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私が勉強を始めた動機(きっかけ)①

 私は、両親から、「勉強しろ」「大学に行け」と言われたことが一切なかった。むしろ「勉強はするな(※むしろできない方がいい)」「お前は、商業学校(※名門とされた都立三商)に行って、将来この店を継げ」と言われ、好き気ままに、小学校5年生までを過ごした。勉強がなまじっかできると、父の青写真とは違った人生行路、即ち、普通高校から大学へといった、本家の大伯父の方針に背くことになるからでもあったのであろう。この本家のKおじいさんは、「商人に学問はいらない!」と口にする、明治生まれの叩き上げの商人であり、親戚一同には恐れも加味した、畏れ多い存在でもあった。子どもながら、この大伯父は、私にとっても超恐い存在であった。
 
 我が家は、祖父(※Kおじいさんの弟)が東京の下町に、大正末期、和菓子店を始めた家系である。父は二代目で、戦後、洋菓子職人になり、パン製造小売業へと、個人商店を中小企業にまで大きくした。学校給食のパンを公立学校へと配送する業務までてがけていた。私は3代目である。私がもの心ついた時機から耳にしていた言葉である。「お前は、大学なんかに進むな、勉強なんかするな。本家(※私の祖父の兄の家:大伯父)のMちゃんもTちゃん(※私の従兄であり、野球や将棋を教えてもらった)も高卒で、米屋(※E区で最大の米穀店だった)を継いだんだから。お前は、商業高校を卒業したら、洋菓子学校へ進み、パリあたりに洋菓子修行にいき、お前の代になったら、デパ地下(※その当時はそういう言葉はなかった)に出店して、このT店の暖簾の格をあげろ。だから、勉強なんてできなくてもいい」親類一同、東京下町で一番大きい、地元密着型のスーパーを手掛けるなど、私の父方の家系は<商人(あきんど)精神第一、学問(べんきょう)二の次の家風>でもあった。因に、母方も、東北でみな商売を手掛ける家系であった。だから、母方の従兄姉も、大学卒は一人もいなかった。
 
 父が、息子を将来、パン・ケーキ職人にする手前上、簿記や経理にもある程度精通する必要がある、また、将来、商業高校へと進ませる意味でも、私を、小学校5年から一年近く、そろばん塾に通わせた。商業学校では、そろばんが得意な方が、何かと有利という目算があったのであろう。2級まで取って6年になる直前で辞めた。
 
 公立小学校の成績は、5年の終わりまでは、国語算数理科社会の合計でも、中の少し下くらい(45人中25~20番)で、全く勉強はできなかった、いや、勉強の仕方もわからず、また、意欲すらなかった。両親は非大卒であり、工場の住み込み職人さんたちが、放課後の遊び相手で、皆、中卒や高卒であって、知的な、勉強の空気、進学の風、そんなもの、一切ない家庭環境でもあった。中学受験勉強など“暗黒大陸”、未知なる世界として、4年生から四谷大塚に通う同級生や、ボーイスカウト(※昭和の時代、ボースカウトの同級生は勉強ができた秀才タイプが多かった)に毎週日曜日、かっこいいユニフォームで我が家の店先を歩いてゆく光景など、別世界の“人種”の日常とも感じられていた。
 
 5年生の終わり頃であろうか、地元の公立中学校が、全員丸坊主にする実態を知った。入学と同時に、男子が高校野球と同じ、五分刈りにしなければならない慣例(?)か、校則(?)があることを知った。地元の小学生は、ほとんど、この現実に抗えず、しぶしぶ丸坊主で、そのG中学校へ進む羽目となる。私は、これが、非常に生理的、心理的に、嫌で、嫌で、たまらなかった。将来、野球をやるか否かでも、この高校球児の丸坊主が嫌で、中学以降の野球の部活の進路を回避した。更に、当時、TBSドラマ三年B組金八先生の初代の時代でもあり、公立中学校が、荒れに荒れまくってもいた頃でもある。“不良の生徒”の多い、こんな地元中学校への拒絶反応まで加わった。特に、このG中は不良のメッカとして悪名高かった。こうした二つの理由で、私は、5年生を終える頃、父の望む進路が、このG中へ進むこと、イコール、負のダブルイメージの現実として浮上してきたのである。
 
 6年生になりたての頃、山梨の従兄(※このHちゃんも個人(パパママ)商店(ストアー)の次男である、もちろん高卒である)が、数日我が家に遊びに来ていた。そのHちゃんが、「もうじき、学校のテストだろう?勉強しないのか?」と何気に、学校の定期テストの一週間前ともかぶっていたこともあり、2日で2時間軽い家庭教師をやってくれた。それも、試験で重要な箇所の山はりである。「ここは、大切だから、覚えていけ、ここは、必ず出るぞ!」といった具合である。普通だったら、父母はもちろん、祖父母(※同居していた)も、一切勉強しろなどとは、口にしない家庭である。そのくせ、祖母は、毎学期末ごとに私に「通信簿を見せてみなさい」と言ってきたり、それを見ては、「3ばかりじゃないの」と愚痴るのが年3回のルーティンであった。やたら教育祖母的存在ではあったが、勉強しろとか、これじゃダメとかは、矛盾するようだが、一切口にしなかった。恐らく、祖母の頭の中も、この孫は将来、勉強なんてできなくても、このパン・ケーキ屋を継ぐものという観念があったからでもあろう。
 
 算数は、そろばん塾で身に付けた計算能力、いわば、計算の高度化、正確さ、速さが、6年の算数でリンクした、効果が出た。算数は、見事1番か、2番くらいの点数を取ったと思う。国語は、苦手で、むしろ嫌いの範疇であった。一切本を読んだ経験がない(※高校1年からである、読書というものに目覚めたのは)、読解問題など、できるわけもないが、Hちゃんの指導もあり、漢字などの知識系でどうにかマシな点数はとれた。これすらも従来やってこなかったのである。試験当日、「ええ?今日テストなの?」そんなメンタルで5年まで過ごしてきた。Hちゃんの最大の恩恵は、社会と理科である。彼の山はり通りに、きちんと暗記してテストに臨んだ。まさしく、自身では、思いもよらない点数をゲットした。その当時、私は、社会や理科の重要ポイントや、覚える箇所など、全くメリハリのつけかたなどわからず、ましては、テスト勉強など小5まで一切やってこなかった。当然である。
 
 このようにして、6年の一学期の中間か期末かは忘れたが、4科目合計点で、6年4組の中で一位となった。東京の外れの、超下町、千葉県よりの公立小学校でのクラス一位なのでたいしたこともないのだが、これが、明治維新ならぬ、私の“勉強維新”の端緒となるのである。(つづく)

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