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コラム
帰宅部の根底には『帰去来』あり
帰宅部というテーマで、小中高、そして、大学に至るまで、自身の帰宅部の動機、そして経歴といったものを、数回にわたり語ってきたわけではあるが、日本における、初等教育から高等教育にかけての最終目標、つまり、就職、就活に関して語り、一応の締めとしたい。
私が、帰宅部でいた最大の要因、それは、自営業者の家庭・家族、そして親戚が身近にあったことが挙げられよう。もの心がついて以来、保育園から17才までは、パン製造小売業、並びに、洋菓子店を経営する家庭環境が大きく左右してもいた。同年代の友人より、住み込みの職人さんや当時、江戸川区で最大の米穀店を営んでいた本家の親族、そして従兄たちと過ごす時間の方が断然心躍らさせたことが大きかったように思う。また、両親の離婚以後、石巻での5年近くは、母方の親族の“お茶と瀬戸物”を商う、伯父・叔父、従兄たちが周囲にいたことも、サラリーマン家庭と放課後の部活動といった典型的な核家族の家族の肖像など無縁でもあり、現実感として心を躍らせなかった現実、それが大でもあった。
これは、あくまでも私的な一般論ではあるが、両親が勤め人、そして我が家に帰ると、何も楽しいものがない(?)鍵っ子に限り、学校での部活動に夢中になるような傾向があると思われる。彼らは、夏休みでも、夏休みがなきに等しい生活を送る。部活で校門を毎日8月の暑い中通り過ぎることを苦としない、むしろ、夏休み不要派とさえ言える部族である。
実は、こうして涵養された、私の商いっ子気質が、ある意味で、バブル華やかなりし時代、苦学生(?)もどき、いや、住み込みの新聞奨学生として、浪人時代を含め5年もの長きにわたり昭和末期の勤労学生の境涯を何ともしない精神状態を維持させてもくれていたようである。
これは、2年ほどの大手企業勤めを、そのサラリーマン生活から離れさせる気質にも通底していたように思われる。それは、社会人時代、東京の北千住のワンルームマンションから会社のある勤務地へスーツ姿で混雑する電車内で、よく、次のように実感した光景が思い出されてもきた。勤め人から足を洗わせた最大の自身の気質でもある。
学生時代、持ち回りの新聞配達区域に、ちょうど京浜急行の南太田と黄金町の高架線が、大岡川沿いを走ってもいた。晴の日は、もちろんだが、大雨の降るなか、雨合羽を着て業務用自転車をこぎながら、朝6時前後のすし詰めの車内を見上げながら、「あんな、ラッシュの電車での通勤は肌に合わないな!」と述懐したものである。やはり、「サラリーマン生活など、何か憂鬱だな!」と予感されてもいたようである。
こうした気質は、個人営業の飲食店の店主などが、夕刻以降の顧客のために、早朝から仕込み、買い出しなどして、その勝負の時間帯に備えるという生活リズムが水に合うものである。向こうから、お客が赴いてくれる営業手法が、肌に合っているというのは、両親譲りの資質かもしれない。
こうした精神風土からして、短期ではあるが、大手予備校勤めが肌合わず、自身で、その教材なりをこしらえて、オーダーメイドの授業を行う、それも、向こうから赴いてくれる、その責任は100%自己責任でもある。教員や塾・予備校講師は、こちらから、その学校や駅近辺の塾・予備校の教室・校舎へ赴くスタイルでもある。
勤め人スタイルの教師や講師は、生徒のフィルターを通して、それも、バカか利口かおかまいいなしに、評定をつけられる、企業における人事評定に近いものが存在する。こうしたものが、自身の性格はもちろん、色々な意味で、理不尽に思え、ストレスにすらなることが多い。「お客様は神様です」ではないが、「客は絶対である」という論理から、生徒は正しい、それに合わせない、適応しない教師・講師は、減点の評価をなされる、それが、学校運営のみならず、大手の教育産業のビジネス論理でもある。それも数十名から数百名を相手に授業をしても、その後、その教え子との一生のつながりなど薄いものである。しかし、10名以下で行う、オーナー(塾経営者)にして職人(講師)の個人営業主は、廃業するまで、顧客(生徒〔教え子〕)とのつながりが続くことが多く、その絆も深い。有名ホテルのイタリアンやフレンチのコックが独立し、オーナーシェフやオーベルジュの主になる所以もここに存するのである。前者の身分だと、毎朝通勤、そして、定年もあり、自身の作った料理が、客には不明である。一方、後者の立場であると、自身の生活リズムに合わせ起床もでき、素材や料理の仕方も自身の裁量で自在である。それで失敗すれば自己責任で、自身は100%納得もする。さらに、定年など存在しない。体が元気なうちは、働くも引退するも自由である。令和も後半になれば、定年は70歳ともなろう、ましてや年金支給の年齢も75歳以降になりかねない。勤め人には世知辛い世の中になりかねない。自身のスキルが通用する限り、定年はないのが個人営業主の世界である。
父方の親類や、母方の親族を見渡してみると、サラリーマンは一人としていなかった。個人営業主であった。これが、自身をサラリーマン生活になじませなかった大きな遺伝的要因であったと思われる。また、教員免許を有しながら、学校教員や大手予備校の講師など、そちらの方面にも、私を駆り立てなかった。水が合わなかったのである。つまり、価値観が、自由第一、生活第二と考える人間からすれば、週休2日で年収1000万の勤め人より、週休3,4日で我流で商売をし、また、好きなことを、好きな流儀で仕事をして年収500万の個人事業主の方が断然ましだと考える、その価値観は、定年というものがない、また、若干の時代への対応を間違えさえしなければ、一生働くことも可能である。これは、価値観の問題でもあるが、人間死ぬまで働く、仕事を持つのが幸せであるという風に考える人間でもあるようだ。
真の≪帰宅部≫とは、生涯組織には属さない気質が根底にある部族である。
私が最も愛好する中国の詩人、それは、陶淵明である。『帰去来辞』など、私が、I&Yホールディングを辞した心境と重なってもくる。
私が、帰宅部でいた最大の要因、それは、自営業者の家庭・家族、そして親戚が身近にあったことが挙げられよう。もの心がついて以来、保育園から17才までは、パン製造小売業、並びに、洋菓子店を経営する家庭環境が大きく左右してもいた。同年代の友人より、住み込みの職人さんや当時、江戸川区で最大の米穀店を営んでいた本家の親族、そして従兄たちと過ごす時間の方が断然心躍らさせたことが大きかったように思う。また、両親の離婚以後、石巻での5年近くは、母方の親族の“お茶と瀬戸物”を商う、伯父・叔父、従兄たちが周囲にいたことも、サラリーマン家庭と放課後の部活動といった典型的な核家族の家族の肖像など無縁でもあり、現実感として心を躍らせなかった現実、それが大でもあった。
これは、あくまでも私的な一般論ではあるが、両親が勤め人、そして我が家に帰ると、何も楽しいものがない(?)鍵っ子に限り、学校での部活動に夢中になるような傾向があると思われる。彼らは、夏休みでも、夏休みがなきに等しい生活を送る。部活で校門を毎日8月の暑い中通り過ぎることを苦としない、むしろ、夏休み不要派とさえ言える部族である。
実は、こうして涵養された、私の商いっ子気質が、ある意味で、バブル華やかなりし時代、苦学生(?)もどき、いや、住み込みの新聞奨学生として、浪人時代を含め5年もの長きにわたり昭和末期の勤労学生の境涯を何ともしない精神状態を維持させてもくれていたようである。
これは、2年ほどの大手企業勤めを、そのサラリーマン生活から離れさせる気質にも通底していたように思われる。それは、社会人時代、東京の北千住のワンルームマンションから会社のある勤務地へスーツ姿で混雑する電車内で、よく、次のように実感した光景が思い出されてもきた。勤め人から足を洗わせた最大の自身の気質でもある。
学生時代、持ち回りの新聞配達区域に、ちょうど京浜急行の南太田と黄金町の高架線が、大岡川沿いを走ってもいた。晴の日は、もちろんだが、大雨の降るなか、雨合羽を着て業務用自転車をこぎながら、朝6時前後のすし詰めの車内を見上げながら、「あんな、ラッシュの電車での通勤は肌に合わないな!」と述懐したものである。やはり、「サラリーマン生活など、何か憂鬱だな!」と予感されてもいたようである。
こうした気質は、個人営業の飲食店の店主などが、夕刻以降の顧客のために、早朝から仕込み、買い出しなどして、その勝負の時間帯に備えるという生活リズムが水に合うものである。向こうから、お客が赴いてくれる営業手法が、肌に合っているというのは、両親譲りの資質かもしれない。
こうした精神風土からして、短期ではあるが、大手予備校勤めが肌合わず、自身で、その教材なりをこしらえて、オーダーメイドの授業を行う、それも、向こうから赴いてくれる、その責任は100%自己責任でもある。教員や塾・予備校講師は、こちらから、その学校や駅近辺の塾・予備校の教室・校舎へ赴くスタイルでもある。
勤め人スタイルの教師や講師は、生徒のフィルターを通して、それも、バカか利口かおかまいいなしに、評定をつけられる、企業における人事評定に近いものが存在する。こうしたものが、自身の性格はもちろん、色々な意味で、理不尽に思え、ストレスにすらなることが多い。「お客様は神様です」ではないが、「客は絶対である」という論理から、生徒は正しい、それに合わせない、適応しない教師・講師は、減点の評価をなされる、それが、学校運営のみならず、大手の教育産業のビジネス論理でもある。それも数十名から数百名を相手に授業をしても、その後、その教え子との一生のつながりなど薄いものである。しかし、10名以下で行う、オーナー(塾経営者)にして職人(講師)の個人営業主は、廃業するまで、顧客(生徒〔教え子〕)とのつながりが続くことが多く、その絆も深い。有名ホテルのイタリアンやフレンチのコックが独立し、オーナーシェフやオーベルジュの主になる所以もここに存するのである。前者の身分だと、毎朝通勤、そして、定年もあり、自身の作った料理が、客には不明である。一方、後者の立場であると、自身の生活リズムに合わせ起床もでき、素材や料理の仕方も自身の裁量で自在である。それで失敗すれば自己責任で、自身は100%納得もする。さらに、定年など存在しない。体が元気なうちは、働くも引退するも自由である。令和も後半になれば、定年は70歳ともなろう、ましてや年金支給の年齢も75歳以降になりかねない。勤め人には世知辛い世の中になりかねない。自身のスキルが通用する限り、定年はないのが個人営業主の世界である。
父方の親類や、母方の親族を見渡してみると、サラリーマンは一人としていなかった。個人営業主であった。これが、自身をサラリーマン生活になじませなかった大きな遺伝的要因であったと思われる。また、教員免許を有しながら、学校教員や大手予備校の講師など、そちらの方面にも、私を駆り立てなかった。水が合わなかったのである。つまり、価値観が、自由第一、生活第二と考える人間からすれば、週休2日で年収1000万の勤め人より、週休3,4日で我流で商売をし、また、好きなことを、好きな流儀で仕事をして年収500万の個人事業主の方が断然ましだと考える、その価値観は、定年というものがない、また、若干の時代への対応を間違えさえしなければ、一生働くことも可能である。これは、価値観の問題でもあるが、人間死ぬまで働く、仕事を持つのが幸せであるという風に考える人間でもあるようだ。
真の≪帰宅部≫とは、生涯組織には属さない気質が根底にある部族である。
私が最も愛好する中国の詩人、それは、陶淵明である。『帰去来辞』など、私が、I&Yホールディングを辞した心境と重なってもくる。
2022年11月14日 14:46