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HOME > コラム > 共通テストへの素朴な疑問{誰も指摘してこなかった!}
コラム
共通テストへの素朴な疑問{誰も指摘してこなかった!}
受験考
共通テストの英語問題 「日常場面」にリアル無し
「どの対策本がおすすめですか?」。浪人生のA男から質問を受けた。残り1カ月を切った大学入学共通テストの英語の件である。
初回の共通テストは各科目で出題傾向に大学入試センター試験からの変化が見られたが、特に英語は変化が顕著だった。リーディングでは発音や文法、整序英作文といった問題形式が姿を消し、図表を用いた情報処理系の問題が増えた。電子メールやウェブサイトを題材とする読解問題など、日常的な場面を想定した出題が多く見られた。
昨年の受験生は試行調査の問題から変更点を事前に予想してはいたものの、どんな対策を打てばよいのか苦慮していた。それに比べれば今年はましだ。すでに1年分の過去問がある。とはいえ、それで、この1年の間に出版された対策書が頼みの綱となる。
私も各社の対策書に目を通しているものの、実際に生徒に解かせた経験が少ないから、A男に確信を持ったアドバイスはしにくい。苦肉の策で「友人同士で各社の対策書をかき集めて、勉強会を開いてみては?」と提案した。
A男はさっそく有志を募り、対策書を研究する勉強会を開いた。広く問題に触れてみると、各社で難易度や傾向に違いがあるらしく、受験生たちの精緻な分析にいたく感心した。
一方で、問題の題材に対しては疑問が湧き出たという。「こんな電子メールや図表を目にする場面なんて本当にあるんですかね」とA男。確かに、出題者が想定する日常と学生のリアルな日常が解離している印象だ。
私も同席した勉強会の最後にA男は言い放った。「以前のセンター試験の問題を解いた方が英語力が上がる気がするんですが、思い違いでしょうか?」
私は否定できなかった。「日常」や「実用場面」が頻出する共通テストで、問われる英語力が平板になった感が否めない。
日本経済新聞2022年1月4日より
この日経新聞の<受験考>は、まだ掲載されて半年も経たないが、受験現場、それも某塾の塾長らしき人物が、匿名で書いているもので現場の息吹が伝わってもくる良質にして、良心的なコラムである。毎週火曜日、楽しみに拝読している。
さて今回の共通テストに関する内容だが、この共通テストの英語の問題の、ある意味、実用英語検定科、TOEIC化、そう感じずにはいられない。それ以上に、非現実的な、ヴァーチャルでありながら、その実は、“あり得えへん場面”など、強引に擬似空間を作り上げ、作問し、その場での状況判断を試す問題でもある。実人生で、せいぜい、一度か、二度程度しか出くわさない、いや、皆無かもしれない場面で、それを踏み台に、その生徒の人生を左右する、英語力とみなすその軽薄にして、浅慮にしか感じられない、作問意図に、<実用主義の化け物>に取りつかれた文科省の脳髄が透けても見えてくる。
この令和の共通テストなるものは、中等教育の普通高校から、商業高校・工業高校への変換、極論やもしれぬが、評判のよい地方の高専の、巷の専門学校化とも言ってもいい改革である。
何か、国は勘違いしているようである。これは、昔から、弊著『英語教師は<英語>ができなくてもよい!』の中で主張している点なのだが、小学校時代、英会話スクールに通っていて、中学生になるとその発音など教室で一目を置かれる公立中学校の生徒、小学校時代に、サピックや日能研などで英語など無縁で、国語算数理科社会に没頭して有名中高一貫校に進んだ生徒、その後の英語の伸びしろの違いといったものに思いを巡らそう。分かる人はお分かりになるはずである。これ以上は、論を述べない。
社会人となり、会社から学費などを支給され英会話スクールなんぞに通う、また、TOEIC何点以上を義務付ける会社にいる社員で、アフター5に英語参考書に血眼に取り組む者、こうした連中に限り、高校時代に、まっとうで、正統的な、従来の昭和から伝承されてもきた英語の精髄ともなる英文法や構文や、読解の手法など身に付けてこなかった部族でもある。本来は、この骨太の<読みと書く>能力に軸足を置いて英語に向き合ってきた高校生は、大学生になったら、<聞くと話す>能力に磨きをかけ、その実用性が開花するというのが英語教育の本義であり、本道でもあった。これは、最近、東進ハイスクールの安河内哲也氏が、朝日新聞の投稿欄の中で吐露していた経験が、ものの見事にそれを証明してもいる。しかし、大学は、その後者を育てる能力に欠ける機関である。それができないから、中等教育に、その責任を‘高大接続’などという美名の下、責任をおっかぶせてもいる。それは、現代の経済界も同様である。シビアになったのか、それが本来の姿なのかは知らないが、企業も即戦力となる、いわば、使える人材を求めている。もう、悠長に新人を育成する時間も金もない時代であるからだ。それらは、中等教育、高等教育、実社会と実益主義・効率主義というドグマにかぶれ、平成不況の最中に、ボタンの掛け違いをしてしまった帰結でもある。
これは、飛躍して聞こえるやもしれないが、中等教育で、アクティブラーニングだのを標榜するくらいなら、一層、フランスのリセ(高校)で必須の哲学という科目を日本の高校生に義務付ける、いや、自覚させる、倫理という科目の中に、哲学という頭に汗をかくコマを課すことのほうが、アクティブラーニングなどといったごっこ的響きのある教科より、一層、高校生などを、地頭で考える習慣を根付かせることにもなると思うのだが。
英語とて同じである。<話し・聞く>という英語の能力は、中等教育における上っ面なアクティブラーニングに等しい。一方、<読み・書く>というそれは、高校生の“哲学”という、私が主張する科目に同義となる。
高校生に、「アクティブラーニングの時間ですよ」と掛け声をかけるのと、「哲学の時間だぞ」と呼びかけるのでは、生徒の内面の学ぶ自覚の雄々しさが明らかに違ってもくる。その補助として、倫理という様々な思想家・哲学者の考え・キーワード・名言などを教師は教授して、単なる思いつき、印象批評などにブレーキをかけるである。
この<受験考>の論点ではないが、共通テストの向かうコンセプトは、普通高校の専門学校化である。その象徴が、2025年に共通テストで必須化される情報という科目である。巷の日本工学院や朝日コンピュータースクールの講師の、普通高校へのリクルートの時代の夜明け前でもある。
「企業は利益だけを追い求めるのではなく、倫理観をもつために、哲学者を採用せよ」(マルクス・ガブリエル)『Voice』令和3年4月号
共通テストの英語問題 「日常場面」にリアル無し
「どの対策本がおすすめですか?」。浪人生のA男から質問を受けた。残り1カ月を切った大学入学共通テストの英語の件である。
初回の共通テストは各科目で出題傾向に大学入試センター試験からの変化が見られたが、特に英語は変化が顕著だった。リーディングでは発音や文法、整序英作文といった問題形式が姿を消し、図表を用いた情報処理系の問題が増えた。電子メールやウェブサイトを題材とする読解問題など、日常的な場面を想定した出題が多く見られた。
昨年の受験生は試行調査の問題から変更点を事前に予想してはいたものの、どんな対策を打てばよいのか苦慮していた。それに比べれば今年はましだ。すでに1年分の過去問がある。とはいえ、それで、この1年の間に出版された対策書が頼みの綱となる。
私も各社の対策書に目を通しているものの、実際に生徒に解かせた経験が少ないから、A男に確信を持ったアドバイスはしにくい。苦肉の策で「友人同士で各社の対策書をかき集めて、勉強会を開いてみては?」と提案した。
A男はさっそく有志を募り、対策書を研究する勉強会を開いた。広く問題に触れてみると、各社で難易度や傾向に違いがあるらしく、受験生たちの精緻な分析にいたく感心した。
一方で、問題の題材に対しては疑問が湧き出たという。「こんな電子メールや図表を目にする場面なんて本当にあるんですかね」とA男。確かに、出題者が想定する日常と学生のリアルな日常が解離している印象だ。
私も同席した勉強会の最後にA男は言い放った。「以前のセンター試験の問題を解いた方が英語力が上がる気がするんですが、思い違いでしょうか?」
私は否定できなかった。「日常」や「実用場面」が頻出する共通テストで、問われる英語力が平板になった感が否めない。
日本経済新聞2022年1月4日より
この日経新聞の<受験考>は、まだ掲載されて半年も経たないが、受験現場、それも某塾の塾長らしき人物が、匿名で書いているもので現場の息吹が伝わってもくる良質にして、良心的なコラムである。毎週火曜日、楽しみに拝読している。
さて今回の共通テストに関する内容だが、この共通テストの英語の問題の、ある意味、実用英語検定科、TOEIC化、そう感じずにはいられない。それ以上に、非現実的な、ヴァーチャルでありながら、その実は、“あり得えへん場面”など、強引に擬似空間を作り上げ、作問し、その場での状況判断を試す問題でもある。実人生で、せいぜい、一度か、二度程度しか出くわさない、いや、皆無かもしれない場面で、それを踏み台に、その生徒の人生を左右する、英語力とみなすその軽薄にして、浅慮にしか感じられない、作問意図に、<実用主義の化け物>に取りつかれた文科省の脳髄が透けても見えてくる。
この令和の共通テストなるものは、中等教育の普通高校から、商業高校・工業高校への変換、極論やもしれぬが、評判のよい地方の高専の、巷の専門学校化とも言ってもいい改革である。
何か、国は勘違いしているようである。これは、昔から、弊著『英語教師は<英語>ができなくてもよい!』の中で主張している点なのだが、小学校時代、英会話スクールに通っていて、中学生になるとその発音など教室で一目を置かれる公立中学校の生徒、小学校時代に、サピックや日能研などで英語など無縁で、国語算数理科社会に没頭して有名中高一貫校に進んだ生徒、その後の英語の伸びしろの違いといったものに思いを巡らそう。分かる人はお分かりになるはずである。これ以上は、論を述べない。
社会人となり、会社から学費などを支給され英会話スクールなんぞに通う、また、TOEIC何点以上を義務付ける会社にいる社員で、アフター5に英語参考書に血眼に取り組む者、こうした連中に限り、高校時代に、まっとうで、正統的な、従来の昭和から伝承されてもきた英語の精髄ともなる英文法や構文や、読解の手法など身に付けてこなかった部族でもある。本来は、この骨太の<読みと書く>能力に軸足を置いて英語に向き合ってきた高校生は、大学生になったら、<聞くと話す>能力に磨きをかけ、その実用性が開花するというのが英語教育の本義であり、本道でもあった。これは、最近、東進ハイスクールの安河内哲也氏が、朝日新聞の投稿欄の中で吐露していた経験が、ものの見事にそれを証明してもいる。しかし、大学は、その後者を育てる能力に欠ける機関である。それができないから、中等教育に、その責任を‘高大接続’などという美名の下、責任をおっかぶせてもいる。それは、現代の経済界も同様である。シビアになったのか、それが本来の姿なのかは知らないが、企業も即戦力となる、いわば、使える人材を求めている。もう、悠長に新人を育成する時間も金もない時代であるからだ。それらは、中等教育、高等教育、実社会と実益主義・効率主義というドグマにかぶれ、平成不況の最中に、ボタンの掛け違いをしてしまった帰結でもある。
これは、飛躍して聞こえるやもしれないが、中等教育で、アクティブラーニングだのを標榜するくらいなら、一層、フランスのリセ(高校)で必須の哲学という科目を日本の高校生に義務付ける、いや、自覚させる、倫理という科目の中に、哲学という頭に汗をかくコマを課すことのほうが、アクティブラーニングなどといったごっこ的響きのある教科より、一層、高校生などを、地頭で考える習慣を根付かせることにもなると思うのだが。
英語とて同じである。<話し・聞く>という英語の能力は、中等教育における上っ面なアクティブラーニングに等しい。一方、<読み・書く>というそれは、高校生の“哲学”という、私が主張する科目に同義となる。
高校生に、「アクティブラーニングの時間ですよ」と掛け声をかけるのと、「哲学の時間だぞ」と呼びかけるのでは、生徒の内面の学ぶ自覚の雄々しさが明らかに違ってもくる。その補助として、倫理という様々な思想家・哲学者の考え・キーワード・名言などを教師は教授して、単なる思いつき、印象批評などにブレーキをかけるである。
この<受験考>の論点ではないが、共通テストの向かうコンセプトは、普通高校の専門学校化である。その象徴が、2025年に共通テストで必須化される情報という科目である。巷の日本工学院や朝日コンピュータースクールの講師の、普通高校へのリクルートの時代の夜明け前でもある。
「企業は利益だけを追い求めるのではなく、倫理観をもつために、哲学者を採用せよ」(マルクス・ガブリエル)『Voice』令和3年4月号
2022年2月 7日 17:29