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コムデギャルソンの川久保玲と私

この青山の街に籠っているけれど、山の中にひとりでいるのと同じなんです。それが心地よいので問題はありません。
川久保玲
 
仕事に際し、社会や業界や流行など気にかけないし、旅など別なことをすればプラスになるとも思わないと、ファッションデザイナーは言う。内に向かう問題を突きつめていった果てで誰をも揺さぶる<普遍>にふれる、その覚悟を貫いてきたのか。インタビュー「コムデギャルソン パリ・コレさんか40年」(昨年12月9日本紙朝刊)から。
折々のことば 鷲田精一  朝日新聞より

今も、私のひそやかな誇りである。それは、私の大学院時代(1996年)のことである。恐らく週末金曜日の午後であっただろうか、三田キャンパスは学生の数が少なかったように記憶している。しかし、ある学生の歩く群れだけが、異様に慶應大学の一番大きい教室へとぞろぞろと向かっている人流だけが、いやに目についた。即、気づいた。OBの橋本龍太郎総理の講演会がこれから開かれようとしていた。あのサルトルが講演を行った大教室で人気絶頂の橋本首相が、後輩を前に講演をすると気づいた私は、そちらに授業もない昼すぎ「行ってみようかな?」と思いついたその矢先、大学院棟の入り口で、地味に張り紙があった。コムデギャルソンの川久保玲講演会と張り出されていた。あの総理の講演会と一流デザイナーのそれの宣伝の格差の大きなこと!学生たちが気づかぬのか、興味がないのか、その川久保玲の講演会に行くようなキャンパスの雰囲気でもなかったように思われる。「あの川久保玲か?」と、彼女のデザインの服などは、興味もないし、また、服も購入した経験もない私は、彼女のファッションデザイナーとしての哲学には、少々興味もあり、彼女の人間にもミステリアスさがあり、日ごろ気になってもいた有名人でもあった。世俗的な政治家、メディアで脚光を浴びてもいる総理、大方の慶應の後輩は、橋本龍太郎という存在の磁場に惹きつけられてもいたことであろう。卑俗と通俗とを嫌う気質の私は、即刻、川久保玲の講演会を選んだ。そして、その教室へと赴いた。20名程度しか入らないゼミ専用の教室である。長テーブルが、長方形に組まれ並べられていた。座る席の余裕はあったように記憶している。あの1000名以上収容可能な橋本総理の講演が行われる大教室と何たる違いか!今でこそ、文化勲章一歩手前のファッションデザイナーでもある川久保玲では考えられないことであろう。それほど、当時の慶應生は、自身のOBの総理に目が向き、その当時でも超一流のデザイナーでもあったコムデギャルソンの創業者に目が向かなかったセンスのなさに今でも、学生ってそんなミーハー気質な輩であったと感じいった自分が思い起こされてもくる。
黒いサングラスをかけ、黒服を身にまとった小柄な、おかっぱ頭の女性が入ってきた。「この人がコムデの川久保玲か!」と思ったものである。慶應の哲学科を卒業し、旭化成に入社し、その後独立して、デザイナーとして羽ばたいたカリスマデザイナーは静かな人であった。そして寡黙という印象すら受けた。1時間くらいであろうか、講演の内容は忘れてしまったが、一点、今でもはっきり印象が残っているコメントが以下の発言である。
「私は、イメージが湧く、着想を得る、その際に行う行為は、この教室の壁のように、真っ白な壁をじっと見つめるのです。ただ見つめるのです。そうすることで、アイディアや服のイメージが湧き上がってくるのです」
<黒の衝撃>としてパリコレにヨウジヤマモト(慶應の法学部出身)と旋風を巻き起こしたコムデギャルソンの発想の原点をちっとばかり垣間見た思いがした。
非常に物静か、寡黙、やはり女性哲学者の佇まいすら感じさせる容姿、その彼女と1時間あまり同じ空間に、20名足らずでいたことが、いや、あの橋本龍太郎の同日同時刻に行われた講演を袖にした、政治よりも文化をその場で選択した、その当時の判断が我ながの自慢でもある。
私の大学生時代、世はバブルの真っ最中にあった。しかし、私は、風呂なし、共同便所・流し場の四畳半のおんぼろアパートの住み込み新聞奨学生として、浪人生活を含め5年の年月を、テレビも持たず、周囲はギャンブルと角打ち(酒屋での立ち飲み)が楽しみの新聞配達のオヤジ連中と寝食を共にしていた。夕刊配達のある四時半くらいにまで帰宅しなければならなかった定めでもある私生活では、大学のサークルなど入る余裕もなし、また、仏文科の友人と授業後の飲み会など一切疎遠なる生活を送ってもいた。横浜の場末、伊勢佐木町の古本屋で購入した書籍や大学図書館で借りた本、それを読む生活と、フランス語の鍛錬のみの生活に明け暮れてもいた。時たま、新聞専売店の番頭さん(主任)に、他の専門学校の奨学生と日帰りの箱根や湘南方面のドライブ程度が“小旅行”でもあった。学生時代は、海外旅行はもちろん、国内旅行すらしたことがない4年間でもあった。この期間を私は、“僕の鎖国”と知人なんぞに手前勝手に、笑いながら吹聴してもいる。しかしである、江戸時代約200年の間に、まるで樽の中のワインやウイスキーが熟成され、そして芳醇な名品となるように、日本の文化(食文化から絵画に、そして蘭学に至るまで)が形成されてもいった。その200年間が、私の4年間の新聞奨学生時代でもあった。この年月を称して、三島由紀夫の「俺は戦後と寝なかった」をもじって、「僕はバブルと寝なかった」と知人にええかっこしい的に語ってもいる。
世の知見を広め、それを深めるには、世界中を旅して回る、また、様々人々に会う、更に、色々なアルバイトをする、確かにこうした経験も大切であり、いっぱしの社会人ともなる<陽の街道>であり、<明のルート>でもあり、ある意味、<大手門>ともされている。しかし、<陰の小道>あり、<暗の獣道>あり、<搦め手>という門もあるという事実を“目に見えるモノ”のみを経てきた一般大衆の人間にはわからないものである。
佐藤優しかり、堀江貴文しかり、宮本武蔵(吉川英治版)しかりである。拘置所での読書、姫路城の座敷牢での読書というものが、彼らを飛躍させて、一回りも大きくさせたという真実に思いを馳せた時、私のバブル時代の新聞奨学生の経験も似たようでもあったと、この川久保玲の言葉から自身を「あの4年は失われた青春、後悔すべき学生生活ではなかった」と納得させもしている。
「刑務所は、テロリスト(イスラム過激派)の学校である」(佐藤優)

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