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コラム
物理の"微積"が英語の"英文和訳"である!
仄聞するところによれば、受験において、物理を学ぶ際、微積を使用して解く講師とそんなものを使わなくなくてもよしとする派があるそうである。前者は、駿台予備校の伝説の講師山本義隆であり、東進ハイスクールの苑田尚之であるそうだ。また一部の進学校の物理の教師もそうしたエリート派がいるとも聞く。しかし、我が教え子からの情報では、ほとんどはそんな高尚な手法で大学受験をかいくぐる必要はないともいう。それが事実大勢を占める。つまりは、中等教育では、高邁なる科学の精神など必要ないとされ、工学部や理学部志望といった普通の高校生なら、事実そうでもあろう。高校時代に、その手法に開眼する者は、湯川秀樹級の理論物理学を極めんとする若者か、数学オリンピック出場並みの高校生といったところだろうか。
最近、『翻訳と文学』(みすず書房)という書が上梓された。翻訳というものが、文学に与えた影響を分析したものだ。今では、村上春樹の、あの文体が、彼の翻訳作業によって培われ、形成されてきたことは余りに有名である。この書は、近代日本クラッシックの父山田耕筰にも言及されている。そうである、絵画では、横山大観も西洋絵画の手法からインスピレーションを受けたという面で、印象派の翻訳があの朦朧体でもある。黒田清輝や岡田三郎助にしろ、岸田劉生にしろ、フランスの洋画を換骨奪胎して和風油絵の礎を築いたという面でも翻訳といえる。この翻訳とうジャンルが、東洋で最も成功した国として、近代の、明治大正昭和として文化国家として文明国の影の側面を支えてもきた。もちろん、アカデミックサイエンスにおける翻訳文献でどれほど、初等・中等教育を豊なるものにしてもくれたであろう。翻訳の果実のトリクルダウンである。小学校では、『赤い鳥』がどれほど戦前の少年少女の情操教育に寄与してくれていたことだろう。子供向けの唱歌、童謡で日本ほど名曲が豊な国は世界には類例を見ないともいう。これぞ漱石・鴎外の次ぎの世代、鈴木三重吉、芥川龍之介、北原白秋以降の翻訳成熟世代の感性が日本という風土の内面に向かった“子供芸術の結晶”でもある。
この『翻訳と文学』に掲載されているのは、ほとんどが、英語系の翻訳者である。できたら、フランス語系、ドイツ語系、ロシア語系など、“日本文学のふるさ”ともいえる非英語圏の翻訳者も第二段として登場させてほしいところである。
私の青春時代に、馥郁たる文学の香りを漂わせ、自身を仏文へと駆り立てた作家という存在が、そのポートレートが、<我が人生のリビングルーム>に常に、今も架けられてもいる。日がな一日目にせざるをえぬ存在、意識の片隅におかれた存在が様々な感性の泉とも、ヒントともなりえている。小林秀雄・石川淳、その次の世代である福永武彦・中村真一郎、さらに戦後世代の大江健三郎、彼らはフランス語との翻訳の過程で、思考を成長させ、自らの文体を洗練させてもきた。これぞ、翻訳の巧妙・妙技である。そうした文才の巨匠たちも、戦前は旧制中学で5年間{※大江は中高6年間}、英語と格闘したはずである。その格闘とは、恐らく今ほど緻密ならざる英文法を頼りにしての英文和訳という作業であったでありましょう。思春期の自我の目覚めとほぼ平行するかのように、未熟なる自身の日本語、そして、数少ない、それでいて物足りなさを感じる外国文学作品への希求、それが旧制高校受験へと向かう英語学習の中で、おそらく自身の感性・知性に合うスタイルを模索していったと思われます。言葉というものが人間を成長させる見本のようなものです。その翻訳の一歩手前でもある学校における英文和訳という営みが、少々大袈裟でもありますが、“母国語と外国語の止揚”のプロセスでその人の思考体系を育んでゆくということでもあります。
私の高校時代は、原仙作の『英標』と伊藤和夫の『英文解釈教室』で、翻訳のいろはの“い”と言える大学受験のための英文和訳のみでありました。英文読解、英文和訳、それが英語の勉強と同義でありました。リスニングは勿論、英会話など疎遠であり、文法問題はそこそこ、むしろ今ほど緻密明快なる英文法書がない時代、前近代的学校英文法を頼りに英文和訳とやらに汲々としていた。そのベースがあればこそ、フランス語へと応用、鞍替え、そこそこ、フランス語という第二外国語をものにすることができたのです。
大江健三郎も東大仏文科に進む以前は、英文読解、英文和訳との格闘であったはずです。今や、知識人を越えた教養人とも申し上げられる鹿島茂(※指導教官は蓮見重彦)や内田樹(※指導教官は菅野昭正)なども仏文科以前は、高校時代の受験英語と格闘していたはずです。鹿島氏は湘南高校で、内田氏は日比谷高校(駿台予備校)で、受験英語と寝食を共にしていたはずです。
今の高校生、とりわけ私の教え子ですが、学校ではほとんど英文和訳はしていない、いや、否定されているということです。この否定派、消極派の典型は、東進ハイスクールのY講師であり、I講師でもあります。また、センター試験から共通テストにかけて、さらに英検やTOEIC志向の中高生には、英文和訳は、流行りません、毛嫌いされる傾向にあります。短刀直入に申しあげれば、苦痛だからです。その苦行が思考を鍛えるという真実を知らない、教えられていないからです。そこに、英語教育の軽薄なる風潮、体罰が完全否定される論拠と似たものを感じます。
今の高校生で、英語をまじめに極め、大学で、フランス語、ドイツ語、ロシア語などを実用面ではなく、文学・思想・芸術といった教養といった側面から学ぼうとする令和の若者は絶滅危惧種ともなりつつある。竹内洋氏が一番指摘されてもいる、日本における<教養の没落>であります。この点、欧米は、日本ほど知的階層の没落はないとされます。これも、スマホ、SNS,ICT技術で変わりつつあるデジタルネイティヴの気質の表れでありましょう。俗耳に入りやすいことを述べる文化人が、「若者は変わっていない」とよく口にします。どういう根拠で、そういう言説を吐かれるのか、その方の知的感性というものを疑いたくなります。幕末の下級武士といった若者、大正デモクラシーの旧制中学の学生、戦後の焼け野原の高校生、そして平成以降の高校生、みな気質は変わってきています。感受性が鋭いという資質の面では不変ではありましょう。当然です。生物学的摂理だからです。
物理における<微分積分>という存在、それが、英語学習における<読み・書き>という地味で緻密な知的行為なのである。その基礎体力を鍛える英文和訳(和文英訳)という少々“レトロな”行為は、氷山の海面深くに沈んで見えない箇所でもある。洋上からしか見えない氷山の一角ともいえる‘美しい’<話し・聞く>という眺望が、‘つかえる英語’と勘違いしてもいる。派手で、一見して見栄えがいい、実用的に見える‘つかえる英語’とは‘微積不要の物理’と同義である。語学資格ブームが、皮肉なことに平成から令和の若者の英語力を下げているのは事実である。ユーチューブなどに登場する‘英語モンスター’などは、例外であります。デジタル旋風に席捲され、崩壊しかけてもいる教育の一光景である。根本の基礎固め、それはアナログという人間の心理・生理的側面でつながってもいる段階では、紙と鉛筆、そして手を動かす行為が絶対不可欠であることは、電子書籍より紙の本のほうが記憶に残るという科学的根拠からも明白なのである。
最近、『翻訳と文学』(みすず書房)という書が上梓された。翻訳というものが、文学に与えた影響を分析したものだ。今では、村上春樹の、あの文体が、彼の翻訳作業によって培われ、形成されてきたことは余りに有名である。この書は、近代日本クラッシックの父山田耕筰にも言及されている。そうである、絵画では、横山大観も西洋絵画の手法からインスピレーションを受けたという面で、印象派の翻訳があの朦朧体でもある。黒田清輝や岡田三郎助にしろ、岸田劉生にしろ、フランスの洋画を換骨奪胎して和風油絵の礎を築いたという面でも翻訳といえる。この翻訳とうジャンルが、東洋で最も成功した国として、近代の、明治大正昭和として文化国家として文明国の影の側面を支えてもきた。もちろん、アカデミックサイエンスにおける翻訳文献でどれほど、初等・中等教育を豊なるものにしてもくれたであろう。翻訳の果実のトリクルダウンである。小学校では、『赤い鳥』がどれほど戦前の少年少女の情操教育に寄与してくれていたことだろう。子供向けの唱歌、童謡で日本ほど名曲が豊な国は世界には類例を見ないともいう。これぞ漱石・鴎外の次ぎの世代、鈴木三重吉、芥川龍之介、北原白秋以降の翻訳成熟世代の感性が日本という風土の内面に向かった“子供芸術の結晶”でもある。
この『翻訳と文学』に掲載されているのは、ほとんどが、英語系の翻訳者である。できたら、フランス語系、ドイツ語系、ロシア語系など、“日本文学のふるさ”ともいえる非英語圏の翻訳者も第二段として登場させてほしいところである。
私の青春時代に、馥郁たる文学の香りを漂わせ、自身を仏文へと駆り立てた作家という存在が、そのポートレートが、<我が人生のリビングルーム>に常に、今も架けられてもいる。日がな一日目にせざるをえぬ存在、意識の片隅におかれた存在が様々な感性の泉とも、ヒントともなりえている。小林秀雄・石川淳、その次の世代である福永武彦・中村真一郎、さらに戦後世代の大江健三郎、彼らはフランス語との翻訳の過程で、思考を成長させ、自らの文体を洗練させてもきた。これぞ、翻訳の巧妙・妙技である。そうした文才の巨匠たちも、戦前は旧制中学で5年間{※大江は中高6年間}、英語と格闘したはずである。その格闘とは、恐らく今ほど緻密ならざる英文法を頼りにしての英文和訳という作業であったでありましょう。思春期の自我の目覚めとほぼ平行するかのように、未熟なる自身の日本語、そして、数少ない、それでいて物足りなさを感じる外国文学作品への希求、それが旧制高校受験へと向かう英語学習の中で、おそらく自身の感性・知性に合うスタイルを模索していったと思われます。言葉というものが人間を成長させる見本のようなものです。その翻訳の一歩手前でもある学校における英文和訳という営みが、少々大袈裟でもありますが、“母国語と外国語の止揚”のプロセスでその人の思考体系を育んでゆくということでもあります。
私の高校時代は、原仙作の『英標』と伊藤和夫の『英文解釈教室』で、翻訳のいろはの“い”と言える大学受験のための英文和訳のみでありました。英文読解、英文和訳、それが英語の勉強と同義でありました。リスニングは勿論、英会話など疎遠であり、文法問題はそこそこ、むしろ今ほど緻密明快なる英文法書がない時代、前近代的学校英文法を頼りに英文和訳とやらに汲々としていた。そのベースがあればこそ、フランス語へと応用、鞍替え、そこそこ、フランス語という第二外国語をものにすることができたのです。
大江健三郎も東大仏文科に進む以前は、英文読解、英文和訳との格闘であったはずです。今や、知識人を越えた教養人とも申し上げられる鹿島茂(※指導教官は蓮見重彦)や内田樹(※指導教官は菅野昭正)なども仏文科以前は、高校時代の受験英語と格闘していたはずです。鹿島氏は湘南高校で、内田氏は日比谷高校(駿台予備校)で、受験英語と寝食を共にしていたはずです。
今の高校生、とりわけ私の教え子ですが、学校ではほとんど英文和訳はしていない、いや、否定されているということです。この否定派、消極派の典型は、東進ハイスクールのY講師であり、I講師でもあります。また、センター試験から共通テストにかけて、さらに英検やTOEIC志向の中高生には、英文和訳は、流行りません、毛嫌いされる傾向にあります。短刀直入に申しあげれば、苦痛だからです。その苦行が思考を鍛えるという真実を知らない、教えられていないからです。そこに、英語教育の軽薄なる風潮、体罰が完全否定される論拠と似たものを感じます。
今の高校生で、英語をまじめに極め、大学で、フランス語、ドイツ語、ロシア語などを実用面ではなく、文学・思想・芸術といった教養といった側面から学ぼうとする令和の若者は絶滅危惧種ともなりつつある。竹内洋氏が一番指摘されてもいる、日本における<教養の没落>であります。この点、欧米は、日本ほど知的階層の没落はないとされます。これも、スマホ、SNS,ICT技術で変わりつつあるデジタルネイティヴの気質の表れでありましょう。俗耳に入りやすいことを述べる文化人が、「若者は変わっていない」とよく口にします。どういう根拠で、そういう言説を吐かれるのか、その方の知的感性というものを疑いたくなります。幕末の下級武士といった若者、大正デモクラシーの旧制中学の学生、戦後の焼け野原の高校生、そして平成以降の高校生、みな気質は変わってきています。感受性が鋭いという資質の面では不変ではありましょう。当然です。生物学的摂理だからです。
物理における<微分積分>という存在、それが、英語学習における<読み・書き>という地味で緻密な知的行為なのである。その基礎体力を鍛える英文和訳(和文英訳)という少々“レトロな”行為は、氷山の海面深くに沈んで見えない箇所でもある。洋上からしか見えない氷山の一角ともいえる‘美しい’<話し・聞く>という眺望が、‘つかえる英語’と勘違いしてもいる。派手で、一見して見栄えがいい、実用的に見える‘つかえる英語’とは‘微積不要の物理’と同義である。語学資格ブームが、皮肉なことに平成から令和の若者の英語力を下げているのは事実である。ユーチューブなどに登場する‘英語モンスター’などは、例外であります。デジタル旋風に席捲され、崩壊しかけてもいる教育の一光景である。根本の基礎固め、それはアナログという人間の心理・生理的側面でつながってもいる段階では、紙と鉛筆、そして手を動かす行為が絶対不可欠であることは、電子書籍より紙の本のほうが記憶に残るという科学的根拠からも明白なのである。
2021年5月17日 16:54