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野村克也頌

 捕手に求められるのはただ一点。“根拠のないサインは出すな”ということ。それがオレの考え。
 
 この言葉は、野球という物語が審判のプレーボールから始まり、そして捕手から投手へのサインによって動きだす世界を如実に言い当てている。それは、小説家が、作品の冒頭にこだわる精神にも似通ってもいるし、歌謡曲のイントロが聞き手をその楽曲世界に引きずり込む効果と似て非ではないようでもる。野球という筋書きがないドラマの方向付けをするという点で、小説の冒頭、歌謡曲のイントロ、それと同等、いや、それ以上の重要性を言い当ててもいる、今年亡くなられた野村克也の金言である。
 
 この野球というスポーツが、他の競技と決定的に違うのは、間のスポーツだともいわれる。それと対局にあるサッカーは、考える前にもう走っている、そして、考えながら、戦法を微調整して走り、敵をかわし、そして得点へと結びつける。それに対して、野球は捕手のサイン、即ち、打者との駆け引きという配球の予測、化かしあいの対峙、まるで棋士の棋譜の読み合戦のごとく、その起点で勝負の半分以上は決まるといってもいい。その駆け引きで負けたとしても、野手のファインプレーで救われたり、相手のミスで救われたりもするのが、運というものの介在である。この微妙な勝負の勘所を見事に言い当てているのが、西鉄時代の名監督三原脩の次の言葉である。
 
 勝負は実力5、運3、調子2の割合である。
 
 この野村の名言から、日本におけるコンビニの生みの親、流通の神様ともいわれた鈴木敏文のワンフレーズを思い出さずにはいられない。
 
 発注は小売り業の命である。
 発注における仮説と検証を徹底せよ
 
 この二つの言葉は、まさしく小売業における今や鉄則とさえなりつつある。リスクマーチャンダイジングを強烈に意識させ、これまで勘で行っていた仕入れというものを<小売業の科学>として昇華せしめた画期的な言葉である。野村のID野球こそ、セブンイレブンやヨーカドーが50年近くも前に消費者情報の把握手段として取り入れたポスシステムと比況すると非常に興味深い面が浮かび上がってもくる。
 
 発注こそ、捕手のサインそのものであると断言できる所以である。
 
 なおこの言葉は、売り手側のみならず買い手側の消費者にも当てはまる。それは、衝動買いの予防策としてでもある。
 
 店頭で、ある服なり、靴なりを一瞬目にする。「ああ!いいシャツだ!買おう!」と即断して購入する。しかし、その品物がその後、どれほど日ごろ着る服になるだろうか?100着服がある人でも、一年365日、身にまとう服は、せいぜい20着にも満たないともいう。お気に入りのアイテムは偏ってしまうのが、趣向の悲しい性でもある。I-PODに1000曲もダウンロードしていても、日ごろ聴く曲は100曲に満たない、偏ってしまうという事実を彷彿とさせる。そうである。店頭でああいいなあ!と思っても、まず、この服は、自身に本当に必要か、どうしてこんなに私を引き付けるのか、購入してもどれだけ着る機会があるか、持っているスカートやスラックスとどれほどマッチングするか、などなど深考、熟慮の末、購入を決めるというのが、賢明なる消費者ともいえる。この点、デフレの浸透、格差社会の進展か、コスパ思想によるものかは知らないが、モノを持たない、レンタルする、またシェアリングする消費者行動が目立つようになってきている昨今である。
 
 私などは、店頭である商品に目が留まったとき、その場では、まず購入しない。いったん帰宅して、自宅で食事や、入浴、また就寝の際など気になって気になって仕方がいない精神状態のとき、どうしてそんなにあの品物が気になるのか、その意識に何らかの購入の根拠を見出す。そして理性と言えば大袈裟だが、深い熟慮を基底に、次の日か数日後に購入する行動に出るのである。後日、店頭から消えてなくなっている、つまり、誰かに購入されていたとしても、私は後悔はしない。ああ仕方ない、縁がなかった品物と達観するのである。だから、私は、購入した衣服でも、カバンでも、すべてに愛着があり、決してリサイクルショップはもちろん、メルカリなども利用したことが一切ない。ましてや、断捨離やミニマリストといった生活には一切無縁の日々を送っている。
 
 この野村の捕手のサインとは、骨董の世界の目利きといわれる人物の直感といったものとも通底してもいる。自身の何千、何万といった名品と偽物との化かしあいで磨かれてきたその眼力によって到達した鑑識眼、購入判断(良識)ともいっていい。打者と捕手の駆け引き、それが骨董商の、焼き物・茶器といった本物と偽物との骨董商の面前での駆け引きを彷彿とさせるのである。
 
 

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