為を「イワシ現象」と名付けましたが、これも昔から社会学の言葉で「バンドワゴン現象」としてありましたが、それが、メガ級、ギガ級になっている謂いでもあるのでしょう。
世の中のデジタル化の流れと人間個人レベルの精神内のデジタル化の流れのスピードは個人個人ちがいがあります。また、大方は、その時代のデジタル化の流れに生理的・心理的についてはいけないのが人間の性でもあります。20代で現在のデジタル化の流れについてゆけない者もいれば、50代でも、こてこてのデジタル生活を送っている者もいるわけです。確かに、デジタルネイティブは激増してはいるものの、その彼らも、いつかその流れに辟易する年齢に差し掛かってもくるのが<機械と人間>との文明上の悲しい、いや“幸福なる”関係です。その幸福感を感じ始めるのが、文明から文化へ軸足をシフトした時でもある。
決して古いなどとは思わないでいただきたい。
「信じることと知ること」というエッセイが小林秀雄にあるが、その真意は、知ることは、皆が知っているように知ることであるのに対して、信じることは自流に信じること、我流にしか信じることは不可能だということでもある。前者はデジタルへの心構えであるのに対し、後者は、アナログへの心的態度の比喩でもある。
「信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない。そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです」(『信ずることと知ること』)
ネット、スマホからは遍く物事を知ることはできます。しかし、そこから、何かに踏み出す、始める、行動することは不可能である。ネット社会で、昔からあったフェイクニュースがモンスター化してしまった。紙のメディア媒体では、フェイクはかわいいものであった。
アナログからしか、信ずるという態度は生まれません。アナログとは、ある意味、自身を制約の状況下に置くということです。信ずるという内発的な衝動がなければ、人間には“智慧”は生まれてはこないものです。仏教、キリスト教、イスラム教といった全ての宗教は、“行”が根本原理である所以です。その制約の多い戒律、禅でもいい、そこからしか、自身を守る“智慧”は生まれてはこないのです。宗教が、文化のルーツでもあることの真実です。
余談ながら、私が最も敬愛しているミュージシャン山下達郎の弁を添えておきます。日本における“King of Pops”が桑田佳祐であれとすれば、“God of Pops”こそ山下達郎とする所以は、弊著『ポップスの規矩』をお読みくださればご納得ゆくと思います。ネット配信はもちろん、CDよりLPレコードをマッキントッシュの真空管アンプとJBLのスピーカーで聴きたい気質の方こそが、このデジタル社会で、“文化”を作り出せるとも思うのです。
「なんでもそうだと思うよ。スタイルっていうのは、制約があるとこからどうやって切り拓くかってところから始ってくるわけだから。それこそ、楽器がなかったからア・カペラになったんだしね。だから、今みたいになんでも買えば手に入る、みたいなところでは、逆にスタイル作りにくいんだよ」(山下達郎の弁)『ポップスの規矩』
様々な電子楽器や録音技術が進歩した平成という時代では、リズム優先で、記憶に残るような美しいメロディーラインの歌がまったくなくなってしまったことも以上の真理が雄弁に物語ってもいます。
実は民芸運動で、世の無名なる人の作品に光を当て、世界的版画家棟方志功の恩人(発掘者)でもあった柳宗悦も同じことを語っています。
デジタル風速40メートルの“台風”{※これからますますグローバル化と並行して風速が増してくるでしょう!}の中、アナログの家に籠っていることは、<禅僧の如き修行>でもあります。むしろ、自身の人生の“智慧”が芽生える格好のチャンスと考えるもの一つの処世術的算段とも言えそうです。
安倍内閣で一番の手つかずの課題、役所の縦割行政改革と公務のデジタル化、また脱ハンコ文化などが菅内閣でいよいよ始まろうとしています。
ツイッターやフェイスブック、またユーチューブはもちろん知ってはいましたが、TikTokなるものまであることを最近まで知らなかったアナログ人間の私としては、ガラケー部族でもある。別に、様々なアプリや機能など一切必要とは感じてはいない人間でもあるからです。
近年ドコモから「ガラケーからスマホに切り替えませんか?今ならお得で、様々な特典がありますよ!」との営業勧誘が余りにもうるさいので、ドコモショップとやらに足を運び、話し合ったところ、既存のガラケー料金とアンドロイドという一種アイパットと似ている機種と二刀流でもスマホ一機の料金に1000円強加算するだけで利用可能と知り、それ以来ドコモのガラケーとアイパットのやや小型の携帯パソコンともいっていいいアンドロイドの二刀流の生活を送ってもいる。
以前テレビ番組で元TBSの吉川美代子アナウンサーが、出演タレント達がスマホで何かと写メをとり、スマホに無数の写真を撮りためている様を観て、「私は旅行をしても、どこかに行っても全く写真を撮りません。ましてや、何か食事のたびにスマホで写真を撮り、誰かに送信したりする心根が分かりません。旅行をしても、その光景を脳裏に焼き付けておく習慣にしています」と語っていたことが非常に印象的であったし、共感も覚えた。
そうです。何かとその場でスマホ写真を取り、即刻誰かメールを送るのが世の大勢です。インスタ映えという言葉が、何かと今ではファッションらしい。その感動的な場面に出くわしても、見事な料理を目にしても、まずはその場で写メしておこうという安易、安直な行為は、むしろその本当の景色や料理の見た目を上っ面にしか経験してはいないことに多くのスマホ族は気づいていないものです。
ツイッターで思ったことをつぶやくデジタル族や、短時間、TikTokで自身の行動をインフルエンスさせたり、ユーチューブで娯楽を味わったり、サブスクで何かを勉強しようとする高校生にしても、世の中を軽く、表層的に、サーフィンしているだけで、現実の令和という時代の実相をとらえていないものです。京都の街を車だけで、その道路だけから、車窓から眺めて、京都見物、京都観光した気分になっているのと同義であります。
この文明の利器でもあるスマホという便利な道具は、政治はもちろん、文化から個人のライフスタイルまで無意識に、<軽いもの>にしているようである。人生の濃密さをそぎ落としてもいる。
デジタル庁の発足で、「ああ、世の中はアナログじゃあ駄目なのね!」と思い、プライベートも“ペイペイ現象に同調”、“スマホ決済やんなきゃ根性”、“アマゾン生活どっぷり中毒”などなどに面舵いっぱい、私生活を大旋回しようとお考えの40代以上の方がいれば、それもまたよしとしましょう。人生いろいろ、個人もいろいろである。
私は、世のデジタルの大きな波に流されず、アナログを貫くことを、一種、大衆の<禅的生活>と呼びたいのです。
日本中の、禅宗の寺で修行されている僧たちは、寺にスマホはもちろん、テレビすら疎遠な生活を送っている。もちろん、一般庶民は、社会とのつながりが必須の会社員や公務員、また、アスリートや研究者など、文明の利器は必要である。むしろなくてはならないものです。コロナ禍でむしろデジタル化は一層加速してもゆく様相である。つまり必然です。
しかし、いったん足を止めて、世の時空の流れ・趨勢からわきに逸れるという、週一回の禅寺修行、今流行りの言葉でいえばマインドフルネスとでも申しましょうか、若者にはゲーム断食・スマホ断食、即ち、デジタルデトックスとでも申せましょうか、それこそが、<日常の禅的生活>というものです。そうした、時代や社会のデジタル旋風猛威の中で“負傷”しないよう、また負傷した際の心のメンテナンスを予備していなくてはならない。それは、法学部や経済学を出て、一流企業に就職し、その後2~30年後に思わぬ人生の壁(リストラや重い病、また離婚など)にぶちあった時、学部とは、また自身のスキルとは関係なしに、プライベートで、時に趣味として学んでいた哲学や思想、また、宗教、芸術などでもいい、それが、思わぬ救いとなることに似ているやもしれない。
そうした人文科学系というものは、このご時世流行りません。若いころ、誰も仏教や骨太の思想など意識が向かない、興味の対象すらならない。その手の書籍に関与すらしない生活を送っているものです。
新進気鋭の哲学者千葉雅也氏は、「動きすぎてはいけない」という一語で、世の若者に警鐘をならしています。スマホ中毒症こそ、動きすぎる部族であります。コラムニスト小田嶋隆氏は、インフルエンサーに扇動される群衆行為を「イワシ現象」と名付けましたが、これも昔から社会学の言葉で「バンドワゴン現象」としてありましたが、それが、メガ級、ギガ級になっている謂いでもあるのでしょう。
世の中のデジタル化の流れと人間個人レベルの精神内のデジタル化の流れのスピードは個人個人ちがいがあります。また、大方は、その時代のデジタル化の流れに生理的・心理的についてはいけないのが人間の性でもあります。20代で現在のデジタル化の流れについてゆけない者もいれば、50代でも、こてこてのデジタル生活を送っている者もいるわけです。確かに、デジタルネイティブは激増してはいるものの、その彼らも、いつかその流れに辟易する年齢に差し掛かってもくるのが<機械と人間>との文明上の悲しい、いや“幸福なる”関係です。その幸福感を感じ始めるのが、文明から文化へ軸足をシフトした時でもある。
決して古いなどとは思わないでいただきたい。
「信じることと知ること」というエッセイが小林秀雄にあるが、その真意は、知ることは、皆が知っているように知ることであるのに対して、信じることは自流に信じること、我流にしか信じることは不可能だということでもある。前者はデジタルへの心構えであるのに対し、後者は、アナログへの心的態度の比喩でもある。
「信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない。そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです」(『信ずることと知ること』)
ネット、スマホからは遍く物事を知ることはできます。しかし、そこから、何かに踏み出す、始める、行動することは不可能である。ネット社会で、昔からあったフェイクニュースがモンスター化してしまった。紙のメディア媒体では、フェイクはかわいいものであった。
アナログからしか、信ずるという態度は生まれません。アナログとは、ある意味、自身を制約の状況下に置くということです。信ずるという内発的な衝動がなければ、人間には“智慧”は生まれてはこないものです。仏教、キリスト教、イスラム教といった全ての宗教は、“行”が根本原理である所以です。その制約の多い戒律、禅でもいい、そこからしか、自身を守る“智慧”は生まれてはこないのです。宗教が、文化のルーツでもあることの真実です。
余談ながら、私が最も敬愛しているミュージシャン山下達郎の弁を添えておきます。日本における“King of Pops”が桑田佳祐であれとすれば、“God of Pops”こそ山下達郎とする所以は、弊著『ポップスの規矩』をお読みくださればご納得ゆくと思います。ネット配信はもちろん、CDよりLPレコードをマッキントッシュの真空管アンプとJBLのスピーカーで聴きたい気質の方こそが、このデジタル社会で、“文化”を作り出せるとも思うのです。
「なんでもそうだと思うよ。スタイルっていうのは、制約があるとこからどうやって切り拓くかってところから始ってくるわけだから。それこそ、楽器がなかったからア・カペラになったんだしね。だから、今みたいになんでも買えば手に入る、みたいなところでは、逆にスタイル作りにくいんだよ」(山下達郎の弁)『ポップスの規矩』
様々な電子楽器や録音技術が進歩した平成という時代では、リズム優先で、記憶に残るような美しいメロディーラインの歌がまったくなくなってしまったことも以上の真理が雄弁に物語ってもいます。
実は民芸運動で、世の無名なる人の作品に光を当て、世界的版画家棟方志功の恩人(発掘者)でもあった柳宗悦も同じことを語っています。
2020年10月12日 16:51