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「蕎麦派?うどん派?」の問いからわかること

 蕎麦とうどんに関して、今回は述べてみたい。この食べものの対比・比較は、面白い他の、いろいろな側面があぶり出てくるからである。
 
経験値の狭隘による、趣向の決定
 
 教え子に、教室内で、「蕎麦とうどんではどちらが好き?」と質問すると、8割以上が「うどんが好き!」と応じてくる。こうした食の性癖は、当然ながら、食習慣が大きく作用する。また、東日本では、蕎麦派が多く、西日本では、うどん派が多いのも、四国を中心とした、小麦粉うどん文化圏の影響が大きい。
 
 世には、「君は蕎麦派?それともうどん派?」とはよく耳にするが、では、本来、「蕎麦、うどんではどちらが旨いか?」という問いは「蕎麦とうどんではどちら好き?」という質問とほぼ同じことを意味するが、本質的には同じではない。教え子も、うどんが“旨い”と思ってもいるから、思い込んでもいるから、「うどんが好き」と応じるわけでもある。
 
 「蕎麦とうどんでは、どちらが旨いか?」という問い立ては、パスタと焼きそば、ピラフとチャーハン、焼売と餃子、どちらが旨いか?さらに、フランス料理とイタリア料理では、中国料理と日本料理では、どちらが旨いか?そういった質問をするに等しい、本来はナンセンスな問いである。ある意味、どっちでもいい、あほくさい質問でもある。しかし、こうした問いへの返答というものは、本来が、最高のパスタと最高の焼きそば、最高のフランス料理と最高のイタリア料理を対等に、食してはいない、偏った食の習慣、いわゆる、料理経験から、優劣をつけているのが、一般的であり、現実でもある。それは、幼児の好きなもの代表は、ハンバーグやカレーといった毎週定期的に食卓に出される、“食べ慣れた”料理が“最高に幸福な”、それでいて、“ある程度旨い”料理と刷り込まれる経験と同じものである。<食の鎖国>が、その人にとっての、食の優劣や好嫌を決定しているといっても過言ではない。江戸の庶民が、開国以前、洋食や牛鍋の旨さを知らなかった現実と同じものである。
 
 昨年、ある教え子のH君(横市の医学部に合格した生徒)に、「蕎麦とうどんではどっちが好きだ?」と聞いたところ、「うどんです!」と答えてもきた。そこで、土曜日の研究科という、1人のマンツーマンの授業後に、私が、学生時代から通い続けてもいる横浜の蒔田にある蕎麦の名店に連れていった。「蕎麦ってこんなに旨いものなんですね!知らなかった。今日から僕は、蕎麦派になります」と、暖簾をくぐり出た後、こう語ってもくれた。
 
 自慢ではないが、私には、蕎麦愛好家として確信・自信に裏打ちされた味覚がある。蕎麦の名店は、東日本に限定だが、だいたい足を運んでもきた。このE屋が一番旨い蕎麦{※質・量・値段の正三角形のレーダーチャート図の得点票の観点から}を出す。超隠れた名店である。こんなに旨い蕎麦屋が、横浜の場末の蒔田という町にあることは、私にとっては、僥倖ですらある。フェイスブックなどを日ごろやってもいるが、このE屋は教えたくもない蕎麦屋である。地元では、知る人ぞ知る蕎麦の名店である。
 
 このH君は、蕎麦と言えば、日頃お母様が、台所で茹でて出す蕎麦、ちょうど、冷や麦、そーめん程度のものと思ってもいたらしい。また、<富士そば>や<ゆで太郎>のチェーン店のそば程度のものと思ってもいたようだ。また、うどんといえば、また家庭で出されるうどんか、せいぜい<丸亀製麺>のうどんくらいである。<丸亀製麺>以上のうどんとなると、そんじょそこらではお目にかかれない、口にありつけないのが実状だ。でも、満腹感では、蕎麦よりうどんが一般的に優る、それゆえ未成年の高校生に受けがいいのでもあろう。
 
 そもそも、蕎麦の名店とは、よく耳にするが、うどんの名店とは、聞きなれない。それは、江戸の庶民食の寿司が、今や、ピンからキリまである、そのピンの高級寿司店があるのと同様に、江戸時代からある蕎麦も、同じ階層(上中下)をいまでは出来上がってしまい、蕎麦の高級店(上)ともいっていい旨い蕎麦屋は、その店に出向かないかぎり、賞味できない現実がある。一方、うどんは、寿司や蕎麦ほど、ネタや素材といったものに関しては、そんなに大差はない小麦粉を原料としたものだ。せいぜい、うどんのコシ、のど越しと色つやで、生醤油に生卵のぶっかけうどんが、蕎麦のせいろそばに該当するが、後者ほど、千差万別の味わい感、食感、風味はないと断言できる。
 
 そこで、話しは変わるが、私見ながら、日本一旨い蕎麦と日本一旨いうどんを食べくらべてみれば、ほとんどの人は、前者のそばを旨いと答ええることは、想像に難くない。偏見と言われようが何と言われようが、自信をもってそう断言できる。それは、うどんは、小麦粉をこねて、出す。うどんにかけるその汁は、さほどこだわりがない点は、香川の行列ができる超有名うどん店のぶっかけうどんを見ても明らかである。値段もそう高価ではない。庶民派の料理である。しかし、蕎麦となると、そうは問屋がおろせない。蕎麦粉は、ピンからキリまであり、そばつゆ、これが、決め手である。
 
 “新茶”同様に、その季節がくると、<新そば>という文字の入ったのぼりを蕎麦屋の店先によく見かける。しかし、新小麦、いわば、新うどんとは全くもって言わない。聞き覚えがない。ここが決定的に、蕎麦が、旬野菜や旬魚同様に、旬を伴う食材であるという点を忘れている。
 いい蕎麦は出していても、蕎麦汁がいただけない名店は、ざらにある。よく、そばの風味を味わうために、「まず塩で食する!」「ちょっとだけそばつゆに浸して、食べるのが通だ!」そういった蕎麦の愛好家が、蘊蓄張りで口にする常套句は、批評家の、美食家の、グルメのディレッタントに過ぎない。やはり、蕎麦がもちろん旨い、さらに、蕎麦猪口に入っているそばつゆが濃厚であって、初めて、その蕎麦の旨さというもが、引き立つ、完結するのである。蕎麦の真の旨さとは、蕎麦とそばつゆが両輪が決め手なのだ。しかも、ある程度の量(ボリューム)がなければ減点である。箱根のそばの名店“はつ花”なんぞの、自然薯のとろろそばは確かに旨いが、量が、大盛にしても、E屋のとろろそばの並み以下の分量で、腹5分にも満たない、これでは、蕎麦が旨い名店とは、とてもではないが言えない。因に、値段が高すぎる、良心的な価格ではない、つまり、箱根という観光地を考えた上での、一見さん対象の高価格帯に設定してもいる。この“はつ花”は、横浜や東京の都会に出店しても、すぐに閉店に追い込まれるタイプの“旨い名店”でもある。だから、私は、日ごろ「観光地に“旨いもの”なし!」という言葉を大方信じてもいる旅行者である。蕎麦は庶民食で、懐石料理や高級フランス料理ではないのである。庶民の胃袋をある程度満たす要件が日本そばにはなくてならない。そりゃあ、蕎麦同士の味のくらべ合いや競争なら、その味だけで、量など関係ない。それは、蕎麦のコンテストであり、味だけ旨ければそれでいいというものではない。腹がある程度、満腹感を伴わなくてはならない。私にとってのそばの旨みの基準は、他流試合にも勝てなくてはならないということだ。ラーメンやパスタといった他の麺類と比較しても十二分に、満足感がともない、更に毎日食べても食べ飽きない、そして、旨い、この条件を備えていなければ、決して旨い蕎麦とは言えない。
 
 私のそばの旨さの条件である。第一条件は、蕎麦の質(※二八蕎麦が個人的には一番上手い!)、そして、第二条件は、そばつゆの濃さ(どれだけカツオと昆布からの出汁が取れているか)、第三条件は、蕎麦の盛られてある量、この三条件が十分に満たされた蕎麦屋こそ、そばの名店である。よく、テレビ等で、取りあげられる名店の蕎麦を見ると、量が少ない、酒と小料理・つまみで腹6分となったおやじが、ほろよい加減で、締めで食する蕎麦といった感が否めない。本当に旨い蕎麦は、サラリーマンが、昼食に食して十分に夕食まで胃袋を賄える分量と味が備わっていること、また、夕食時、家族でファミレス店で食する以上の満足感をもたらしてもくれる味と量があることが、必要十分条件なのである。
 
 そば同士の比較になるが、蕎麦は、二八蕎麦と十割蕎麦がある。「後者の方が、小麦粉がない分、そばの風味や香りが味わえて旨い!」とぬかす御仁がいるが、その部族は、食としてのそばではなく、鑑賞用、賞味用の対象として蕎麦を考えているに過ぎぬ。蕎麦の利き酒や蕎麦のソムリエ気取りの連中でもある。そういうやつらに言いたいい、「そんな蕎麦を、毎日毎日、朝昼晩の三度の食事に充てられるか?」と。私の長年通い詰めてもいる地元のE屋のそばは、毎日でも、三度の食事でも、食べ飽きない代物であり、箱根や浅草、高尾山や山形(蕎麦の消費量日本一)などの、日本各地にあるそばの名店に勝るともおとらぬ味なのである。
 
 余談ながら、このE屋は、すべの料理がうまい!カツ丼から天丼にいたるご飯もの、そしてカレーなど絶品である。蕎麦屋のカレーの典型的な旨さを、蕎麦屋のカレーの王道を行く、蕎麦屋の正統派のカレーとは、まさしく、「これだ!」と言わしめるものである。私なんぞは、東京などに遠出をして、蕎麦が食いたくなって、その地で、蕎麦屋を見つけても、また、デパートの食の名店街で、いかにも旨そうな店を見つけても、「おそらくハズレだろう!」と、思いこみ(8~9割は正解)、横浜の蒔田まで空腹を我慢して帰ってもくる。家庭では、美人で気立てのやさしい妻がいる夫が、決して浮気はしないメンタルと似たものがある。中村雅俊、三浦友和、などなどである(笑)。
 
 さて、本題にもどるとしよう。教え子のH君ではないが、特に、お母様が、家庭でしっかり、様々な料理を作り、子供たちに食べさせているご家庭であるようだ、そうしたご家庭に限り、この<蕎麦の食観>というものが、盲点にもなっているような気がする。家庭で、パスタやうどんを茹でて食する環境は、外食においても、そんなに遜色はないであろう。しかし、家庭で、蕎麦を茹でて食する環境は、外食において、比較する機会もその名店ででくわすチャンスもないのが現状でもあろう。
 この本当に旨い蕎麦屋にくわす確率は、本当に旨い寿司屋やイタリア料理店、フランス料理店に出会う確率より低い、その現実が、現代っ子を、そばから遠ざけ、うどんに親近感を抱かせ、「うどんが好き」と言わしめる原因にもなっているような気がしてならない。
 
 さて、“その蕎麦の名店に出くわす確率が低い”と申し上げたが、弊塾英精塾の手法、教え方、これは、まさしく、日本全国津々浦々を眺めても、おさらく、稀少にして、デジタル化時代、絶滅危惧種の英語塾ではないかと自負にして自認してもいるが、兎にも角にも、この点こそ、蒔田にある蕎麦の名店E屋ではないが、その魅力と通底しているようで仕方がない(笑)。
 
 10名以下、厳密には、8名を越えない人数で、大きな黒板を背に、対面授業、しかも、独自のオリジナル教材(プリント)を使用して、3時間弱のリアル授業を展開している。その3時間の授業時間の2時間以上は、私が、話しっぱなしの講義をする。ほとんどの個別指導塾、少人数形式の塾は、もくもくと、各自の持ち込んだ教科書・問題集やテキストをこなすだけの、ほぼ自習塾に近い。英精塾は、解らない時、講師に質問にゆく塾や、今大流行りの教えない塾(武田塾)とは、真逆を突き進んでもいる。「英語とは、どういう言語か?」「英語とは、こういう科目だ!」と、ちょうど、蕎麦の名店E屋で、蕎麦の旨さに刮目したH君ではないが、蕎麦の旨さ、英語の面白さ、それに気づかせてくれる店や塾が、世に知られていない現状から<蕎麦とうどんの対比論>を展開した。「うどんが旨い、東進の講師が巧い、臨海セミナーの講師が巧い、栄光ゼミナールや家庭教師のトライの講師が巧い」と思ってもいる中高生が多い現状と同じ、そうした<鎖国的>“味覚”・“思考”の持ち主が多いのが、ネット社会の令和という時代の姿でもあろうか?

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