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デジタルの風潮に迎合する愚

リモートワークやオンライン授業のデジタルの風潮に迎合する愚
 
 
 世の父親とその子供が、コロナ禍で、リモートワーク、そしてオンライン授業といった仕事と勉強の生活スタイルの変革の波にさらされている状況を考えてみたい。
 
 一般的に、リモートワークを行っている企業は、巷の人に馴染み深い大企業だったり、IT系のシステムエンジニアが主体の会社だったりする場合が多い。世のパンデミックに襲われた経済状況下で避難場所・移住場所のある人々である。一方、その子供たちは、比較的裕福な家庭ともなり、学校のリモート授業の不備、不満な箇所を、塾また予備校などでフォローもできる安全地帯にいる。だが、そうした教育産業界ですら、オンライン授業やらネット配信授業に甘んじているところが半数以上だとも聞いている。
 
 NHKの某番組でも特集していたが、サービス業、営業職などのエッセンシャルワーカーの親などは、リモートワークなどできはしない、また、そうした家庭であればあるほど、オンライン授業やネット配信授業の恩恵を被れない不公平な社会ともなっているのが現状である。その親は致し方なしにしろ、その子供たちは、格差の開きをいっそ強めている。その親の収入源の激減により、高校進学や大学進学のために必須の塾や予備校に通えない状況である。
 
 さて、こうした現状における、デジタル化の推進、「社会人は7割リモートワークで!」という標語を政府は掲げてもいるが、実態は、理想通りにはいかない。日銀の黒田総裁と安倍元首相の目指したデフレ脱却政策と同じものである。
 
 これは、私の教え子の神奈川県の某有名女子進学校での話である。「Yさんの学校は、リモート授業をやっているの?」と、緊急事態宣言が出されたあとに、聞いたところ、「ほとんどの先生は、ITやオンライン器機がまともに扱えないのでやっていません」とその女子の生徒は応えてきた。これが、日本の企業社会の縮図でもある。この女子高と似たり寄ったり、いや、それ以下が殆どであろう。2021年9月のデジタル庁の発足も、人材不足、士気のもり上がり方など前途多難である。こうした女子校の教師のアナログ度を批判しているのではない、むしろ、“こてこてのデジタルイミグラント”であれと叫びたくなるのである。こうした教師と一般企業の社員は、最大公約数的に、準デジタル人間である。そうした世代の大人は、敢えて、デジタル人間になろう、デジタルのスキルを身に付けよう、そんなケチな根性をかなぐり捨ててしまえとエールを送りたくなるのである。この点教育評論家の尾木ママこと尾木直樹氏などは、「教師も一生勉強なのよ!」デジタルの時流に乗り遅れるなと自身のことは棚に上げ、俗耳に入りやすい、俗受けする言葉で人気を博し、それを維持したいらしい。尾木ママの発言は、いつも底が浅い、牧師や神父のように、愛に帰着するように現実の仮面を被った理想論である。いつも語っていることだが、冗談か正気かは知らないが、「教育は愛なのよ~!」が彼の口癖である。尾木ママの教育観は、幼児英会話スクールやビジネスマン向け英会話スクールの英語教授法にそっくりでもある。英語嫌いの中学生、英語苦手の高校生、大学受験を突破したい受験生などには一切参考にならないものばかりである。実用主義、理想主義、時代迎合主義の教育観で、文化や思想を語れる知識人の言説とは一線を画す薄っぺらい、まともな親なら参考にもできない代物である。しょうがない、バラエティー番組のプラットフォームに乗っているタレントでもあるから致し方もあるまい。また、‘オネー言葉’で、批判をかわせるずるい立ち位置にもいる。また、落ち目の地上波テレビでは、無難に重宝できる‘教育評論家’でもある。
 
 明治新政府の軍人が、西洋の軍服を着ても、精神は武士なのである。刀から鉄砲に武器が変われど、農民や町人からなる徴兵令で組織された兵士はほとんど飛び道具を操るに不備がある、ぎこちなさをとどめてもいた。次の世代の陸軍士官学校を出るまで、そうした近代兵器の操り方は弁えてもいない、指導もままならない、外国人まかせでもあった。しかし、<(つわもの)の心得>とやらを伝授すれば、それで足りたのである。それがアナログの力というものであり、日本文化の精髄でもあり、ある意味、幕末に洗練された、良き意味での“武士道”でもあった。封建という世に、西欧近代という大波が押し寄せ、合理主義とリアリズムに裏打ちされた<和の精神>が残った。これを、坂本龍馬流に、「洗濯された日本」とも言えなくもない。
 この文化として<和の精神>を“勇ましい大和魂”などにすり替えたのが昭和の軍人たちでもある。ここをもって小林秀雄の寸鉄「勇ましいものはいつでも滑稽だ」が辛辣な輝きを増してもくる
 
 アナログ気質の教師、会社員でもいい、自身の心理的、生理的違和感・嫌悪感を、中年になってまで正そうなどといった間違った行為にでることはないのである。生き方の頑固おやじであれ、作家伊集院静などの生き方を少々参考にされよと言いたいのである。アナログの無頼派を任ぜよと!
 アナログ人間なら、アナログ精神をとことん貫き通せばいい。むしろ、中途半端なデジタルなんぞにかぶれると、自身の武器としての<アナログ的発想>の軸がずれる、これこそ、ブレる、ブレないというものの本義である。
 
 勝海舟、榎本武揚、そして、渋沢栄一などの幕臣で、明治新政府に仕官した生き方もいい、これをもじって、アナログからデジタルへのコペルニクス的転向と称したい。大方の人間は、彼らほどの二刀流の資質も才能もない。それなら、福沢諭吉の如く、明治の世、徹底的に非官の世界、いわば我流のアナログの世界で生き続けよとむしろ“ネオ痩せ我慢の説”を勧めたいのである。


 

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