カテゴリ

HOME > コラム > 無聊を忘れた現代人

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

無聊を忘れた現代人

 現代人は、どうも無聊というものを忘れてしまったようである。いや、無聊という存在を放逐してしまったらしい。その典型が、スマホ依存症である。今や、音楽から映画、そして、ライン、インスタやらツイッターやらで、他人へのつながりから娯楽にいたるまで、自身の無為なる時間を何らかの行為で埋めたいらしい、歩きスマホは言わずもがなである。電車内で、マスク装着者の次が、スマホを見つめている乗客の数の多さの光景である。私なんぞには、異常なる光景に見えて仕方がない。その負の側面、若者たちの間につながり孤独という症例すらあるようである。ヴァーチャルやネットのみでリアルの体験不足からくる一種の鬱の軽い症例である。
 
 そういえば、世に孤独という名が付されて書籍がやたらと目に付く。グーグルでキーワード“孤独”と“本”で検索すれば、どれだけ多数の書籍が出されているかに驚く。そういえば、テレビ東京で放映され静かなヒットともなった『孤独のグルメ』もあった。これも、令和の日本人、いや、世界の人々も、孤独が、鬱の一歩手前の心的病の如く嫌悪されてもいる事例ではある、その反動としての企画番組かもしれない。以前イギリスでも孤独担当大臣を置いて話題にもなった。今や‘孤独’は“社会問題”となりつつあるようである。無聊という友と決別したしっぺ返しかもしれない。
 
 次のような言葉を思い出した。
 
「人間は判断力の欠如で結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する」
 
 この言葉は、結婚に成功した者には、疎遠な箴言でもあろうが、これを次ぎのように置き換えることも可能である。
 
「人間は、孤独からの逃避で結婚し、孤独への郷愁で離婚し、孤独への嫌悪で再婚する」これは一人でいる時間、また、無聊というものを友としていない因果でもある。
 
巷間で目に付く書籍の類で、全てに一貫して流れている共通点は、以下のような枕言葉が付される孤独は善なのである。
 
 希望のある孤独
 楽天的な孤独
 精進する孤独
 
 何かしらの限定詞、形容詞が付される孤独は是認されているようである。<視線を外に向ける孤独>は、悪なのである。<視線を内に向ける孤独>は、善なのである。三木清だったか、「孤独は山にない、街にある」という言葉は、孤独の刃の向け方、取り扱いへのマニュアルでもある。
 
 疎外感=孤独、これはどうもよろしくはなさそうである。つまり、矛盾するようだが、明るい孤独、ポジティブな孤独、これは人生を充実させてもくれ、自身をワンランクアップさせてもくれるようである。Loneliness(ひとりぼっちだ!)とSolitude(ひとりでいられる!)の違いである。蛭子能収の新書だったか『ひとりぼっちを笑うな』(カドカワ)というものがあった。
 
 宵闇の中、だれ一人、森の中にはいない。頭上に月が皓々と照っている。
 
  満月を見つめる孤独=希望のある孤独
  半月を見つめる孤独=楽天的な孤独
  三日月を見つめる孤独=精進する孤独
 
 西田幾多郎流の、<月に見とれる自身の純粋経験>こそが、真の孤独でもある。
 
 西行の、こころなき身にもあわれは知られける“我”と、兼好の、徒然なるままにひぐらし硯に向かう“我”を令和の日本人は、忘れてしまった。人生の美意識とやらである。美とは<つるまないという行為>からしか洗練されはしないといういたって当然の理を、現代人から文明の利器スマホは奪い去ってしまったようである。

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

このページのトップへ