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健康という病・受験という病

 「夢を叶えるには、欲から入って、欲から脱せよ」(野村克也)
 
 一般のスポーツ選手は、名選手になりたい、巧くなりたい、その深層心理には、お金持ちになりたい、裕福な生活をしたいといった金銭的な俗物根性も横たわってもいる。実業家にしろ、いっぱしのサラリーマンにしろ、共通するメンタルではある。
 アスリートに関しては、とりわけ、そのジャンルで功成り名遂げる選手は、頂点を極めるや、その俗なる精神から脱せよと野村克也は言う。
 
 これは、アメリカなどで巨万の富と得た億万長者が、晩年寄付活動や慈善活動で築いた財産の多くを捧げる企業文化があるのに対して、日本は自身の懐や息子に残そうとするめめっつちい風土と対照的であると経営コンサルタント波頭亮氏が指摘しているところである。
 この、欲から入って欲から脱するという心構えは、実は、受験に関しても当てはまるようである。一般人は、死ぬまでこの欲のスパイラルから脱しきれない悲しい性を有しもいる。ここに付け込んだマンガが『二月の勝者』であり、また『ドラゴン桜』でもある。
 中学受験で、中高一貫の名門校に入るや、気が緩み中学時代に中だるみがくる。また大学受験で、超有名な大学に入る、その後、受験勉強という欲からはいって、自身の欲が叶って、次は超有名企業に入社だ、そのための就活のノウハウのお勉強、就活に有利になるアルバイトや海外留学・旅行経験、また、資格なんぞに血眼になる行為である。これらの行動も、次段階への欲というものが駆り立てているものである。何か次の段階で役に立ちそうだというこざかしい、みみっちさを感じずにいられない。
 
 さて、この欲から入って、欲の穴倉に籠り続けるメンタルを、<異常なる受験根性>と命名させてもいただこう。この病巣を痛烈に批判しているのは、脳科学者の茂木健一郎氏である。彼は“TBSで放映されているクイズ東大王”という番組を痛烈に批判している。この通俗番組は、大学受験の勝ち組や東大生憧れ組の中高生へ、学歴コンプレック・学歴ノスタルジー・学歴優越感を、物知り・知識第一主義の観点からむしょうに呼び起こすものである。東大生妄想、東大生は物知りだ、東大生はIQが高い、問題解決能力に秀でているなどなどの幻想を抱かせる典型的な装置となってもいる。あんなテレビ出演する“いびつな”東大生は、ほんの一部にすぎない、それをマスで煽り、焚き付け、イメージ拡大する番組といってもいいと茂木氏は主張されている。学歴主義を、また違った方向へと拡散しかねない。
 五木寛之の『健康という病』という新書があるが、健康を過度に気遣うことは、深刻な病気であるといった趣旨の本である。世の、立川談志なら言いそうなことば「健康のためなら死んでもいい」、この風潮を五木氏は揶揄してもいる。
 昔、某お笑いタレントが書いた本のタイトルの文言の一部で、“異常な健康”というものを記憶している。
 中学受験を題材とした『二月の勝者』にしろ、大学受験(東大志望)をテーマとした『ドラゴン桜』にしろ、この“異常な健康”を捩って、“異常なる受験”と呼びたくもなる平成令和の世である。前者は、自身の内面に、厳しい管理栄養士がいる、また、口やかましい筋トレトレーナーがいて日々指導を強いてもくる。日常の食の楽しさ、文化的娯楽を犠牲にしてまでも、健康診断で全ての項目がA判定、そして、マッチョ体質、それを至上目的に生活している健康教の信者である。後者は、中学受験でイイ学校に入れば、お勉強をして、イイ大学に入れる、そして、イイ大学に入れれば、イイ会社に入れる、イイ会社に入れれば、一生イイ生活ができるとお考えの極楽とんぼの連中である。
 マッチョな筋肉体質で、健康診断でも問題なし、これは、ダイエットして、食べたい料理も、好きなお酒も口にせず、<毎日ラマダン>を繰り返す、それで医師の言うがままを実践しているおとうさん連中にも該当することだが、五木氏が指摘する<健康という病>の実例でもあろう。ライザップがあんなにも受けるのは、この<健康という病>ビールスの感染症例の一つである。あのライザップのCМに出演した人を、その後、数年して追跡調査をしてもらいたいものである。筋肉体質のマックスの段階が、高校球児の甲子園出場と同様にピークである。ボクサーのチャンピオン同様に、いつまでも、そんなCМでひけらかした美形を維持できるものではない。
 
 世で成功した億万長者が、次に向かう欲の対象は、時間である。つまり、お金の次ぎは寿命が欲望の対象となるのである。長生きするには、まずは、健康だ、健康になるには、ダイエットだ、筋トレだ、ジョギングだ、食生活だ、サプリメントだ、健康食品だ、有機野菜だ、こうした日常の<健康ラプソディー>が脳内に鳴り響くのである。まあ、しないよりした方がましと掛かりつけ医師は、言うものである。それが<健康教の司教>でもある医師の役割というものでもある。自身の仕事がら、健康要因となることしか助言したりはしない。煙草を辞めよ、お酒は極力ほどにと。自身は医師でもある養老孟司氏は愛煙家でもある。
 この健康志向と、イイ学校・イイ大学・イイ会社思考といった連結発想といったものが、次段階への<青い鳥という幸福幻想>を抱かせるのである。
 健康的な生活をしても、若くして病に苦しむ者、猛勉強をしても、中学高校で沈んでゆく者、また、大学で遊び惚ける者、人生様々である。
 健康という、学歴という、いわゆる集団洗脳、現代社会の呪いというものから解き放たれることが非常に難しい。それは、ネット社会、情報社会、スマホ社会で、その呪いはヘルスリテラシー、受験リテラシーという“知”しか解くことができない。
 その呪いを知った、自覚した東大生は、以下の真実を知るのである。
 
 「東大までの人、東大からの人」
 
 この自覚、つまり「無知の知」(ソクラテス)から、更に新たなる高邁なる一歩を踏み出した者だけが、社会という大海原で、すべてのしがらみから解放された<幸福=禅僧的悟り>をつかみとることができるのである。この魔法の杖を、月並みな表現で言うと、教養(リベラルアーツ)と言う。

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