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「今の若者は・・・」という言説の今日的意味

 「最近の若者はなっとらん!」「近頃の若い者ときたら!」という愚痴は、古代エジプトのピラミッドの壁面にも記されていたそうである。どうも、自身の硬直した価値観で時代の変化が読めない、耄碌した感性として近年(高度経済成長が終わった頃)では捉えられている節がとてもある。昭和の時代、バラエティー番組の巨頭として君臨していていた司会者大橋巨泉ですら、「俺は、“今の若いもんは…!”という言葉があるが、絶対にこの言葉は使わない、大昔から言われている言葉で大嫌いだ!」と語っていたことが非常に印象深く記憶に残っている。ある意味で、若者に迎合した、時代を知ったかぶりに、“俺は耄碌してないぞ、時代の最先端を走ってもいるんだ!”宣言に聞こえた感があった。実際に彼は、その後、民主党から参議院議員{※すぐに辞職したが…}にもなっている。やはり、リベラル派は<時代に理解ありげなポーズをとる資質>がどうもあるらしい。
 
 この平成から令和にかけての現代、「今の若いもんは…」という言葉は確かに言い古されて、平成っ子には「何言ってのこのおやじは?」と、昭和のおじさん世代ですら「いや時代錯誤と思われやしないか?どうも時代がわかっていないと思われやしないかしら?」と禁句のように憚られる言葉ではある。この言葉を発することが時代錯誤の人間の烙印を押されかねない時代の気風にあるのは確かである。
 
 大衆消費社会からグローバル化、そしてデジタル化といった時代の波に、地球上では、SDGsという標語が、錦の御旗のように掲げれてもいる今日である。
 
 モラリスト渡辺一夫の言葉「人類はしょせんいつかは滅びるかもしれない、だったら抵抗しながら滅びよう!」、これがどうも地球上の人間に認知されはじめてきたらしい。だいぶ古くなるが、ローマクラブの「成長の限界」が改めて見直される時代にもなってきている証拠である。CO2の排出による地球温暖化と異常気象が人類にそれを気づかせてくれる典型的な例である。
 「よく地球が危ないと言われるが、地球なんか全然危なくない!危ないのは人間だ、人類が滅亡しても、“汚れちまった”地球という惑星は何十億年宇宙に残り続けるからだ。」と、昭和の時代、直木賞作家景山民夫は語ってもいた。
 
 良いか、悪いかは別として、もちろん、悪いに決まってはいるが、2020年のコロナ禍という事態は、デジタル化は別にして、人間のグローバル化にある種のブレーキをかけたことは確かである。世界のGDPが戦後初めてマイナスになることからも自明である。人々の生活スタイル、また、価値観を180度とまではいかないが、90度くらいは変えてしまったようでもある。
 
 朝令暮改という言葉があるが、近年までマイナスの意味で使われてきた。しかし、ドッグイヤーともいわれる時代の技術革新が生き馬の目を抜く勢いで日進月歩進化してもいる。むしろ、プラスの意味で使われるようになってきている。「変化への対応」これこそが、企業が生き残る理念であり、個人が出世していく知恵でもあるからだ。
 君子豹変・小人革面という言葉も、この21世紀では俚諺としての輝きをますます増してきている。明治天皇が、元勲にアドヴァイスされて洋装洋髪で国民(臣民)の前でお出になられたのは、ある意味、賢策でもあったであろう。
 紀元前数千年前から20世紀までの人類の進化・進歩の速度は、それ以後(20世紀以降)のスピードとはくらべものにならないものがある。火縄銃から戦艦大和までの武器の進化と、大和から原子爆弾までの破壊力の違いに比類匹敵するものといってもいい。
 
 「今の若い者は…!」という言葉は、単なる愚痴、時代遅れの価値観の顕れとこれまでみなされてもきた。しかしである。この「今の若い者は…!」という言葉で、時代の若者と対峙する姿勢、若者の壁となる先達としての気骨、敢えて「今の時代というものは…!」と立ちはだかる“しなやかなる頑固おやじ的”姿勢が必要であるように思えて仕方がないのである。
 文書の郵送から、ファックスの時代へ、そして、脱ファックス化の時流へ移行し、脱書類(紙媒体)化社会の到来、紙の書籍・辞書から電子書籍・電子辞書への移行、これは、人類進化の必然の流れでもあろう。アナログ化からデジタル化社会への進歩といってもいい。しかし、「今の若い者は…!」を援用するではないが、「今のデジタル化社会は…!」と愚痴る存在、感覚、いや“感性”とでも言おうか、それもある意味必要ではないかと思うのである。
 時代は、これまで「今の若者は…!」言い続けることで、その時代時代の若者は、「なにくそ!」とそれをはねつける気概で、上の世代の壁を打ち破ってもきた。ここに若者文化を洗練・選別するフィルター、いや、篩の役割というものがあった。保守派の論客でも、ビートルズの音楽を否定した三島由紀夫と『なんとなくクリスタル』(田中康夫)のセンスを認めた江藤淳などが対照的でもある。因に、遠藤周作がビートルズを、そこそこ評価していたのは意外でもある。さすが狐狸庵先生である。
 
さて、この言葉と若者のせめぎ合いの中で、人類の風俗習慣、いや、文化とでも言おうか、それは、これまで進化、そして前進もしてきた。アメリカ社会が、保守(共和党)とリベラルの(民主党)の牽制し合いの中で、どうにか<自由と人権>を保持してきたように、この「今の若い者は…!」という守旧的言説の壁が、若者の無用・不要な時代文化の変容にブレーキ役を果たしてもきたのも確かである。この「今の若者は…!」という言葉を人類が発しなくなったら、ブレーキのない新幹線かF1カーとなりかねない。
 「今の若者は…!」は、人類の弁えてきた無意識の“智慧”であると捉える感覚が今ほど自覚する時代はないとさえ言える。
 親子関係も兄弟姉妹のような父子(母娘)がリベラル派家庭であるとするならば、依然として、頑固おやじで厳しい上下関係のある父子や厳格な規律で躾ける母娘関係の家庭といった存在が、保守的家庭である。しかし、世の中には、そうした家庭もなくてはならない。いや、絶対に必要なのである。「今の若者は…!」という言葉は、立ちはだかる“盾”のように若者に言い続けていかなくてはならないものである。それは、ヴァーチャル社会になっても、リアルの側面を残し続けていかなくてはならないことが、人間社会の真実であり、社(会)是でもあるところと似た面がある。
 
 最後になるが、この「今の若者は…」を発する上で、大人の連中が肝に銘じておかなくてはならない点がある。それは、感情のおもむくままに、主観的に、その場で思いつくままに発してはいけないとうことである。
 
 ある程度の良識、少しの知性に裏打ちされた“みずみずしい感性”に基づいた発言でなければならいということである。喩えは少々飛躍もするが、<映画界出身の女優吉永小百合、宝塚出身の女優大地真央の若々しい外見{※今の若者は見た目重視!}>と<ユーミンや林真理子のような内面の若々しさ、つまり、内面での“論理的感性”>と例えてもいい、そうした“みずみずしい感性”を持った上で、確信犯的に「今の若者は…」と発するのならば、その人は、この禁句の免罪符・使用許可書を有しているも同義なのである。
 
 
 

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