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ゆとり教育から<ゆとり制度>という"悪"の影へ

 「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者多し」  (A・ジッド)
 
 2020年の大学入試大改革で、附属系の中高一貫校の人気が非常に上がっているという新聞記事を最近よく見かけるようになった。こうした現象は、生徒本人というより、その親御さんが我が子の6年後を心配し、また、その入試制度に心理的・時に、自身の経験に照らし合わせてなのか、生理的にも、違和感、拒否反応から、‘何か信用できない不安感’のようなものを抱き、従来であれば、聖光学院レベルは勿論のこと、浅野学園の両方に合格しても、大学のない前者2校へ進学するのが、大方の通例であった。しかし、最近では、慶應中等部などを選択させる親御さんが増えているということなのでありましょう。
 大学も、少子化をにらみ、中学からの囲い込み戦略を露わにしてきている証拠として、山手女子学園を飲み込んだ中央大学附属横浜の設立や、青山学院の横浜英和学院の系列化などを見れば明白です。早稲田も、大隈重信の故郷、佐賀に早稲田の系属校を設立したり、慶應は横浜青葉区に第2の幼稚舎を設立したりで、全国、大学による初等・中等教育が草刈り場とさえなっている状況です。こうした大学の中等教育への囲い込み現象は顕著なものがあります。あと、10年以上もしたら、上智大学も、同じカトリック系中高一貫校の雙葉や白百合をも準附属ならぬ、系列校にしてしまいかねない時代の流れであります。
 こうした状況が、附属校人気の理由でもあります。親御さんの我が子への進路への不安感と大学の少子化への危機感が見事に合致して、附属校の人気がうなぎ上りなのです。
では、早稲田大学を例にとりましょう。近年では、推薦系やAO系で入学してくる割合が、50%に迫る勢いです。早稲田高等学院などの附属系からの入学者を含めると、早稲田キャンパスの2人に1人は、非入試組ということになるのです。こうした教育上の趨勢は、学生の真の学力というものの品質保証を危うくしているということが、一部の教育関係者が指摘してもいる点なのです。
 結論を言いますと、ゆとり教育ならぬ、“ゆとり制度”というものが、透き通った‘悪’として、日本人の知力や知性を蝕み始めてもいるということなのです。
 世の親御さんは、我が子にあの地獄のような、サバイバル受験戦争を味わわせたくないといった親心で、附属系中高一貫校へ進ませたり、大学のない私立の中高一貫校{※湘南白百合<白百合女子大はあるが、進学者は少数です>や田園調布雙葉など、小学校からあるお嬢さん学校などが典型}へ進ませた娘さんに学校の内申の点数を上げさせ、部活動にも積極的に参加し、指定校推薦をゲットして、12月の時点で、進学先をもう決めさせる戦略をとらせたり、それ以外で、指定校推薦が駄目だった場合は、自己推薦で、雙葉{※横雙や田雙も}から上智大学への進学を早々と決めてしまう女子生徒などが、その典型的なものです。
 推薦やAOよりも、更に始末が悪いのは、大学附属中高一貫校のシステムです。これは、附属校の悪しき慣例でもありますが、全てが全て、これに該当するわけではありません、しかし、半数以上の生徒が当てはまる事実でもあるので、敢えて申し上げるとします。
 慶應大学を例にあげます。英語の具体例で述べさせていただくと、幼稚舎、中等部、普通部、大学と、下から上がっていきた学生に限って、英語ができないというジンクス、いやジンクスではなく、実態といったほうが適当かと思います。中学入試で入ってきた12歳、高校入試で入ってきた16歳の塾生の学力や知力は相当のものです。芦田愛菜のような地頭のいい生徒が入学してもくるのです。しかし、こした生徒は、学校内の定期テストで、赤点さえ取らなければ、また、50点以上ゲットしていれば、大学に進学できるという安穏な地位にもいる。しかも、中間・期末試験なども、範囲が限定された、習った箇所の確認テストの域を出ない。つまり、狭い範囲を丸暗記していて、それを、一夜漬けで、頭から答案用紙にぶちまけて、それでおしまい。試験後は、頭の中に、その知識の半分も残っていない。これに該当しない生徒も当然いましょう。しかし、半分以下、3分の1以上は該当するはずです。こうした附属系の学校内の定期テストで、そこそこにいい点を取って大学へ進んだ学生と、外部入試、即ち、大学入試で慶應に入ってきた学生の英語力の雲泥の差、これは、想像に難くないし、現に、私もキャンパス内の教室で実体験もしている。これは、鉄緑会の主宰者でもあった和田秀樹氏も、大学生の頃、家庭教師として、慶應の附属高校生、それもトップレベルの高校3年生に勉強を教えていて、チャート式レベルの問題をやらせたところ、全く太刀打ちできなかったと述懐されてもいた{※詳しくは『新学歴社会と日本』(中公新書ラクレ)P120~121参照}。そうなのです。慶應日吉の普通部の高校3年生に外部入試の、それも慶應の経済学部の問題や文学部やSFCの問題をやらせたら、まあ、どんぶり勘定ですが、4分の1、いや、5分の1しか、合格ラインには届かないと断言してもよろしかろうと思います慶應という所は、内部には甘く、外部には厳しい英語システムになっているということだけは、はっきりと言えます。幼稚舎は御三家に譬えられます。そして、中等部は親藩普通部は譜代、そして、大学は外様であるかのように、その入試英語試験は厳格、難問、かたや、慶應の初等部・中等部・普通部内部の英語教育では、ゆとりの英語教育が行われてもいる。そして、段階的に、塾校内部における英語授業の‘ゆとり度’が薄らいでゆく。そして、附属系出身の大学生は、英語の語学単位を落とす羽目になる者が多いとされてもいるのです。実際、私が、慶應の附属の中高生を教えていても実感する真実です。
 これは、私の主宰する英精塾で、慶應藤沢や慶應普通部の生徒が、「英語ができない!」また、「英語を強化したい!」と、過去十数名の生徒が入塾されてきましたが、弊塾の生徒の母集団が、雙葉や聖光、フェリスなど、大学受験を意識した“意識高い系”ばかりです。それに対して、その生徒自身の慶應の教室内は、安穏、のんびりムードです。ものすごいギャップです。弊塾で使用している、高度で難解で、知的な英文と格闘するメンタルは勿論、学校の教科書ででてくる以外の英単語を覚えようといった前向きな学習意欲も薄い。「こんなに、しんどい勉強なんて、やってられない!」と附属系の生徒は、慶應だけでなく、それ以外のMARCH系の附属校の生徒は、1年前後で辞めてゆきます。そうなのです。私の臨床教育事例として、はっきりいえるのは、附属校生徒の、緊張感の欠如、精進メンタルの薄さ、これが、欠点でもあるのです。ある意味、日本の大学の知的レベル{※取り分け理系が顕著です}は、大学入試組に支えられてもいると言って過言ではないのです。極論をいいますが、ノーベル賞受賞者に附属校出身者はいません。因みに、アメリカやイギリスの大学など、慶應幼稚舎のように、小学校から、ほぼ、身分保障されて、そのまま大学まであがれる‘貴族制度’は皆無です{※上記の和田秀樹氏の書P117~119参照}。ここで、附属校の学力脆論を証明する具体例、即ち、仮想実験を挙げるとします。
 日本の大学で、医学部の単科大学、例えば、東京医大、日本医大、自治医大など、その附属校などは全く見当たりません。慶應は例外です。附属校でも、医学部へ進学できるのは、外部入試で、一般の国立大学の医学部に合格できる天才・秀才レベルであって、参考にはなりません。そこでです。もし、小学校から、そして、中学校から、附属でほぼ全員がその医学部に進学できる大学が、もしあったとしましょう。その大学は、恐らく、その卒業生の9割以上、医師の国家試験には合格できない学生の巣窟とあいなりましょう。想像に難くありません。横浜にある、某薬科大学と同じ運命とあいなること明々白々です。そうなのです、実は、日本の医療の高水準は、世に評判の悪い、大学入試という制度(受験)で担保されているのです。医学部入試には、この大学受験という知的イニシエーション{※成人となるための文化人類学でいうところの成人儀式}があり、こうした日本人の医師の質を維持しているのです。この見地から言わせていただければ、今日の大学付属校人気、それは、世の不安な親御さんが、“かわいい子には旅をさせよ”的メンタルが欠如し、掻き立てている現象でもあるのです。我が子に苦労させたくないという親心が透けて見えます。それに対して、時代の主流にもなりかけているルート、即ち、高校生自身による、推薦やAO人気は、附属校生徒と同じメンタルによる、地獄の入試回避策です。理系離れ、数学回避、国公立離れの意識が芽生える高校1,2年のコスパ意識と同類の思春期に罹る知的反抗心(拒否反応)によるものです。「一般入試で第一志望の青山が駄目だったらどうしよう、担任の先生から東京女子大の指定校の薦めがある、そっちに行っちゃおう!」的(やわ)根性が、推薦へと駆り立てているのです。W塾が一番力を入れてもいる、AO入試対策講座にしてもそうです。一般入試では、英数国理社など、学力は到底及びもつかない大学を、背伸びをするどころではない、ジャンプしてまで入ろうとする高校生につけ込んで商売してもいるのです。志望動機書をああでもない、こうでもないと作文指導などを兼ねて、希望する大学にこじ入れてあげようというビジネス的、商機魂で、実は、日本の大学生の学力低下に寄与してもいるのです。「勉強嫌い、勉強できない生徒でも、そこそこのレベルの大学に入れてあげますよ」的商魂で、教育産業を運営してもいるのが実態です。
 このように概観してくると、現在の日本の大学入試制度は、附属校人気、推薦系生徒激増、実は、“ゆとり制度”化が進んでいる証拠なのです。それに、英語の2020年からの資格系テストの導入に象徴されているように、“よけい制度”までおまけでついてきています
 これは、主観と偏見を前提に敢えてこの場で申し述べるとしましょう。
 安倍晋三は、成蹊大学出身ですが、中高一貫の附属校からそのまま上がってきた組であります。しかも、附属校時代に東大生の家庭教師までついていました。それが、衆議院議員平沢勝栄氏でもあります。麻生太郎にしても、学習大学出身でも、これもまた附属校からのエスカレーター組であります。しかも、両者は、政治家の、総理まで輩出した家系のサラブレッドでもあります。エスカレーターなんてもんじゃない、エレベーター組です。こうした教育経路をたどってきたセレブの政治家に、階段をコツコツと上がってきた、庶民の公立中学校、県立高校の叩き上げの受験メンタルはもちろん、私立の非附属系中高一貫校生徒の歩んでいる、ひた向きで、時に、健気な、勉学上の勤勉さなど知る由もないことでしょう。だから、今般の馬鹿な、愚策の教育改革なるもの、また、余計な道徳教育などまで、実践しようとしているのです。道徳教育なら、学校よりもまず、安倍首相は、大企業に指導すべきです。最近の大企業のデータ改ざん事件や自動車会社のリコール問題などに対して、渋沢栄一の『論語と算盤』を必読書として業務指導するなどです(笑い)。これは、三輪明宏氏の傑作造語でありますが、安倍首相の方針は、“多弁空疎”の何ものでもないと語っていた、その四文字熟語をこの二人に投げかけたいと思います。
 この二人の政治家に共通するのは、親が苦労して叩き上げた大企業のドラ息子で、黙っていても、重役につける、現場知らずの、二代目バカ社長とも言えなくもない。企業なら、その会社の倒産であいすみますが、事が、国家レベルともなると、教育という柱を蝕み、亡国への道へ誘いかねない岐路に、今、日本は立たされてもいるのです。

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