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コラム
英文法・古典文法の大切さ
高校から本格的に学ぶ古典(古文)というものを、同じ日本語だから、古語をなんとなく意味がわかるから、そういった、一種甘ちゃん的心持で、古典に対峙すると、いつまでたっても苦手科目となる。学校の定期テストで丸暗記するスタイルでは、その場しのぎはできても、古文に限らず英語でも、大手予備校の模試では高得点が望めない。雑然と、中途半端に、古典文法と付き合ってきたつけが高校3年で顕在化する。これは、本人の責任よりも学校の国語の教師の責任か、もしくは、本人の自覚の有無によるものである。教える側の古典文法観、学ぶ側の古典文法観、それらが、明確となっていない、曖昧なる先送り精神に、ことの原因がある。
極論だが、伊藤博文が作成した大日本国憲法の理念(立憲君主制=憲法の下に天皇は政治的に存する)を曲解し、天皇機関説を否定して、軍国主義の昭和へと突入し、国を滅亡させた人々と同じメンタルを、個人的レベルにおろせば、受験という闘いの状況下(模試や入試)で古典文法に拠る精確なる読みをせず、共通テストや私大の古文で躓く高校生がダブっても見えてくる。
中学からやはり本格的に学ぶ英語というものを、同じ日本語同様、人間が話す言語だからといった{※赤ちゃんは、幼児は、文法など知らなくても英語が話せるようになったといった神話を信じる人々}、極楽とんぼ的、平和共存主義的、人間はみな同じ的理想論に立脚した、英文法を軽視、いや、あまりこだわらなくていい的、習うより慣れろ的教育手法で、教えられ、また、学んでもいる少年少女に関して言えることだが、彼らは、初級レベルから中級レベルへと脱皮できない。
昭和の社会党全盛期、石橋政嗣衆議院議員が、『非武装中立論』で、日本の平和が維持できるとほざいた政治家の気質と英文法不要論で、英語が伸びると主張する英語学者の白痴度は同類である。
ましてや、上級レベルといった、仕事で使う、ビジネスに関与する“真の使えるレベル”にまで到達などできない。これは、中学生レベルの数学・理科の知識で、一級建築士の、公認会計士の、そういった難関資格試験に合格しようとするようなものである。
「英語に限らず、言語の習得には文法は最強の武器。文法抜きで言語を学ぶのは、素手で虎と闘うようなもの」(元駿台英語講師飯田康夫)でもあろう。
再度、同じことを言わせていただくと、しっかりとした英文法なくして英語を学ぶは、戦前の大日本帝国憲法の如き、名ばかり立憲君主制ともなり、その内部が空洞化し、軍部大臣現役武官制の怪物がうごめき、統帥権干犯問題が幅を利かせたりで、結局は、シビリアンコントロールが効かぬ、昭和天皇も希求された立憲君主制など確立せず、日本が灰燼に帰した運命は、その英文法を軽視した生徒のその後の英語の行く末と同じもの、英語力が水泡と帰す運命を暗示せずにはいられない。
ここで、古典文法にしろ、英文法にしろ、その古文や英文に向き合う際のメンタルの問題点を語ってみよう。
高校生の古典に向き合う一般論とやらを申し上げる。古文も現代文も、同じ日本語である。また、英語も日本語も、同じ言語である。よって、現代日本語を知ってもいる、それゆえ、同じ日本人なので、昔もそんなに違いはないんじゃないのといった先延ばし楽観論的学びの精神が、17~8歳の高校生に根差してもいる。また、日本語を空気のように、自然に話しもするので、空気のように、同じ人間が話す言語だから、英語を学ぶ際に、英文法なんて、そんな真面目に勉強しなくても、自然と話せるように、適当に読めるようになるじゃないかといった、ぼんぼん気質的学びの精神が内面を覆ってもいる。
しかし、人性論的に言えば、人は、物事は、すべて同じであるはずもなく、すべてが違う、異なっているという強烈なる自覚的精神からスタートしなくてはならない。その真実を見誤ってもいるのが、文法軽視者の病巣、即ち、悪しき精神でもある。
この、すべて同じであると、物事を甘く考えている論者こそ、巷のハウツー本を読み、自己啓発のセミナーに参加する‘学びの敗者’なのだ。カリスマホストのRolandも語っていたが、「ハウツー本を買う奴は、宝くじを買う人間と同じ」~この名言は、Roland本を購入するファンにも該当する、皮肉なことに、教祖Rolandの読者を、自身の信者をバカにしているという矛盾性を孕む~
外国人の富士山弾丸登山は、つとに有名だが、ビーサンの短パンTシャツ姿で、成功する者もいるが、多くは、後悔、山小屋で保護される。人生を富士山登山に喩えるなら、なめてもいる外国人である。この部族、文法軽視者とダブる。
みんなと同じに感じる、考える、これが集団主義{※『大衆の反逆』(オルテガ)で痛烈に批判している}、みんなと違うと感じる、考える、これが個人主義の根幹でもある。会社レベルで考えると、低価格とファション性ならユニクロには敵わないと、低価格と機能性で勝負だと決断して近年急成長を遂げえもきたワークマン、これなんぞも、自社は他社とは違うという発想、そしてその基準から成功した例でもある。
この参考書で、この予備校で、こうした方法で、私は合格した、成績が伸びた云々の言説は、自身と他人とをダブらせたい、被らせたい無意識的行動である。他者の方法で自身を成功させよう、そうした安直で、安楽な手法ともいっていい。それは、安易な投資信託で、そこそこ微々たる利益で儲かった一般のサラリーマンや主婦、一方、自身の嗅覚と判断で、自身の好みの株を、個別に買って儲けている投資家との違いといってもいい。真の意味での、他力と自力の違いである。宗教ならいざ知らず、人生の道を開拓する上で、自力の意義を説いて、諭してもいる賢者は、福澤諭吉からアントニオ猪木まで数多くいる。聞いて納得するは安し、行うは難し、これ、受験勉強から金融投資にいたるまで普遍性を帯びる、同じである。まず、人生の道とは、学びの道とは、まず、物事から人間に至るまで同じではなく、違うという自覚・見地から踏み出さなくてはならない。その事例は、古文から英語に至るまで、その差異、溝、こうしたものを埋めてくれるものが、古典文法、英文法である。そのことに、近年、忘れ去られてもいる現象から、日本人は馬鹿になってきた、一つの証左でもあろうか。何も、スマホやパソコンが世の人間の白痴化を推進しているわけではないのである、こうした、物事は、人間は、学びとは、同じと考える病巣的精神が、それこそが、日本の停滞の根底にある原因とは誰も指摘しようとしない。この大衆心理の象徴が、ユニクロの台頭でもある。
実人生には、男と女が存在する。自然界には、陸地と海とが現にある。軍隊にも、今や、陸軍、海軍、空軍{※海兵隊といったものすらある}と組織上ある。
歌舞伎、宝塚、そして全ての演劇界(映画界)といったものから、男子校、女子校、そして共学校と、ジャンル分け、差異の認識というものが社会的慣例として現にある。
世の中、差別は無論いけないが、区別は必要である。現今、LGBTQ問題とリンクしているやも知れないが、ユニセックスの衣服から女子高生のズボン(スラックス)着用まで、当然、‘ことば狩り’も含まれようが、差異というものが、否定される趨勢にあって、この差異という現実を否定、見ようとしない精神的風潮が、文法軽視の学習上の流れと、根底でつながっているようで仕方がないのである。この観点で、社会学者、心理学者、教育学者などが調査研究してもいいテーマとも思うのだが、私が、高校生や大学生なら、いま、こうしたアングルで、社会学という、教育学という、学際的な切り口で研究してもみたい社会的命題ではある。
古文、英文に限らず、文法は、≪差異の架け橋≫。この差異に気づかぬ者(学習者)は、差異の川で溺れるものである。溺れかけて、死にかけた経験のある者こそが、その川に橋を架ける土木技術(建築技法)、また、その川を泳ぎ切る泳法を強烈に意識する。これぞ、≪文法という武器≫なのである。
洋の東西を問わず、文法の存在意義、文法の効力・底力が、そもそも分からぬ、軽視する者は、我流というイデオロギーで、理性的リテラシーという慧眼を捨て去った部族である。
※余談ながら、こうした切り口で、英語教育論を展開している書が、幣著『英語教師は<英語>ができなくてもよい!』である。興味ある方は、是非一読をお薦めする。
極論だが、伊藤博文が作成した大日本国憲法の理念(立憲君主制=憲法の下に天皇は政治的に存する)を曲解し、天皇機関説を否定して、軍国主義の昭和へと突入し、国を滅亡させた人々と同じメンタルを、個人的レベルにおろせば、受験という闘いの状況下(模試や入試)で古典文法に拠る精確なる読みをせず、共通テストや私大の古文で躓く高校生がダブっても見えてくる。
中学からやはり本格的に学ぶ英語というものを、同じ日本語同様、人間が話す言語だからといった{※赤ちゃんは、幼児は、文法など知らなくても英語が話せるようになったといった神話を信じる人々}、極楽とんぼ的、平和共存主義的、人間はみな同じ的理想論に立脚した、英文法を軽視、いや、あまりこだわらなくていい的、習うより慣れろ的教育手法で、教えられ、また、学んでもいる少年少女に関して言えることだが、彼らは、初級レベルから中級レベルへと脱皮できない。
昭和の社会党全盛期、石橋政嗣衆議院議員が、『非武装中立論』で、日本の平和が維持できるとほざいた政治家の気質と英文法不要論で、英語が伸びると主張する英語学者の白痴度は同類である。
ましてや、上級レベルといった、仕事で使う、ビジネスに関与する“真の使えるレベル”にまで到達などできない。これは、中学生レベルの数学・理科の知識で、一級建築士の、公認会計士の、そういった難関資格試験に合格しようとするようなものである。
「英語に限らず、言語の習得には文法は最強の武器。文法抜きで言語を学ぶのは、素手で虎と闘うようなもの」(元駿台英語講師飯田康夫)でもあろう。
再度、同じことを言わせていただくと、しっかりとした英文法なくして英語を学ぶは、戦前の大日本帝国憲法の如き、名ばかり立憲君主制ともなり、その内部が空洞化し、軍部大臣現役武官制の怪物がうごめき、統帥権干犯問題が幅を利かせたりで、結局は、シビリアンコントロールが効かぬ、昭和天皇も希求された立憲君主制など確立せず、日本が灰燼に帰した運命は、その英文法を軽視した生徒のその後の英語の行く末と同じもの、英語力が水泡と帰す運命を暗示せずにはいられない。
ここで、古典文法にしろ、英文法にしろ、その古文や英文に向き合う際のメンタルの問題点を語ってみよう。
高校生の古典に向き合う一般論とやらを申し上げる。古文も現代文も、同じ日本語である。また、英語も日本語も、同じ言語である。よって、現代日本語を知ってもいる、それゆえ、同じ日本人なので、昔もそんなに違いはないんじゃないのといった先延ばし楽観論的学びの精神が、17~8歳の高校生に根差してもいる。また、日本語を空気のように、自然に話しもするので、空気のように、同じ人間が話す言語だから、英語を学ぶ際に、英文法なんて、そんな真面目に勉強しなくても、自然と話せるように、適当に読めるようになるじゃないかといった、ぼんぼん気質的学びの精神が内面を覆ってもいる。
しかし、人性論的に言えば、人は、物事は、すべて同じであるはずもなく、すべてが違う、異なっているという強烈なる自覚的精神からスタートしなくてはならない。その真実を見誤ってもいるのが、文法軽視者の病巣、即ち、悪しき精神でもある。
この、すべて同じであると、物事を甘く考えている論者こそ、巷のハウツー本を読み、自己啓発のセミナーに参加する‘学びの敗者’なのだ。カリスマホストのRolandも語っていたが、「ハウツー本を買う奴は、宝くじを買う人間と同じ」~この名言は、Roland本を購入するファンにも該当する、皮肉なことに、教祖Rolandの読者を、自身の信者をバカにしているという矛盾性を孕む~
外国人の富士山弾丸登山は、つとに有名だが、ビーサンの短パンTシャツ姿で、成功する者もいるが、多くは、後悔、山小屋で保護される。人生を富士山登山に喩えるなら、なめてもいる外国人である。この部族、文法軽視者とダブる。
みんなと同じに感じる、考える、これが集団主義{※『大衆の反逆』(オルテガ)で痛烈に批判している}、みんなと違うと感じる、考える、これが個人主義の根幹でもある。会社レベルで考えると、低価格とファション性ならユニクロには敵わないと、低価格と機能性で勝負だと決断して近年急成長を遂げえもきたワークマン、これなんぞも、自社は他社とは違うという発想、そしてその基準から成功した例でもある。
この参考書で、この予備校で、こうした方法で、私は合格した、成績が伸びた云々の言説は、自身と他人とをダブらせたい、被らせたい無意識的行動である。他者の方法で自身を成功させよう、そうした安直で、安楽な手法ともいっていい。それは、安易な投資信託で、そこそこ微々たる利益で儲かった一般のサラリーマンや主婦、一方、自身の嗅覚と判断で、自身の好みの株を、個別に買って儲けている投資家との違いといってもいい。真の意味での、他力と自力の違いである。宗教ならいざ知らず、人生の道を開拓する上で、自力の意義を説いて、諭してもいる賢者は、福澤諭吉からアントニオ猪木まで数多くいる。聞いて納得するは安し、行うは難し、これ、受験勉強から金融投資にいたるまで普遍性を帯びる、同じである。まず、人生の道とは、学びの道とは、まず、物事から人間に至るまで同じではなく、違うという自覚・見地から踏み出さなくてはならない。その事例は、古文から英語に至るまで、その差異、溝、こうしたものを埋めてくれるものが、古典文法、英文法である。そのことに、近年、忘れ去られてもいる現象から、日本人は馬鹿になってきた、一つの証左でもあろうか。何も、スマホやパソコンが世の人間の白痴化を推進しているわけではないのである、こうした、物事は、人間は、学びとは、同じと考える病巣的精神が、それこそが、日本の停滞の根底にある原因とは誰も指摘しようとしない。この大衆心理の象徴が、ユニクロの台頭でもある。
実人生には、男と女が存在する。自然界には、陸地と海とが現にある。軍隊にも、今や、陸軍、海軍、空軍{※海兵隊といったものすらある}と組織上ある。
歌舞伎、宝塚、そして全ての演劇界(映画界)といったものから、男子校、女子校、そして共学校と、ジャンル分け、差異の認識というものが社会的慣例として現にある。
世の中、差別は無論いけないが、区別は必要である。現今、LGBTQ問題とリンクしているやも知れないが、ユニセックスの衣服から女子高生のズボン(スラックス)着用まで、当然、‘ことば狩り’も含まれようが、差異というものが、否定される趨勢にあって、この差異という現実を否定、見ようとしない精神的風潮が、文法軽視の学習上の流れと、根底でつながっているようで仕方がないのである。この観点で、社会学者、心理学者、教育学者などが調査研究してもいいテーマとも思うのだが、私が、高校生や大学生なら、いま、こうしたアングルで、社会学という、教育学という、学際的な切り口で研究してもみたい社会的命題ではある。
古文、英文に限らず、文法は、≪差異の架け橋≫。この差異に気づかぬ者(学習者)は、差異の川で溺れるものである。溺れかけて、死にかけた経験のある者こそが、その川に橋を架ける土木技術(建築技法)、また、その川を泳ぎ切る泳法を強烈に意識する。これぞ、≪文法という武器≫なのである。
洋の東西を問わず、文法の存在意義、文法の効力・底力が、そもそも分からぬ、軽視する者は、我流というイデオロギーで、理性的リテラシーという慧眼を捨て去った部族である。
※余談ながら、こうした切り口で、英語教育論を展開している書が、幣著『英語教師は<英語>ができなくてもよい!』である。興味ある方は、是非一読をお薦めする。
2023年10月30日 21:58