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なぜ日本は観光大国になりつつあるのか?

 最近、思いついた個人的仮説なのだが、近年のインバウンド、いわゆる日本の外国人観光客の激増現象の理由である。
 それは、一言でいえば、アナログとデジタルの共存社会であること、もう一点は、文化の連続性、連綿性にあること、この二点に尽きる。いわば伝統文化というものである。
 
 まず言っておきたいことは、ここ最近、アフリカはもちろん、アジアの国々でも、デジタル化の進度が加速度的であるということである。日本のそれの比ではない。この現象は、『デジタル化する新興国』(伊藤亜聖)という名著で、科学的に証明されたといってもいい。この書で登場する新興国の国民が、我が文化大国、いや、アナログ残存国に魅力を感じ、訪日しているのである。こうしたデジタルによる脱途上国は、ほとんどが旧植民地でもあり、百年近くの間にその非文明社会とされた風土で、表層的欧米語(英語と仏語)のはびこる中、その地域の文化など雑草の如く根絶やしにされてしまった感が否めない。近年いきなりスマホに象徴されるデジタル化の波に、生活は便利になったにしろ、無機質で、自国の文化度の希薄さ、文明色一色の社会に辟易している。あの人間味のある文化というソフトを求めて来日しているとうのが実態なのではなかろうか?
 
 まず中国である。中国には、世界遺産なるもがあるが、それは文化財であり、真の文化ではない。T・Sエリオットを援用して福田恆存が語ってもいる、‘文化とは生き方’なのである。それも、彼が補足して説明しているところによれば、“まっとうに生きようとする自覚的精神に裏打ちされた生き方”なのである。
 
 スマホという文明の利器に使われている現代人は、文化を有してはいないということである。また、ゲームにうつつを抜かし、自身の寿命の数年、いや十年以上も無駄に使っている愚昧なる人間にも同様のことが言える。
 いまや、ジョージオーウェルの小説『1984』の監視社会が、習近平中国共産党の目指す社会である。どこかしらで読み覚えのある文言だが、“今や、中国社会では、「知は力なり」ではなく「無知は力なり」”なのである。“賢明となると危うい社会”なのである。
 
 恐らくである、中国人民は、そのデジタル社会の息苦しさ、堅苦しさ、その空気から逃避するために来日しているかの様相である。バブルで狂った日本も笑えないのだが、独身の日(11月11日)と称して何億人もの中国人が、一日で7兆円も、アリババなどのネットで爆買いする風潮が特に有名である。デジタルというスマホに扇動されている光景でもある。それに対して、春節の中国人の民族大移動は、やはり、文化の力がそうさせてもいる。年に一度の、こうした文化的慣習といったものは、彼らには、ノスタルジック、レトロ、精神的やすらぎへ誘うからでもある。これぞ、文化が残存しているソフトパワーの側面である。
 
 日本には、モノとして、京都、奈良の神社仏閣などはもちろん、日本中の都市の場末にいたるまで、江戸以来の文化が連綿として名残をとどめている。当然、医薬品や化粧品、スナック菓子などは言うをまたない。コト的には、当然、おもてなし、心配り・気配りといった日本人のメンタリティーを基盤とするサービス精神が息づいてもいる。
 もちろん、アニメやTDLなどサブカルの娯楽も世界トップレベルであるが、その根底を支えているのが、ソフトとしての文化力なのである。これが、中国社会、デジタル風土の中国では、根絶やしになっている。そこで、無機質な、全てが全てスマホで生活できる中国社会への息苦しさから解放されたい、息抜きしたい、心や精神をリフレッシュしたいのである。それゆえ、アナログチックな人間性に基盤を置く文化的空気が流れてもいる日本社会へ足を延ばしたい、デジタルから逃れたい、そうした本性から、中国人に観光対象国として、人気があるのである。2009年、天皇特例会見として習近平副主席が天皇陛下(現上皇)に謁見したことは習近平の日本の文化の象徴、そのソフトパワーに屈したことでもある。この習近平の天皇会見へのこだわりこそ、中国人の日本文化への‘卑屈なるあこがれ’、いや、‘自身への権威づけ’の裏返しといえば、曲解であろうか?また、中国人の、アメリカ文明社会へのあこがれも突出したものがある。中国共産党幹部は、アメリカで老後を悠々自適に過ごすのが夢でもあり、慣例であるそうである。事実、我が子をアメリカ留学させていることから自明でもあろう。あんなに繁栄している社会でも、実態は無機質社会なのである。仕方ない、これぞ共産主義社会の限界でもある。それに人民は辟易しているのであろう。2011年から13年の3年で使用した中国のコンクリートの量は、1901年から2000年までにアメリカが使用したコンクリートの量に匹敵するともいう。アメリカの100年分を中国は3年で使用したことになる。この異常さ、いびつさ、クレイジーな発展に人民は心理的、生理的違和感、嫌悪感を覚え、中国人に海外渡航をさせてもいるというのが私の意見である。高層マンション乱立すれど、誰も住まず、投機の対象となっていることが何よりの証拠である。いわゆる、“鬼城”とやらである。
 
 中国人のみならず、欧米人も、東京や大阪などの大都市ではなく、地方の鄙びた地域や場末が人気スポットであるのは、日本文化の残影がそこにとどまってもいるからであろう。それなのに、近年、東京は、ニューヨークのマンハッタンとは言うまい、上海の物まねをしている傾向が非常に目に付く。都市部の大改造である。渋谷や池袋など、昭和の面影を今や全くとどめてもいない。これは、企業、社会、国家、こうした存在の進化進歩の宿命としては、致し方のない‘発展’でもあろう。しかし、今や、文化人ともなった、作詞家の松本隆やミュージシャンの細野晴臣などは嘆いてもいる。
 こうした日本の街風景が、どんどん変化し、昔の趣をとどめぬまでになっている現象を、アナログ放逐、デジタル絶対主義とでも呼ぼうか。こうした‘文明病’に毒された表徴として、<スマホ族>が挙げられる。彼らにも責任がある。これを極論と感じられる方は、次の真実に気づかれぬ輩である。
よく政治家のレベルの低さを批判したり、馬鹿にしたりするのは、実は、その国民の民度の低さの顕れでもあるといった皮肉なる言説から敷衍すれば、渋谷駅周辺の大開発、東京湾の夜景が売りの高層マンション、交通の便のいい武蔵小杉のタワーマンションなどが人気があり、たいへんな需要があるのは、デジタル族の好意を引く、スマホ族を引き付ける利便性、都市計画の推進材料となってもいる現実の裏返しのものだからである。
タワーマンションの利便性をもとめる気持ち、ウォーターフロントの高層ビルの夜景を美しいと思うセンス、それは、スマホのハイスペックを追い求めるデジタル度であり、画面の美しいスマホを買いもとめる心根と同じものである。
 
 海辺や山岳地域の古民家を愛好する部族は、今般の(コロナ禍による)リモートワークとかやらで、一石二鳥で好都合であるようだが、敢えて、言わせてもらえば、そのデジタルのパソコンを使いおおせる部族に、真のアナログ精神、レトロ感覚、非文明社会のよさなど、わかるものであろうか?そうした問いを投げかけてみたいのである。これは、誰も指摘しないことだが、コロナ禍以前に進んで、敢えて、自然豊かな地方へ移住していた部族(松山ケンイチ小雪夫妻)の心魂と、コロナ禍により、「ちょうど都合がいい!これを機会に地方へリモートワークで移住だ!」と外発的に首都圏を離れた部族の心根といったものの違いである。学校の内申書の点数になるからとボランティア活動をしている生徒と奉仕の精神に裏打ちされたボランティア活動をしている生徒との違いのようなものである。
 
 また東南アジアから来日する観光客も同様である。インドネシアやマレーシアであればイスラム教の戒律からの息抜き、これは決してコーランの教えを破るものではない。まるで、まじめな女子高生が、校則の厳しい学校帰り、塾、予備校のついでに繁華街を覗く程度の心境といっていいものである。しかし、何か心が憩うのである、解放されるのである。無宗教社会日本に、イスラムという中世の慣習とは全く違う、近世(江戸)、近代(明治~昭和)、現代(平成~令和)と連綿と続く文化の伝統とやらの匂いに惹かれるのでもあろう。タイやミャンマーの人々も、身近に仏教がある国家である。路上、街角には小乗仏教の僧侶が散見される国でもある。しかし、それは大乗仏教国日本のように表面的信仰とも違う雰囲気である。これほど、中世の室町、近世の江戸、そして近代の明治から昭和、そして、現代の平成・令和といった文化が地層のように積み重なった国家も珍しい。それが、日本の魅力なのでもあろう。アジアには、アンコールワット、ボルブドゥール、タージマハルがある。しかし、それらは、文化ではない、文化遺産であり、一種、文化遺跡に過ぎにない。万里の長城にしろ、同じである。室町の象徴京都、江戸の表徴浅草、明治から大正の残照箱根・日光・軽井沢などのレトロなホテルなどなどである。それらには、‘和の精神’が連綿と宿っている。歴史の残物の周りに、それぞれの時代の文化の匂いが放たれてもいる、その佇まいが、魅力でもある。ちょうど、富士山が名峰なのは、富士五湖をセットにした光景であり、美保の松原や駿河湾・相模湾からの眺望であり、富士信仰を背景とした北斎、鉄斎、大観、といった文化的ストーリー(コノテーション)が根底にある点なのである。これこそが、アルプスやヒマラヤなどの世界の名山との決定的な違いでもある。まさしく、日本文化の魅力を富士山が体現しているようなものである。
 
 自国の失われし土着的文化ではない、何かアジア全体を覆っている非キリスト教文化圏の最大公約数的、<アナログへのノスタルジー>がアジアの人々を日本に惹きつけているように思えて仕方がないのである。そこに敏感に順応し、ある意味、ビジネス的に成功しているのが星野リゾートでもある
 
 もう100年以上前の名著である岡倉天心の『東洋の理想』の中の言葉「アジアは一つ」それは、現代において援用しうる力があるとすれば、<アナログへのノスタルジー>において「アジアは一つ」と言いえる点なのである。
 
 都市と田舎、文明と自然、都市マンションと別荘、職場と家庭。今や、前者の効率性・生産性からの逃避、精神的安らぎといったものを後者に求めてきたのが、‘デジタルというモンスター’の出現以前の人間の心身の健全さ維持の方策でもあった。人間は昼夜といい、ウイークデーと週末といい、使い分けの生活をしてきたわけだが、これからは、デジタルとアナログとの棲み分けによる<人間の精神の安寧>の大切さに気付く時代に差し掛かっているといってもいい。それは、世界の知的エリートたちの間で、ヨガや禅の系譜に属するマインドフルネスがブームである現象を挙げれば、それは、デジタル社会という、効率性の洞窟ともいっていい炭鉱の“カナリア”の‘異常なる囀り’と大衆は認識すべきなのである。
 
 
 新宿の無国籍的猥雑さ、渋谷のレディー・ガガをも虜にするファッション、秋葉原の世界のアニメオタクの聖地、浅草の‘江戸文化’、モダンとレトロをこれほどまでに一か所で謳歌できる都市も珍しい。現代の<文化の坩堝(るつぼ)>を東京が体現してくれてもいる。
 
食とは文化である。これを象徴している事例としては、ミシュランガイドの星の多さが他国に比べ際立っている点である。一国にしてフレンチ、イタリアン、中国料理の一流の味が味わえる名店の多さは日本をおいて他にはないと断言できる。更に、和食や魚料理といった日本食が今や世界で認知されたどころかブームにさえなっている。世界三大料理の座をトルコ料理から奪う勢いでもある。寿司の旨さに世界中の人々が気づき始め、グルメ日本人としては漁獲高の減少で、いい迷惑を被ってもいる。マグロは当然、サンマやサバとて同様である。さらに、マクドナルドやケンタッキーなどアメリカのファーストフードなども即、誰でも手軽に味わえる。それだけではない。うどんや蕎麦など、立ち食いから老舗名店にいたるまでどこでも賞味できる。これぞ、文化の一等国であることの証明でもある。
 
これは、キャスターの辛坊治郎氏が、ラジオで冗談まじりに語っていたことだが、ミャンマーは、料理がうまい地域とまずい地域とがはっきり分かれるそうである。それは、西半分のイギリス統治下の地域は料理がまずい、一方、東半分の日本に占領されていた地域は料理がうまいといった指摘である。まんざら、嘘でもなさそうな話ではある。
 
 アジアの新興国、中国を初めとして、東南アジア諸国から、アフリカの一部の国々に至るまで、それは、欧米の人々も同様であろう、実は、世界のグローバル化で、社会はどんどんデジタル化して、スマホを起点として、映画、音楽からデジタル通貨に至るまで、無意識から心の奥底あたりで文化の無機質化に違和感、嫌悪感を覚えているように思えて仕方がないのである。こうした“真の文化”への逃避地、いわば“避暑地”として、アナログ文化の名残をとどめる日本が魅力的に映ってもいるのであろう。それは、外国人だけではない。日本人も、ネット配信の音楽の無機質さに敏感な人は、レコードの音質の良さに気づき始め、カセットテープさえ再評価の対象、“避暑地”となりつつある現象に窺い知れる。ワープロも一部の根強い支持者(音楽評論家片山杜秀氏など)が結構多い。また、ガラケーが絶滅せず、ガラホという名称で復活し、使い続けられている根拠は、日本の観光大国の魅力と根底でつながっているとは誰も指摘しないのである。
電子ソフトで将棋を指す時代である。パソコンの画面で棋譜を覚える時代である。しかし、天童市の名産、将棋の駒と盤は残り続ける。これほど、キーボードで文字を書く時代でありながら、世界一の文房具大国である。ライバルはやはりドイツだともいう。様々な配色、機能のボールペン、そしてシャープペンシルの多彩さは世界に類例を見ない。スマホがこれほど進化を遂げても、高橋の手帳や糸井重里プロデュースの手帳は根強い人気である。こうしたモノを支持しているのは、意外なことに、海外の人々であり、まだ“デジタルデビュー以前の中学高校生”であったりするのである。

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