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歴史と経験 外山滋比古より

歴史と経験 外山滋比古
 
 歴史の相対性は言語に由来する。歴史が事実を反映していないのと同じように、ことばもそれがあらわそうとしているモノゴトを完全に再現できない。
 歴史自体が実際を反映していない上に、それを表現する言語がまた、対象をありのままに伝えるのではなく、抽象、比喩、暗示などによって象徴的に表現しているにすぎない。歴史は二重の制約を負わされているわけで、それを理解するには高度の知性を必要とする。
 そういう複雑な性格の歴史から多くのものを学びとるのはまさに知の巨人だけといってよいだろうが、中でもモンテーニュは際立っている。『エセー』には、古典、史書からの引用であふれている。自分は記憶がよくないなどと言うモンテーニュがこれだけ多くのことばを伝えているのは驚嘆に値する。
 日本では菊池寛がいる。みずから歴史好きだと言っているが、モンテーニュのように歴史のことばを引いたりはしない。人間形成の“かて”にしたと思われる。万事、外国風になった日本において、菊池寛は日本史に学ぶことで偉大な日本人になった。『話の屑籠』は何度読んでもおもしろい。
 注目されるのは、モンテーニュ、菊池寛ともに複雑、困難な経験をしていることである。はじめから歴史を学んだのではなく、若いころの生活経験によって賢くなり、その頭で歴史に学び、大成した。
 イギリスのカーライルが、経験は最高の教師である。ただし月謝が高い」と言っている。月謝の高い経験とは困苦の経験である。若い時の苦労はもっとも有効な教育で、知らず知らずのうちに知恵を身につける。そういう人間こそ、歴史からもっとも多く、大切なことを学ぶことが可能である。
                    文藝春秋2009年季刊秋号『賢者は歴史から学ぶ』より
 
 この外山氏の文脈で言わせていただくと、多くの高校生は、歴史を学んではいないと言える。ということは、現代の日本の高校生は、複雑、困難な経験をしていないということの同義でもある。
 今般、文科省は、高校1年生を対象に、歴所総合なる、近現代を世界史と日本史にリンクさせた新たな科目を必須にする改革を行ったが、まず、それを教える歴史の教師の力量はもちろんのことだが、それを学ぼうとする生徒のメンタルの幼さといったら、現場にいる者からすれば、極論ながら、“未成年に数千円のワインと数十万円をワインの利き酒”をせよといっているようなものと思えてならない。
 では、次回、この高校生と歴史の観点から、外山氏の主旨を中等教育のレベルで読みほどいてみたい。

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