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子供にゲームの是非論~デジタル派の論拠~

「思想で大切なのは、何を語ったかではなく、誰が語ったかである」(マルクス)
今回は、子供とゲームとの関係を語ってみたい。世の親御さんの悩みの種である。
だいぶ前のことのである、いや数年前だっただろうか、あるテレビ番組で、落合陽一氏に、視聴者から、「うちの子どもはゲームばかりして困っているんですが、なんか手立てはありませんか?」という質問投書を受けた際の、その解答ぶりである、次のように応じていたことが非常に印象的でもあった。
「うちの子なんかは、ずっとゲームばかりしていたけど、ある時期から、全くやらなくなって、気が付いてみたら、本ばかり読むようになっていて、子供に“どうしてゲームやらなくなったの?”と訊いたら、“もうつまらいよ!”と応じてきたんだ、やらせておけばそのうち飽きてくると思いますよ」
まさしく、知的狡猾、知的無責任、知的ブルジョワの返答以外の何物でもない。
私の推測であるが、彼のお子さんは、落合氏の妻などが彼のいない所で巧みに誘導したのか、超多忙な落合氏である、育児として我が子に四六時中接している時間などあろうはずもない。それが根拠である。もう一つ考えられるのは、やはり、先天的に“賢い”お子さんであった可能性である。また、デジタルというものに馴染めない資質なりがあったのやもしれない。こうした、落合氏自身がうかがい知れない背景とやらが引きがねとなり、ゲーム卒業と相成ったのが原因ではないかと思う。
台風や入梅といった雨の悩みを知らない北海道民が、雨による災難・生活の不如意をアドヴァイスしているようなものである、また、熱帯地方の島民に北海道や北陸の豪雪対策を仰ぐようなものでもある。
次に、成毛眞氏に関するゲーム肯定論とやらに触れてみたい。彼は、様々な自書で、「子供にゲームをやらせなさい」と声高に主張されてもいる、デジタル完全是認ジジイでもある。そこが、ネットなどで、今も若々しく、刺激的なご託宣を述べて支持者が多い所以である。加山雄三が、確か70代の頃でも、孫とテレビゲームをやって勝つほどの素質がおありになった如く、老人になっても、デジタルに適応できる資質の持ち主でもあろう。また、彼の書などを概観すると、相当のゲームの目利きでもある。論理力を鍛えられる秀逸のものと全くクソともいえる、ただ時間の無駄で何の益もない、むしろ害とさえなるものまで判別される能力をお持ちの、稀なる後期高齢者予備軍でもある。その自身の資質とゲームの知識を相互的に集約して、ゲーム肯定論者となってもいるが、一般の親御さんは、それほどのゲームの目利きでもないし、自身がゲームとの親和性もない、我が子が、金のゲームに出会ったのか、銀や銅のゲームにはまったのか、また、鉄くずのゲームに耽溺しているのかも判別する能力も余裕すらないのが実態である。そういうご自身の立ち位置と自身とはまったく資質にしろ環境にしろ格段の差かある一般ご家庭に「ゲームをやらせろ」とは、無責任も甚だしいといったところだろうか。こうした成毛氏の気質が、まさしく、「好きなことだけをしろ」「飽きっぽい人ほど成長する」「すべての仕事はスマホでできる」だのご宣託を吐かれるホリエモンこと、堀江貴文氏とは非常に馬が合うのは超納得する。

最後に、論破王ひろゆきこと、西村博之氏が最近出された本『僕が親ならこう育てるね』(扶桑社)のなかで、“ゲームは「やるな」より「とことんやれ」が正解だと思う”と述べられてる点にも言及しておこう。
その章(項目)で、ゲームの製作者(開発者)である知人を持つひろゆき氏が引用する次ぎのような事例には違和感を感じた。
その知人(父親)は、仕事柄、自宅には、無数のうんざりするくらいのゲームソフトがあるそうである。そうなると、「このゲームソフトを全てクリアーするのは不可能だと思い一切興味を示さないそうである」「ゲームなんかつまらいとサッカーの方が面白い」と考えて、その息子さんはゲームをしなくなったそうである。どうもこの論法はいかがわしい。例えばの話である。大衆浴場の10代の息子や産婦人科の40代の男性医師が、女子の裸体に興味を持たなくなるのか?といった盲点が、ここにはある。
このケースを持ち出して、我が子には、うんざりするくらいゲームをやらせて、もうゲームが飽きるほどの環境におくべきだ論を主張しておられる。将来性犯罪者にならないように、その対策に、子供や少年時代から、これでもかこれでもかとエロビデオやヌード写真を飽きるほど目にさらせてやればいいといった、極端な論法と同じである。これなども、ある意味、理想論である。一般のお子さんは、TDLに毎日とはいわずとも、毎週連れて行って、もう「ミッキーに会うのは飽きたよ」と言うだろうか?飽きたお嬢さんなりがいたら、その子は、そもそもディズニーランドという“夢のかなう場所”には、親和性がないのである。普通は、“TDLのリピーター、もしくは夢の国中毒症”に陥るのが常識的見解というものである。
「TDLにしょっちゅう連れて行ってよ、ママ!」とせがむお子さんに、果たして、ひろゆきの手法で、夏休みに毎日30日間TDLに連れて行って、ミッキー愛、TDLフリークの気質がしぼむであろうか、そういった問いをひろゆき氏に投げかけてみたいのである。
彼のずるがしこい気質は、次のようなコメンにもあらわれてもいる。
インターネットとどう我が子を向き合わせるべきかといた質問に、彼は、次のように答えている。
「僕が親だったら、インターネットを使っても大丈夫な子どもに育てるね」
こんなのは、理想論である。これができるなら、世の親御さんは苦労しない。落合氏やひろゆき氏に質問などしない。
敢えて言わせてもらえば、SNS社会の恩恵でのし上がった者たちの言説は、常に、ネットにしろ、ゲームにしろ、それを抑制する、禁止する方向性とは真逆に、デジタルという人間内部に波及してもいる“精神の温暖化=デジタル化”に寛容なのである。それに反旗を翻す、否定するものなら自身のレゾンデートル(存在理由)が弱体化して、おまんまの食いっぱぐれるとなることを恐れてもいるからである。いや、北極やアラスカに住んでいる原住民のごとく、適度な<温暖化というデジタルの空気>はどうも擁護したいらしい。麻生太郎の「地球温暖化で、北海道の米が旨くなった」発言と同様に、デジタルで、ゲームで、スマホで人間が賢くなったとこの御3方は主張したいらしい。彼らは、「近未来、温暖化でアラスカの米が旨くなる」とお考えのようである。

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