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コラム
中高生と大学生では教え方が違う!?
先日、テレビ朝日で、池上彰と林修の初コラボ番組を観た。様々な話題とテーマに、やはり、教育や文学のジャンルでも、池上氏の方が、年の功もあり、ジャーナリストという立場上、一枚上手であった。
池上氏は、タレント活動には、ほとんど踏み入れず、自身の役どころに徹しているのに対して、林氏は、すでに、少子化もあり、ポスト予備校講師を見据えたタレント活動にシフト(専念)していることからも、池上氏に軍配があがるというのも当然である。
では、この番組で、特に、教育に関してのテーマになった段階でである。林氏が、東大の過去問を引用し、中世の大学では、本来、学ぶ動機のある者、研究のモチベーションが高い者、本来優秀な者、そうした人間のみが大学に入った、そういったことを例に挙げて、大学とは、本来そういうトポスである論を述べたあと、先生は、難しことを、そのまま講義しても、生徒は、必死に学んでいた、昔のアカデミズの経緯を披歴してもいた。
それに対して、池上氏は、最近の「難しいことを、わかりやすく、易しく語る風潮」をどう思いうかと、林氏に問い返していた。この現代の知的傾向というものに、近年池上氏は、自身の仕事柄、少々反省や自戒の念を込めて『わかりやすさの罠』という新書を出してもいて、最近の、池上氏の自己テーゼ(命題)でもあることがわかる。
池上氏自身、わかりやすさの危うさについて、こうした書籍も出していることもあり、自身のセールスポイントの“わかりやすさ”の危うさについて近年は、自重しての本でもあろう。最近の、学校、当然大学を含めてなのだが、わかりやすさを求める風潮をどう思うか、と、教育現場の真ん中のいる林氏に質問を振ったのでもあろう。ここからが、面白い。
「私は、仕事柄(予備校講師=塾講師)、難しいことを、分かりやすく説明しなければ、御はらい箱にある立場の者です。難しいをこと、難しいままにしていたら、クビですよ。」
そのように応じていた。更に、付け加えて、
「私は、幸いなるかな、自身の担当している生徒は、みな成績上位者(東大志望者)なので、そんな(難しいことを敢えて易しく話すという)心配はあまりしなくてもいいんです。」
「池上先生は、東工大で、優秀な生徒を教えてもいるので、難しいことを、そのまま教えても、学生はついてもくるし、ついてもこれる、しかし、私のような立場のものが、それをやった職を失いますよ。」
このように、池上氏自身が、期待していた返答をもらえなかった。日本一著名なジャーナリストは、「少々、肩すかしをくたいましたね」と苦笑いをしていたことが、非常に印象深かった。
このやりとりは、高等教育の大衆化を、あまり受けていない、旧帝大、東工大や一橋などの“実力大学”と、高校の延長線上にあるとさえ言ってもいい“一般大衆大学”など同一線上に論じるから、このような、“猪木・アリ戦”ともなるのである。
ある意味で、東工大というエリート校で、客員教授をされている池上氏と、大学受験を控えた、一般高校生を相手に、ある意味、サービス業ともいえる、一予備校講師が、大衆化してもいる高等教育から中等教育にかけて議論をすると、こういう結論に至るのは、自民党の政治家から文科省の役人、そして、一部の知識人(安西祐一郎など)までがかかわるから教育論議のダッチロール現象が起こるのに似て非ではない。センター試験から大学入学共通テストへの改革、また、民間の英語の資格系試験の導入、東京の都立高校入試にスピーキングテストの導入、などなどを見ても明々白々である。
これは、私が、よく引用する例だが、歴史の年代をゴロで覚える行為は、天才から秀才にかけては、無用の長物である。そうした手法は、準秀才から凡才にかけての生徒が、自身の知的レベルに下駄をはかせる行為、月並みの顔立ちの女性の厚化粧程度のものである。本来、ギフティットともいえる記憶力や理解力のある者、本来、肌がきれい、また、顔立ちが整ってもいる女性なら、化粧など不要であるという真実と同じものがある。
化学の、あの有名な「水兵リーベ、僕の船…」を例に挙げよう。戦前の、旧帝大の教授におさまるくらいの旧制中学や旧制高校の秀才・天才なら、化学の、あの有名な「水兵リーベ…」など不要でもあったであろう。中等教育の大衆化の象徴が、あの「水兵リーベ…」の知名度の上昇でもあったような気がする。そうした、歴史のゴロや理科の「水兵リーベ…」などは、本来は、中世の大学から19世紀の大学にかけて、不要でもあっただろう。これは、ある意味、塾・予備校・家庭教師が不要の天才(養老孟司・内田樹・茂木健一郎など)と底辺で一脈通じるものがある。
この勉強上の、ゴロなどのテクニックが、今や、英数国理社全体に蔓延している。あの東大クイズ王の伊沢拓司も推奨している、某出版社の“マンガで学ぶ日本史・世界史”など類は、まさしく、そうした21世紀の、<令和の学びの象徴>もであろうか。
学びにおける分かりやすさの追求は、恐らく、日本が、群を抜いているような気がする。英語の参考書などは、韓国で多数翻訳されてもいるようである。あの、日本以上に、学歴・勉強の下剋上の風潮が強い韓国において、この日本における分かりやすさのお勉強のバイブルは、ちょうど、日本の化粧品が、中国などのアジア諸国で支持されている風潮と“似て非なるもの”の逆ではないが、“非なるが似ているもの”と言わざるをえない。(つづく)
池上氏は、タレント活動には、ほとんど踏み入れず、自身の役どころに徹しているのに対して、林氏は、すでに、少子化もあり、ポスト予備校講師を見据えたタレント活動にシフト(専念)していることからも、池上氏に軍配があがるというのも当然である。
では、この番組で、特に、教育に関してのテーマになった段階でである。林氏が、東大の過去問を引用し、中世の大学では、本来、学ぶ動機のある者、研究のモチベーションが高い者、本来優秀な者、そうした人間のみが大学に入った、そういったことを例に挙げて、大学とは、本来そういうトポスである論を述べたあと、先生は、難しことを、そのまま講義しても、生徒は、必死に学んでいた、昔のアカデミズの経緯を披歴してもいた。
それに対して、池上氏は、最近の「難しいことを、わかりやすく、易しく語る風潮」をどう思いうかと、林氏に問い返していた。この現代の知的傾向というものに、近年池上氏は、自身の仕事柄、少々反省や自戒の念を込めて『わかりやすさの罠』という新書を出してもいて、最近の、池上氏の自己テーゼ(命題)でもあることがわかる。
池上氏自身、わかりやすさの危うさについて、こうした書籍も出していることもあり、自身のセールスポイントの“わかりやすさ”の危うさについて近年は、自重しての本でもあろう。最近の、学校、当然大学を含めてなのだが、わかりやすさを求める風潮をどう思うか、と、教育現場の真ん中のいる林氏に質問を振ったのでもあろう。ここからが、面白い。
「私は、仕事柄(予備校講師=塾講師)、難しいことを、分かりやすく説明しなければ、御はらい箱にある立場の者です。難しいをこと、難しいままにしていたら、クビですよ。」
そのように応じていた。更に、付け加えて、
「私は、幸いなるかな、自身の担当している生徒は、みな成績上位者(東大志望者)なので、そんな(難しいことを敢えて易しく話すという)心配はあまりしなくてもいいんです。」
「池上先生は、東工大で、優秀な生徒を教えてもいるので、難しいことを、そのまま教えても、学生はついてもくるし、ついてもこれる、しかし、私のような立場のものが、それをやった職を失いますよ。」
このように、池上氏自身が、期待していた返答をもらえなかった。日本一著名なジャーナリストは、「少々、肩すかしをくたいましたね」と苦笑いをしていたことが、非常に印象深かった。
このやりとりは、高等教育の大衆化を、あまり受けていない、旧帝大、東工大や一橋などの“実力大学”と、高校の延長線上にあるとさえ言ってもいい“一般大衆大学”など同一線上に論じるから、このような、“猪木・アリ戦”ともなるのである。
ある意味で、東工大というエリート校で、客員教授をされている池上氏と、大学受験を控えた、一般高校生を相手に、ある意味、サービス業ともいえる、一予備校講師が、大衆化してもいる高等教育から中等教育にかけて議論をすると、こういう結論に至るのは、自民党の政治家から文科省の役人、そして、一部の知識人(安西祐一郎など)までがかかわるから教育論議のダッチロール現象が起こるのに似て非ではない。センター試験から大学入学共通テストへの改革、また、民間の英語の資格系試験の導入、東京の都立高校入試にスピーキングテストの導入、などなどを見ても明々白々である。
これは、私が、よく引用する例だが、歴史の年代をゴロで覚える行為は、天才から秀才にかけては、無用の長物である。そうした手法は、準秀才から凡才にかけての生徒が、自身の知的レベルに下駄をはかせる行為、月並みの顔立ちの女性の厚化粧程度のものである。本来、ギフティットともいえる記憶力や理解力のある者、本来、肌がきれい、また、顔立ちが整ってもいる女性なら、化粧など不要であるという真実と同じものがある。
化学の、あの有名な「水兵リーベ、僕の船…」を例に挙げよう。戦前の、旧帝大の教授におさまるくらいの旧制中学や旧制高校の秀才・天才なら、化学の、あの有名な「水兵リーベ…」など不要でもあったであろう。中等教育の大衆化の象徴が、あの「水兵リーベ…」の知名度の上昇でもあったような気がする。そうした、歴史のゴロや理科の「水兵リーベ…」などは、本来は、中世の大学から19世紀の大学にかけて、不要でもあっただろう。これは、ある意味、塾・予備校・家庭教師が不要の天才(養老孟司・内田樹・茂木健一郎など)と底辺で一脈通じるものがある。
この勉強上の、ゴロなどのテクニックが、今や、英数国理社全体に蔓延している。あの東大クイズ王の伊沢拓司も推奨している、某出版社の“マンガで学ぶ日本史・世界史”など類は、まさしく、そうした21世紀の、<令和の学びの象徴>もであろうか。
学びにおける分かりやすさの追求は、恐らく、日本が、群を抜いているような気がする。英語の参考書などは、韓国で多数翻訳されてもいるようである。あの、日本以上に、学歴・勉強の下剋上の風潮が強い韓国において、この日本における分かりやすさのお勉強のバイブルは、ちょうど、日本の化粧品が、中国などのアジア諸国で支持されている風潮と“似て非なるもの”の逆ではないが、“非なるが似ているもの”と言わざるをえない。(つづく)
2023年8月29日 17:21