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コラム
イチローのバットと感性
変わらないこと、軸足を決めていること、矛盾しないこと、などなど色々の辞書的定義ができるが、ここで、あるアスリートとパティシエのエピソードを交えて“ブレない”とは一体どういうことかについて語ってみたい。と申すのも、この“ブレる”ということが、実は自身の感性を一番老いさせる要因の一つともなるからである。“ブレない”とは、頑なこと、頑固なこと、これを良く解釈して<自身に基軸を持つ>こと、そういった意味で考えてもいる人も多いと思うが、その先まで具体的に語ってきた文章にお目にかかったことがない。つまり、これから語ることは、ちっとした“ブレない考”といったものである。
今や生きるレジェンドと化した安打製造機こと、野球人のイチローのバットについてである。彼のバッティングフォームは、日本にいた時、メジャーで活躍した時、むしろ毎年毎年変化していたことは余りにも有名である。それもであるが、前年度が最高のアベレージを上げた年でさえ、次の年度に、敢えてファームを変えているのである。常人の中には、「去年のファームが最高だったのに、どうしてわざわざ変えるのか?」と批判交じりに凡人野球評論家などは指摘する人が多かった。
イチローは、自身のバットをオリックス時代に日本の最多安打(210本)を樹立した時のモデルをメジャーでも一貫して使用し続けていたそうである。恐らく、イチローの黄金時代ともいえるマリナーズ在籍時代まで、そのバットの形状を20年近く維持していたのである。これは、プロ野球人としては、異常なことと言われている。周りからは、普通スランプや、体力の衰えなどを考慮して、ほとんどの野球選手は、毎年とまではいわなくても、数年に一度はバット職人にモデルチェンジを依頼し、その年齢や技術の側面を加味して、微調整{※グリップの太さ、ヘッドの形、重量など}しているのが一般的でもあるからだ。あの松井秀喜ですら、何度もミズノの名工に理想的なモデルチェンジを依頼してきたほどである。
しかし、イチローは、自身のバット、21歳の出会いの頃の“恋人”に一切手を加えてはいなかったという。それは何故なのか?
確か、イチロー本人か、スポーツ評論家(永谷脩?)か、どちらかは忘れてしまったが、次のように語っていたことが、なるほど!とさすがイチロー、修行僧・鉄人アスリートと感じ入った記憶がある。
最多安打(年間210本)を記録した年のそのバットと自身の身体の塩梅、フィット感といったものが、一番自身にとっては理想的な関係性を生み出していた。その感触というものをいつまでも保ちたい、維持しておきたい、その思いで、その年のバットのモデルをそのままにしてきた。あの記憶が脳裏から離れないのである。最高の成績を残しても、その次の年は、絶対に肉体は変化なり、衰えるなり、また、筋肉がつき向上する時すらある。自身の身体の変化は、天候が毎日変わるように、毎年良い悪い両面で変化する。だから、前の年と同じバットと自身の肉体関係は必然的に維持できなのが、科学的、生物学的な摂理でもある。よって、自身のスランプや体力の低下などで、その都度バットをコロコロ変えていったら、技能(テクニック)の袋小路に入ってしまい、むしろ、あの21歳の頃の理想的な関係が永遠に遠ざかっていってしまう。バットだけでも、あの時のままのモデルであれば、自身の身体の必然の変化に適応して、バッティングフォームを微調整するだけでいい。だから、敢えて、毎年毎年、たとえ前年度が最高のアベレージを上げたとしても、その年は、凡人には、「去年のフォームの方がよかったのに!」といぶかられるほど不可思議に思われる自身のバッティングの改造・改革を行ってもきた。変わらないために、敢えて変えてきた。これは、常人には、表面的に変わっているように見える。しかし、この変わらないために、変えることというプリンシプルこそ、メジャーで毎年200本安打以上の大記録(10年間連続200本安打以上)、そして、メジャー最多安打(年間262本)の金字塔まで打ちたてることができたのである。
これぞ、“ブレない”という本義でもある。
では、もう一人、一流パティシエから超一流ショコラティエへ豹変した青木定治氏のエピソードを語るとしよう。これは、TBSの名物番組『情熱大陸』で彼が語っていた言葉である。
ショコラティエにとって、チョコの原料のカカオは非常にデリケートなもの(厄介な相手・素材)です。毎日毎日、バターやカカオ、砂糖や水など配分量を微調整して、変えているのです。温度が1度、2度違うだけで、前日の原料の配分だと、味が違ってしまうのです。時に、風味や味が損なわれてしまうのです。ですから、毎朝、温度計を見て、その日のチョコのレシピを代えているのです。だから、お客様は、「いつも同じ美味しい味だ!」と思って、ストアーロイヤリティが維持できてもいる。ショコラティエはお客様に「ああ同じだ!」と思わせるためにも、毎日チョコの素材の配分量を代えているのです。
この青木定治氏の心得こそ、変わらないために変えるというイチローのバッティング理念と通底するものを感じる。
イチローは、自身の200安打を達成するために、敢えてフォームを毎年変えてきた。しかし、その核とも、伴侶とも言える、バットには一切手を加えず、自身が変わることで、理想の関係性を維持し、大偉業を成し遂げた。一方、青木氏は、お客様には、まったく変わらない味だと満足させるためにも厨房で、原材料の微妙な匙加減の変化を行ってもいる。
両氏に共通するものは、あくまでも、伝統というものの流儀に相通じるものがあるということだ。利休が愛用の樂家の黒茶碗、能・歌舞伎にしろ、何百年と続く老舗の和菓子店・料亭など、時代と微調整しながら、自身の規矩を保ち続けてきたのである。ありきたりな言葉ではあるが、不易流行でもある。
西部邁の言葉であるが、「“適応”を専らにするのは“進歩なき進化”である」というものがある。これなんぞは、センター試験を大学入学共通テストに改変した、下村博文元文科大臣や文科省の連中に聞かせたい言葉である。だから、安倍内閣におけるほとんどの教育改革は、似非保守の教育観、西欧かぶれ(無意味なグローバル化)の教育観と私が何度も指摘した所以でもある。
このブレないという事、この文脈で私たちの感性というものを措定しみたい。
新しいものにすぐに飛びつく、スマホの新機種が発売されるやすぐ購入する。娘が、聴いている音楽、観ている映画など、自身の価値の基軸も持たずに理解ありげな態度をとって「パパも聴いてみたけど、これ結構いいね!」やせ我慢的、表面的な感動で、心にもないことを吐く。こうした日常的態度をとる連中こそ、すぐに感性の老化現象が起こるものである。敢えて言うが、ある意味、“頑固さ”というものが、<感性の鎧>ともなるのである。
芸能人で、知識人で、ガラケーを今も愛用している者は、吐く意見に新鮮味があり、説得力すら感じる。もちろん、スマホ愛用の有名人も当然、賢者は多数いることは断ってもおく。マイルドヤンキーの風貌の、6~70年代のアメ車をメンテし、改造して乗っている部族、デジタル配信の時代にありながら、アンプとスピーカーでLPレコードを聴くことにこだわりをもつ中年族、若大将こと加山雄三のコンサートを観終わり神奈川県民ホールから出てくる団塊世代の70歳前後の人々、彼らは、老いた雰囲気、空気を放っていない人が散見される。時代でころころ変わるモノ・コトに距離を置いてもいるからだろう。大切なもの、心に潤いを与えるもの、それに鎧を着させて、流行に流されてもいないからである。時代の流れにすぐに適応して、自らを、それに投棄する人間に限り老いが早くやってもくる。自身に規矩を有していないからでもある。もう無意識に、自らの感性が<時代の次から次と出現するモノ・コトと寝ること>に疲れきってしまうのである。それこそが、時代・流行への無関心の第一歩となるのである。これこそ、デジタルの怖さでもある。これに気づかず、文科省は、小中高とタブレット端末支給、教育のデジタル化を推し進める愚挙に出ようとしている。今は、教育の話しではないので、これ以上は触れずにおくが、感性が一番しなやかで成長もする小学生や中学生には、敢えて宣言するが、デジタル教育は不要なのである。それは、幼児、子供から日本語を中途半端にして、早期英語教育へと突っ走る文科省や一部の親御さん連中が我が子の育て方に間違いを犯すのと同じ道程である。
デジタルネイティブなどと言っても所詮は全てが将来仕事に結びつく技能を有するわけでもない。それは、早期英語教育でネイティブ並みの英会話人間がすべて生まれてはこないのと同義である。また、eスポーツのプロを目指そうと思い、我が子が一日中ゲーム遊びを黙認するバカ親の短視眼的な考えも、デジタルの恐ろしさに気づかぬ、愚か者の証明でもある。
では、次回は、本文で言及した<規矩>という私が好きな言葉を廻って、二人の天才、イチローと山下達郎の共通点を語ってみたい。イチローの走り、打ち、守るフィールドでの姿は、達郎のサウンドとライブで、色あせないという点で、みずみずしい感性というものの後ろ姿を垣間見られる格好の補助教材ともなるからである。
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2020年11月 2日 17:51
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